なぜ私が、なぜ今、がんになってしまったのか
柳澤:私は笠井さんと同世代の55歳です。当時(1990年代や2000年代)のフジテレビ、笠井さんはご多忙であったのでは? 笠井さん:はい、番組で司会をしたり、報道で全国を飛び回ったりと1ヶ月に3日ほどしか休みがありませんでした。でも当時はそのような働き方が当たり前でしたし、自らも喜んで仕事をしていました(笑)。 柳澤:モーレツに働き、ビジネスマンとして円熟し、フリーの道を選ばれた時に、悪性リンパ腫の告知を受けました。その時の心境はいかがでしたでしょうか。 笠井さん:「なぜ私が、なぜ今、がんになってしまったのか」と自分の運の悪さを非常に恨みました。日頃の行いが悪かったのか、それとも食生活が悪かったのか。そんなことを考えました。しかし医師に聞くと、悪性リンパ腫の原因はよく分かっておらず、普段の生活面が由来するものではないと言われたんです。「言い方が悪いかもしれませんが、笠井さんが罹患したのは交通事故にあったようなものだと思ってください。」と医師からは言われました。 柳澤:書籍の中にも「交通事故」という言葉が出てきましたが、患者さんやご家族の中にはこの表現に安心された方もいると思います。というのもがんに罹患すると「生活習慣が悪かったのではないか」「検診に行っていなかったからではないか」とご自身を責める方がいらっしゃるからです。それから入院まで少し時間があったと思いますが、どのように過ごしていましたか? 笠井さん:実は告知を受ける4ヶ月前から排尿障害が起きていて、すぐにがんの検査をしました。それは小倉さん(小倉智昭キャスター)が膀胱がんに罹患され、私も20年以上一緒の時間帯の仕事をしていたから同じがんに罹患しても不思議ではないだろうと。 しかし複数の病院を回るも前立腺肥大症とだけ診断を受け、悪性リンパ腫と診断を受けることはありませんでした。薬をもらうも一向に良くならない。それどころか症状はどんどん酷くなっていきました。途中からもっと重い病気に罹患しているのだろうと思いました。ただ、がんであるとは思っていません。それは2度がんではないと検査結果が出ているから。 しばらく様子を見るも症状が悪化するばかりのため再度泌尿器科で検査をすると骨盤に影があるといわれ、血液腫瘍内科を案内されました。その時改めてがんを意識しました。その1,2ヶ月後にようやく悪性リンパ腫との診断がつきました。 「やっぱりそうか」と思いましたが、やはりショックでした。まだフリーになって2ヶ月、これからどうするんだよって思いました。世の中に顔と名前を出して働いている人のあるべき姿を見た
柳澤:告知を受けると、呆然とする方もいらっしゃいますが、中にはようやく体調が悪い原因がわかったと、ある意味すっきりとした気持ちになるがん体験者もいらっしゃいますが。 笠井さん:日本人のがんへのイメージはどうしても「死と向かい合う」です。だから、ようやく原因がわかってすっきりしたなんて気持ちはありませんでした。目の前が真っ白なのか真っ黒なのか、よくわからない状態になりました。 柳澤:告知を受け早い段階でSNSをスタートされ、治療のこと体調のことなど赤裸々に発信されていました。どういうお気持ちだったのでしょうか? 笠井さん:私は30年間、人のプライベートに関わる報道の仕事をしてきました。時には来て欲しくないと思う人にもマイクを持って取材を行います。だからいざ自分に何か伝えて欲しくないことが起きた時に「そっとしておいてくれ」と思うのは違う。また闘病中に密着取材した西城秀樹さんやご自身の病気のことを事細かに番組で明かす小倉さんの姿を見ていて、世の中に顔と名前を出して働いている人のあるべき姿を見ました。特に西城さんの密着取材中はもし自分に同様のことが起きた場合、どうしようかとずっと考えていました。だから急に決めたことではなく、病気になる前からある程度自分の中での決まっていたことでした。 これまで私の仕事は関係者に聞いて、事実関係を明らかにして、視聴者の方にわかりやすく伝えることです。今まで他人の取材をしていましたが、今回の当事者は私です。間接的ではなく直接伝えることができる。それも生々しくストレートに。自分で自分を取材するように、動画、写真、記録様々な形で残そうと思い、SNSをはじめました。 また「とくダネ!」から取材依頼がきた時は、我が意を得たりで、是非ともお願いしたいと言いました。客観的には取材のカメラで記録する、主観ではInstagramの写真、ブログでの外部向けの記録、入院日記の内面の記録、まさに自分自身のドキュメンタリー番組を制作するように多角的に記録を残していきました。