舌がん体験者 實原 和希さん


  • [公開日]2016.11.01
  • [最終更新日]2020.03.04

名前:實原 和希(じつはら かずき)
年齢:27歳
性別:男性
居住:東京
職業:事業主
がん種:舌がん経験者

今回、オンコロさんから、がん体験談募集のお話をいただきました。罹患してから2年弱経ちますが、自分自身でこの貴重な経験を振り返る良いチャンスだと思い、書かせていただきます。読んでいただいた方に、がんについて少しでも何か感じてくれたら嬉しいです。最初に申し上げますが、長くなりますのでお時間ある際にお読みください。

始まりは、“いつもの”口内炎

発症したのは私が25歳の時でした。私の実家は埼玉県ですが、保険会社に就職した私は、いわゆる転勤族。新卒で入社してすぐに福岡県北九州市に赴任。そして、翌年から佐賀県伊万里市に転勤し、社会人3年目を迎えていました。両親は埼玉の実家、6つ離れた兄がいますが海外に住んでいるので、4人家族ですが当時の生活拠点は親子バラバラでした。

舌がんの自覚症状を感じはじめたのは、2014年10月中旬です。もともと口内炎ができやすい体質だったので普段はあまり気にしないのですが、なぜ時期まで覚えているかというと、赴任先の伊万里市のお祭りの期間中だったからです。伊万里での生活も2年目に入り、仕事もプライベートもとにかくエンジョイしていました。特にこの祭りの時期は、地域の方々と毎日のように酒を酌み交わして最高に楽しい時期でした。しかし、この時に舌の右側に大きめの口内炎ができていて、神輿を担いで掛け声を叫ぶたびに、若干の痛みを感じていたことを覚えています。
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※筆者は手前真ん中です。歴史ある伊万里のトンテントン祭りです。

診察を受けるまで

「もしかしたらがんなのかもしれない」と思い始めたのは、12月に入ってからです。
いつもなら1~2週間で治る口内炎が、2か月近く経っても治らないので、さすがにおかしいと思い、ネットで『2か月 口内炎 治らない』と入れて検索をしました。するとすぐに舌がん情報がたくさん出てきました。画像検索をしてみても、鏡で見る自分の舌と瓜二つ。「いや~、まさかね…」と、少し不安はありましたが、周りに相談することも特になく、ほったらかしにしていました。がんと宣告されたらテレビドラマみたいな涙のシーンがあるのだろうか、周りにどうカミングアウトしたらカッコいいか、など変な想像をしながら過ごしていました。

そんな私に診察に行くきっかけを作ってくれたのは、歯科衛生士の女の子との出会いです。
12月末、祭りでお世話になった方の誕生日会を公民館でした時の話です。たまたまその歯科衛生士の子と一緒の席になった時間がありました。彼女は19歳ということでお酒も飲まずシラフでしたが、酔った私は「ちょっと気持ち悪いけど、お兄さんの舌を見てくれないかな~?」と患部を見せました。すると、『うち来たほうがよかですよ、口腔外科もしとるけん』とアドバイスをくれたのです。方言が可愛くてナイスでした。今でもその子には本当に感謝しています。すぐにその歯科に行き診てもらったところ、『紹介状を書くから佐世保の大きな病院で検査を受けなさい』と言われました。しかし、病院も年末年始の休みに入るので、その検査は年明けとなり、私は実家に帰って過ごしました。

告知される前に確信した“がん”

正月実家に帰った時に、家族には「舌のでっかい口内炎が全然治らなくて、やばいかもしれないんだよね~」と軽く伝えていました。正月休み明け、長崎県佐世保市の病院に行き、患部を見た先生に『とりあえず、これから6つの検査を受けてもらいます。血液検査、胃カメラ、超音波、CT、MRIPET検査です。』と言われました。あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、PET検査と聞いたときに、「やばい」と思いました。保険会社に勤めていたこともあり、PET検査というものが、がん細胞の有無“だけ”を調べる検査だということも知っていました。この時上司だけに「がんかもしれません」と伝えました。当時勤めていた職場は、私とこの上司が男2人、あと女性8名の計10名と小さな支社でした。

