患者団体に聞く! NPO法人京都ワーキング・サバイバー理事長 前田 留里 さんあの時の私が、知りたかったこと…… -がん経験を恩送り-


  • [公開日]2024.04.26
  • [最終更新日]2024.04.26

はじめに

今回お話を伺ったのは、シングルマザーとして、2人の思春期のお子さんの育児のまっただ中で、乳がんを告知された、前田留里さん。
一度は死を意識したうえで、手術・放射線治療ホルモン療法抗がん剤、とフルコースの治療と仕事を何とか両立させるなかで自分自身が困った経験を同世代の患者支援に活かしたい、と立ち上げた「京都ワーキング・サバイバー」の設立の経緯や活動について伺いました。

HPはこちらから:NPO法人京都ワーキング・サバイバー

38歳で乳がんに

川上:はじめに、ご自身のがん体験について教えてください

前田:はい。乳がんがわかったのは、38歳の時でした。ちょうど、職場の方々とフルマラソンの大会に初めて参加することになり、身体のメンテナンスを意識しつつ乳房のセルフチェックをしたところ、1年前にはなかったシコリに触れたんです。
仕事を休まずに受診できる近くのクリニックを受診したのですが、検査をしてもはっきり診断がつかず、職場である医療法人の理事長に相談し、紹介された大学病院で1か月後に確定診断となりました。

川上:医療法人にお勤めなのですね。診断が確定するまでの間は、どのように過ごされていましたか?

前田:私は人間ドックを担当する部門で仕事をしていたので、乳がんの好発年齢やリスクは存じていたのですが……。
23歳と25歳で出産し、母乳で育て、家族歴もないのに「この年齢で乳がん」ということに戸惑いつつも、インターネットで情報をいろいろと探す日々でした。
ただ、自分と同世代の方で乳がんに罹患した方の仕事や生活の情報が少なく、乳がん体験者のブログは進行例が多くて不安が高まったことを覚えています。

川上:乳がんであることが確定したときは、どのようなお気持ちでしたか?

前田:当時、子供の年齢は娘が高校1年生、息子が中学2年生でした。シングルマザーであったため、自分のことよりも経済的なこと、仕事のことなどの不安が大きくあり、辛いとか悲しいとかを感じる余裕もなかった感じです。
診断を受けた時は、手術をすれば治ると楽観していたのですが、病理検査の結果、悪性度が高いことがわかり、死の不安がよぎりました。自分がいなくなっても子どもたちが生きていけるように、と医師と話した2週間後には家を買っていました。

川上:それは大きな決断をされましたね。ご家族にはどのようにお話されましたか? また、どんな反応でしたか?

前田:母には、治療方針や手術日などがいろいろ決まってから最後に、相談というよりも自分で決めたことを報告しました。子どもたちには、乳がんになって治療をすることを報告しました。
子どもたちは、がんで深刻な状況になった身内がいなかったこともあってか、大きな不安はなかったように思います。母は不安そうでしたが……。

仕事と治療の両立、助けを求めたら「負け」?

川上:がん告知でまず経済的なこと、仕事のことが不安になったとのことでしたが、治療にあたってお仕事はどうされたのですか?

前田:私の勤務先は医療法人ですが、私の部門は人間ドックに関わるところで、治療現場ではなかったことや、がん治療しながら働く前例が無かったこともあり、周囲の理解は十分ではなかったように感じます。
手術は年末年始の休暇を利用して入院し、放射線治療は午前中に出勤して午後に病院に行くなどして、病欠しないよう、有給休暇を取りながらうまくやりくりしていました。
抗がん剤治療中も、副作用や脱毛がありましたが、ウィッグを利用して過ごしました。

ウィッグを利用していた頃

川上:いろいろ工夫されて気丈に乗り越えてこられたのですね。治療中で辛かったことはありますか?

前田:抗がん剤治療の追加が決まった時は、乳がんがわかった時よりも辛く感じました。
当初は手術、放射線治療、ホルモン療法で終わると思っていたました。しかし、手術後の病理検査の結果、悪性度が高く、追加で抗がん剤治療が必要だとわかった時、副作用の不安や有休のやりくりが難しく仕事を休めないということに焦りましたし、辛かったです。

川上:仕事を休まないように……と追い詰められていたんですね。そうした辛さや悩みは誰かに相談されなかったのですか?

前田:いいえ、相談しませんでした。患者サロンなどの存在は知っていましたが、誰かに支えられるのが苦手だったんです。助けを求めると負けるような気がしていたんでしょうね(笑)。今でこそ、傷病手当金制度など社会保障のことについても情報発信していますが、当時は全く知らなかったんです。

 

「恩送り」としての活動

川上:「京都ワーキング・サバイバー」を立ち上げたのはどのような経緯からですか?

