「娘が二十歳になるまでは、絶対に死なない」――みずからの目標を達成するために、患者ができること(2)『治るという前提でがんになった』著者 高山知朗さんインタビュー


  • [公開日]2018.07.25
  • [最終更新日]2018.07.25

ITベンチャー企業の代表取締役社長として、国内外を飛び回っていた高山知朗さん。娘が生まれ、仕事もプライベートも充実していた40歳の時、唐突に目の前に現れたのは、「5年生存率25%」の悪性脳腫瘍でした。

その後も、42歳で悪性リンパ腫、46歳で急性骨髄性白血病と、合計3度のがんを発症。そんな中、高山さんが常に目標として心に抱いていたのは「娘の二十歳の誕生日に家族三人でおいしいお酒で乾杯してお祝いする。」ということでした。その目標を達成するため、そして未来に活路を見出すために、高山さんが行っていたこととは……!?
今回は、「情報を得る方法」「心配事への対処法」「家族」、そして「経営者として」のお話をうかがいました。(全2回)

情報を得る方法は、ネットに論文、そして医師

鳥井:第1回目のインタビューで、論文にまで範囲を広げて情報収集をされていたとうかがいましたが、多くの患者さんは、そこに行き着くまでの方法も分からないと思います。最初はどのように探していたのでしょうか。

高山:最初は、やはりインターネットですね。国立がん研究センターで発信している『がん情報サービス』で調べました。

2度目のがん(悪性リンパ腫)の時は、造血幹細胞移植を避けたいと思って調べていたら、がん情報サービスの中に、「海外では、移植をせず化学療法だけで高い生存率を示しているという報告がある」と書かれているのを見つけたんです。そこに情報の出どころである論文の著者名も記載されていました。その著者名でネットで検索して、論文を見つけて読んでみたら、さらにその中にも「参考論文」が載っていました。そうやってどんどん追っていって、結果的に50本くらい読みましたね。

鳥井:論文を読んで、その後は?

高山:論文も、自分の状態に完全に即したことが書かれているわけじゃありません。見つけた論文を医師に見せて「これはどうなんですか」とたずねました。当然、先生もそういった論文は読んでいますから、いろいろと議論しました。

医師は重要な情報源です。でも医師から情報を得るためには、治療に対する考え方や希望を正確に伝えることはもちろん、ちゃんと自分でもネットや本で情報収集することが大切。自分で勉強したうえで先生と話をすれば、医師の話も理解できるようになりますし、より深い話を引き出せることもあります。結果として、納得のいく治療を受けることができます。

鳥井:医師はいつも忙しそうで、質問をしづらいという話も聞きます。

高山:それは全然感じませんでした。患者にとっては文字通り死活問題なので、遠慮している場合じゃない。特に、私のかかっていた女子医大の脳神経外科や、虎の門病院の血液内科は、患者とのコミュニケーションをとても大事にしていましたし、聞きにくいと感じさせられることはありませんでした。優秀な医師ほど、患者の話をしっかり受け止めてくれると感じています。それは医師の自信の裏返しでもあると思います。

心配事は“ブレイクダウン”で解決

鳥井:「医師は怖いことばかり言う」と、不安になる人も多いようです。

高山:医師は、副作用や合併症、後遺症など、たくさんのリスクの話をしてきます。「そんなに大変なことになってしまうの!?」と思いますよね。でも、そういった怖いことは、全てが自分に起こるとは限りませんし、起こるとしてもいっぺんに来るわけじゃありません。

怖い話であっても慌てずに、「自分は今、どの副作用が出る時期なのか」「今は何を気を付ければいいのか」など、不安に思うことを医師にたずねて、“心配事のブレイクダウン”をすることが役立ちます。状況を正確に把握して、本当に今、気を付けなきゃいけないことだけに絞って対処していけば、少し気持ちが楽になると思います。

ブレイクダウン例
【2017年03月10日 自分がさい帯血移植の何に怯えているのかをスライドで整理してみた】
http://www.oceanbridge.jp/taka/archives/2017/03/post_876.html