それぞれの検査は別の日に行われ、PET検査は初診から10日後、最後の検査でした。診察していた病院はPET検査の機械がなかったので、外部機関での診察となりました。この日、私はがんを確信することになります。まず検査前のカウンセリングで年配の看護師さんに『若いのに大変ね~』と言われました。
「いやいやそれ絶対言っちゃいけんやつやん!」と心の中でツッコミを入れながら検査に入りました。私ががんを確信したのは会計の時です。PET検査が通常健康保険適用外で約10万円かかること、そして、がんが確実と判断され、進行度や転移の有無を診るための検査であるなら逆に健康保険適用で3割負担になることを知っていました。出された領収書の金額は、「3万円」でした。もう受け入れて治すことを考え始めるしかありません。

手術という選択肢は到底ありませんでした

保険会社にいながら恥ずかしいことですが、自分でも加入したことを忘れていた小さな医療保険があり、その保険には先進医療特約がついていました。本来300万円ほどかかる陽子線治療や重粒子線治療の費用が丸々出るものです。
佐賀には重粒子線がん治療センターもあり、見学にも行ってきたばかりで、職場や家族にも、「先進医療で切らずに治せるから大丈夫!最新のビーム光線、自ら体験してきます!今の医療ハンパないから安心してください!」と自信満々に公言していました。上司がとても協力的で、実家に近い所で舌癌の陽子線治療を受けられる病院を調べてくれ、予約まで取ってくれました。後日、佐世保の病院でPET検査の結果、案の定、がん(の可能性が極めて高いという言い方をされましたが)の告知をされました。紹介状をすぐに書いてもらい、実家に戻りました。両親は気が気じゃなかったと思いますが、この時点では、私自身はかなり楽観視していました。きっと転移もないだろう、軽く陽子線を当てるだけで、結局終わってみれば面白みもないくらい、大したことなかったな~という結果に終わるんだろう、と。

初めて親を連れて行った診察でリンパ節転移の宣告

陽子線治療を受けるため、上司が予約してくれた病院に行きました。“がん”という言葉にショックを受けている親にも安心してもらおうとも思い、父親と一緒に行きました。ここで先生からいきなり『首のリンパ節に転移しています』と言われました。おいおいマジかよ…大したこと、あるじゃねーか。。。後ろで聞いていた父親の表情は見えませんでしたが、動きがピタリと止まったのがわかりました。佐世保で受けたPET検査の画像を先生と父と3人で見ました。確かに舌も光ってましたが、それよりも首周辺が何と神々しく光り輝いていること。。『どの医者が見ても、これはリンパ節転移だと断言します』と言われました。合わせて、『年齢も若いので放射線系の治療はお勧めしない、なぜなら放射線は切り取らないため当然再発リスクが高く、さらに一部位に一度しか当てられないので、もし再発した場合放射線は使えず、もっと大きく手術で取り除かなければいけなくなる。また、若いと進行や転移も早いので、首の次は肺などの臓器へリスクは広がります。まずは早期に手術で腫瘍を切ってしまうことをお勧めします』とのこと。

舌を失って食事を楽しめない人生なんてありえない。喋れない人生なんてありえない。なんて思っていましたが、この時に「まず生きてなきゃ何も出来ないじゃないか。」という考えに変わりました。

私の選択

東京での一発目の診察があまりにも衝撃的で、にわかには信じられなかったので、急げと言われてもいろんな先生の話を聞きたい。そして、手術を受けるのならば、絶対の信頼をおける先生に切ってもらいたいという想いで、父と二人でそのあと3か所の病院を回りました。

そんな中、ある病院のベテランの先生にこう言われました。『このPET検査だけど、がんがここまで光ってるのはおかしい。風邪ひいてる時とかに受けなかった?』と聞かれました。言われてみれば、確かに風邪気味でした。・・・そう、どの医者が見ても転移していると言われたのですが、、、誤診だったのです笑。首が光っていたのは、風邪でのどが炎症を起こしていたからでした。

最終的に私が選んだのは、皮弁再建手術という方法です。再発リスクを少なくするために、舌を大きめ(右側半分ほど)に切除する。切除した舌の部分に自分の手首の筋肉、血管を移植する、そして、手首の部分には太ももの皮膚を持ってくる、というものです。舌になる手首と、首の血管をつなぎ合わせる時に、首にもメスが入るので、同時に首のリンパ節も転移の可能性があるので取ってしまう、という方法です(登場する部位が多すぎてややこしいですがお許しください苦笑)。たくさんの傷跡が残るし体にも負担が多く、後遺症が残るかもしれないが、再発リスクが少ない、命最優先の選択をしました。