前田:仕事と治療を両立しながら手術、放射線治療、抗がん剤治療をなんとか終えることができましたが、ホルモン療法は長く続きました。
ところがこのホルモン療法の副作用がとても辛く、仕事との両立が難しくなり、治療の中断をひとりで決断しました。このとき、死を意識したんです。
未来の時間は少ないのだからと2年ほど遊び尽くしましたが「楽しい」と「幸せ」は違うと気付き、次第に「今生きている感謝を未来に繋ぎたい」と考えるようになり、自分が乳がんと向き合ってきて困った経験から、同じような状況で困っている人の力になりたいと思ったことが活動を始めたきっかけです。
そうして2015年に会を立ち上げました。

川上:「京都ワーキング・サバイバー」は、どんなコンセプトで活動されているのでしょうか。

前田:コンセプトは3つあります。
1つは、「正しい情報」です。何をおいても正しい情報を発信しないといけないと思いました。
2つ目は「情報交換の場」です。同じような境遇の仲間と出会い語れる場を作りたい、と。
3つ目は「専門家による就労支援」です。立ち上げから社労士にも参加してもらい、制度の説明や個別相談ができるようにしています。

川上:助けを求められなかった前田さんが、「あの時、こんな支援があったら」ということを具現化されたのですね。

前田:はい。仕事をしていても参加できるよう、夜に患者サロンを開催しています。
最初は知人の会社の事務所を借りて活動していましたが、1年半後にはお寺の和室を利用するようになりました。ただ、コロナ禍となったことで、対面での活動を控えなくてはならず、オンラインでの活動が中心となった時期もありました。
現在は、スタッフが運営している町家のお店「薬膳カフェぼちぼち」にて、毎月、第3土曜日の13:00~17:00に対面でのサロン(予約不要、参加費300円)と、毎月第2水曜日 19:00~20:30 の定例オンラインサロン(要予約、参加費無料)を開催しています。どちらも、毎回5~8人程度、とちょうど良い人数で開催できています。

仲間とともに

川上:会の運営を一緒にされているお仲間はいらっしゃいますか?

前田:現在、8名のスタッフで運営をしています。国家資格キャリアコンサルタント、社会保険労務士、看護師、栄養士など、専門の資格を保有しているメンバーも多いです。
とはいっても、サロンでのピアサポート活動では参加者のお話を傾聴するのが主で、逆にスタッフが支えられている、と感じることもしばしばです。
はじめ参加者だった方が、スタッフの側としてサポートしてくれるようになって繋がりが広がってきた感じです。このご縁とかけがえのない仲間を大切にしたいと思っています。

2023年よしもと祇園花月 観賞イベントにてスタッフと

川上:会の運営資金はどのように調達されているのでしょうか。

前田:会の運営自体にはそれほどお金はかからないんです。
オンラインサロンは無料で開催できます。対面サロンについてはスタッフの交通費を会で負担していますが、その分については、正会員や賛助会員の会費のほか、スタッフの講演料の半分をNPOに入れるようにしていて、それで賄えている感じです。
活動を長く続けることが大事だと思っているので、スタッフには、それぞれに自分の生活を大事にしてもらいながら、無理せず、できることをやっていければいい、と思っています。
新しい方、若い方にもスタッフとして参入していただけるよう、良い環境を作っていくのが、私の役割かもしれません。

川上:ピアサポートのほか、社会に向けた発信や政策提言などのアドボカシー活動はされていますか?

前田:2022年から、厚生労働省のがん対策推進協議会の委員を拝命しています。なかなかの重責ですが、委員になってから、がんを取り巻く状況を見る視点や政策等へのコミットメントが変わってきたと思います。改めて正しい情報発信や患者・市民参画の必要性を感じて、患者や支援者の声を集めた要望書を昨年度、京都府に提出しました。

川上:前田さんのお話を伺っていると、乳がんと向き合ってこられたことで、「恩送り」以上のパフォーマンスを生み出しておられると感嘆させられます……! 最後に、オンコロの読者にメッセージをお願いします。

前田:オンラインや対面など、いろいろなコミュニティやサロンがあると思います。仕事のことなら私たちのサロン、など場合によって使い分けたりしてもよいと思いますので、ぜひいろいろなところに参加してみて、自分にとって楽なところや居場所を見つけ、周囲の力を借りて、がんになった後の人生もより良く生きて欲しいと思います。そして気持ちに余裕が出たら恩送りをして、経験を未来に繋げてもらえたら嬉しく思います。

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