もし自分が死ぬことになったら、その映像の価値はさらに高まると考えました。 主治医は「治療できる薬剤はあるから、前を向いていきましょう」と言われ、私自身基本的には治るものとして治療には臨んでしましたが、同時に万が一のことも考えていました。 柳澤:若い人にとって複数のSNSを活用するのは当たり前になっていますが、我々の世代で複数のSNSを新たにはじめることは単純にすごいなと思いました。病気のことを公表され、メディアに取り上げられ一気に世間の注目を集めました。その時のご心境はいかがでしたか? 笠井さん:まず300人だったSNSのフォロワーが30万人になりました。世間がどれだけ大病を経験した人間に興味を持つのか、またそれ以上にこんなにも応援されているのかと感じました。ブログについては、コメント欄に「私もがんです」「私の家族ががんです」といったコメントが多くあり、こんなにも多くがん患者がいることに驚きました。その中で「悪性リンパ腫で治療を受けましたが、今は復職しています。笠井さんも治療を頑張ってください」といったブログのコメントにどれだけ励まされたことか。 「とくダネ!」時代はSNSの闇を取り上げ注意喚起していました。しかし病気になった時はSNSを通じたくさんの人との繋がりに助けられ、SNSの光を見ました。 そこで大事だと思ったのが、病院のネット環境です。私の入院していた病院では、有線LANケーブルをPCに繋ぐことができましたが、Wi-Fiは飛んでいませんでした。病院によってはネット環境が整備されていなかったり、ポケットWi-Fiの制限があったりするそうです。患者にとってこのネット環境は非常に重要な問題です。闘病中でもLINEやメールを通じて繋がることができる。またコロナ禍で面会が制限される中で、ビデオ通話は闘病における極めて重要なフォローアップの方法だと思います。 柳澤:スマートフォンなしの生活はとても考えられません。私でそんな状態ですから、入院されている患者さんにとって唯一外部と繋がる手段であるスマートフォンの利用は重要な問題です。通信系会社が病院のネット環境構築に助成金を出してくれたらいいなとも思いました。 笠井さん:意外と医療者も患者さんの生活についての視点が抜け落ちていると思いました。例えば、抗がん剤治療中の脱毛です。髪が抜けることはある程度覚悟は出来ていたのですが、それよりも眉が抜けたことがとてもショックでした。それをある医療者に話したところ、「患者さんが眉でショックを受けるとは考えたこともなかった。何故なら、生き死にとは関係ない問題だから。眉は元に戻るから。」と言われました。でも眉が抜けてしまうと人相がとても変わってしまうんですよね。とてもこのままではテレビに映ることはできないと思いました。 柳澤:私もアピアランスを専門とする医師と話した時に、男性の眉の大切さに気づきました。また男性ってそのことについてほとんど声を上げないので余計に抜け落ちてしまっている視点だとも思いました。 笠井さん:そう、私も恥ずかしくて眉を描いている写真はInstagramに載せませんでした。ちなみに「とくダネ!」にリモートで出演する時は、かろうじて病室にあった色鉛筆で、痛い思いをしながら必死に眉を書きました(笑)。 (文・鳥井 大吾) <前編 編集後記> 笠井さんが悪性リンパ腫の罹患前、フジテレビを退職し、フリーアナウンサーとして独立されるとの報を、同じ世代の者、同じように働く者として、どこかシンパシーを感じていました。 その後の悪性リンパ腫の罹患、コロナ禍における過酷な治療、そして報道に身を置かれた方だからこそ、この時代だからこそのSNSでの情報発信。 ウェブを中心にがん医療情報発信を続けてきたオンコロ。今後の活動へのヒントをいくつも頂けたお話でした。 後編はこちら⇓ [blogcard url="https://oncolo.jp/feature/mrkasai_interview02"]
笠井信輔さんご略歴
生年月日:1963年生まれ
出身地:東京都出身
血液型:A型(Rh-)
1987年フジテレビアナウンス部入社後2019年10月よりフリーになる。
趣味の映画鑑賞は新作映画を年間130本以上スクリーンで観るほど。
舞台鑑賞は特にミュージカル、とりわけ宝塚歌劇団好き。
趣味:映画鑑賞 舞台鑑賞 カラオケ
公式ブログ
https://ameblo.jp/shinsuke-kasai/
公式インスタグラム
https://www.instagram.com/shinsuke.kasai/
著書 生きる力 引き算の縁と足し算の縁
https://www.amazon.co.jp/生きる力 引き算の縁と足し算の縁