生まれて初めての入院が、がん。そして8時間超の大手術で全身にメスが入る。全く実感がわかないけれど、がんが着々と進行しているのはわかりました。手術を受ける直前の数日間はもう舌の痛みで寝ることもままならない状況でしたし、「とにかく早く手術をしてほしい」という気持ちになっていました。

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※手術10分前。両親とオペ室の前で最後の記念撮影。

手術を終えてみて、想像以上の過酷さに驚きました。

まず、気づけば自分の体に管が20本くらい刺さってるし。。。気管切開(首に穴が開いています)をしているので、声は当然出ない。絶対安静なので、起き上がることもできない。何よりツラいのは、呼吸をするのも簡単ではないこと。ひどいときは10分に一度は看護師さんに痰を取ってもらわないと、呼吸ができなくなるんです。さらには、再建した舌の右側部分に血が通っているかを確認するため、1時間に一度、舌に針を刺して出血するかの検査をします。寝ている時もです。夜中でも、ウトウトしはじめたら「一時間たちましたのであーんしてくださいね~」といった具合です。今となっては良い思い出ですが、本当に術後しばらくは、時間が過ぎていくのをただ祈るのみでした。首の穴をふさいでもらっても、舌が思うように動かないため声を出してもアウアウ状態、水を飲み始めてもすぐむせてしまう。自分はもう普通に会話することは一生できないのか。食事もまともにできなくなってしまうのでは。そんな気持ちにも当然なりました。幸いにも、病院のリハビリ体制が充実していて、毎日マンツーマンで徹底指導していただいたことで、退院するまでの1カ月間でだいぶ滑舌も取り戻すことができ、食事も慣れてきて、時間はかかるが問題なくできるようになっていました。味覚についても問題なし。舌も半分あれば完璧に味がわかるもんですね。ここまで元通りになるとは全く期待していなかったのですが、今では何の不自由なく生活ができています。
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※かなりお見苦しいですが、手術から一夜明けた時の写真です。

がん経験を通じた心境の変化

2015年2月に手術をし、リハビリ期間を経て、7月から東京の営業部署に異動になり仕事に復帰しましたが、翌2016年3月末で退職しました。きっかけはやはりこのがんの経験です。人間いつ突然死ぬかわからないと痛感したこと、そして、せっかく25歳でこんな経験が出来たし、自分にしか出来ないことに挑戦しよう。そう思うようになったからです。2016年4月に“アイタン株式会社”を立ち上げました(http://i-tongue.com/)。会社名のアイタンの「タン」の由来は、舌の”tongue”から取っています。舌癌になったこと、「いつ何が起こるかわからない」ことを、身をもって学ぶことができたこの経験を忘れないという想いを込めています。コンサルタントとして独立し、様々な“リスク”に対する損害保険や生命保険、資産管理や相続対策の提案をしています。

終わりに

最後まで読んでいただきありがとうございました。病院で起こったハプニング、うれしかった伊万里からの贈り物等、他にも書きたいことはたくさんありますが、長すぎて嫌われそうなので、今回はここまでにします。

振り返ってみると、本当にいろんな出会い、選択、そして決断があっての今の自分があるんだなと痛感します。「歯科衛生士の子と会わなければ手遅れになってたのかな」、「誤診を受けていなければ違う治療法を選んだのかな」などいろいろ考えることはありますが、結局は今の自分しかいません。私のような舌がんをはじめとする頭頸部、いわゆる首から上のがんは、がん全体の中では約5%と少数派です。しかし、悩んでいる方は最も多いがんだと最近患者会などに行って感じています。それは、「噛む・飲み込む」「喋る」「味わう」という生活に大きく関わること。そして顔にできてしまうので、術後には「アピアランス(容姿)」も変わるケースが多いからです。こういった後遺症は心にも大きく影響するため、頭頸部がん経験者には、がんを乗り越えても、そのあとに自殺してしまう方やうつ病になってしまう方がとても多いんです。特に若い世代や女性にとっては、恋愛や結婚に対するコンプレックスを抱えて悩んでいる方もたくさんいます。
同じがんで苦しむ人が一人でも少なくなるように、私も微力ながら患者会や団体の活動などを通じて貢献していきたいと考えております。

最後になりますが、私のこの経験が、いま悩みを抱えている方、これから治療に向き合っていく方、その方を支えるご家族をはじめ、普段あまりがんに接することのない皆さまにとって、少しでも参考になれば幸いです。

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