これは仕事のやり方と似ていますね。私も大学を出たばかりの新人コンサルタントのころは、忙しくていっぱいいっぱいになってしまうことがありました。すると上司は「今、何が忙しいのか、どういう優先順位で仕事を片付けていくべきなのか」を整理してくれ、「それならこれは今やらなくていい」「これはこの人に任せればいい」というように、抱えているタスクの棚卸しをしてくれたんです。私も経営者になってからは、若手の社員に同様にしてあげていました。

鳥井:なるほど、まずは落ち着いてひとつひとつを把握していけば、それぞれどう対処したらいいのかも見えてきますね。

子供は子供なりに、受け止めている

鳥井:ご家族はどのように受け止めていましたか。

高山:妻は臨床心理士なんです。常に力になってくれたし、理解もしてくれました。

私が読んでいた論文の一部を読み、私と一緒に医師と話をするなど、病気に関しては私と同じレベルで把握していました。2度目のがんの時は大学院生だったため、学校の図書館から医学部生用の教科書を探してコピーを持ってきてくれたりもしました。ネットで谷口先生を見つけてくれたのも妻です。

鳥井:がんになった3度とも、娘さんはまだとても幼かったですよね。

高山:1度目の時はまだ1歳で、何も分からなかったと思います。少し大きくなってからは「パパがしょっちゅう入院して家にいない」、とは思っていたようです。お見舞いに来てみたら髪の毛がないし、何か病気なんだろうということは分かっていたと思います。

妻は、「だけどパパは、病気を治すためにがんばっているんだよ。そのためのお薬が強いから髪が抜けちゃっているんだよ」と説明をしてくれました。

鳥井:子供にとって、家にお父さんがいない寂しさは強かったのではないでしょうか。

高山:寂しかったとは思うのですが、子供は子供なりに受け止めているようでした。

抗がん剤治療中、外泊許可が出て家に帰っても、体調が悪くてソファで寝ているしかないことがありました。その時、私は娘に「寝てばかりで遊んであげられなくてごめんね」と言ったんです。すると娘は、「それでも楽しかった」というようなことを言ってくれました。

その様子を見ていた妻が、絵本を描いてくれました。娘の気持ちを妻がとらえて描いたものです。

「パパは病気で入院しています。家に帰って来ても寝ているばかり。するとパパの鼻ちょうちんがふくらみました。その中に入って、パパと一緒に空を飛んで遊びました」。

「パパはいなくて寂しいけれど、帰って来てくれるだけで楽しいんだ、想像の中でも遊べるんだ」というお話です。それを読んで、涙が出ました。

鳥井:とても温かなお話ですね。治療をやりとげるための大きな支えになったのではないでしょうか。

高山:そうですね。でもいつも涙が溢れてしまって、なかなか読むことができません。その後、薬がうまく効き、2度目のがんを乗り越えることができました。娘には「もう絶対に入院しないでね。約束だよ」と言われていたんです。

ところが昨年(2017年)、3度目のがんになり、また入院することになってしまいました。

娘は、「パパ、もう絶対入院しないって約束したのに」と言って、激しく、そして本当に悲しそうに泣きました。私も妻も泣いていました。そして私は、「今回も絶対に治して帰ってくるから」と言って病院へ向かいました。

でも、娘はとても物分かりのいい、良い子なんです。「寂しいけど、ママと家でがんばるから、パパもがんばってね」と言ってくれました。

鳥井:3度目のがんではさい帯血移植を行なったとのことですが、その場合、子供との面会が制限されてしまうそうですね。

高山:移植後、感染を避けるために1ヶ月くらい娘に会うことができませんでした。

ところが私の誕生日に、サプライズプレゼントとして娘が来てくれました。「デイルーム(面会室)で会うのであればOK」と、妻が看護師さんから許可をもらってくれたんです。さらにその時、担当医がやってきて、「移植したさい帯血が生着しましたよ」というニュースも届けてくれました。2つ目のサプライズプレゼントでした。

経営者として、会社をどうするか

鳥井:初めてがんになった時は、社員のみなさんにどのように伝えましたか。

高山:結構ちゃんと話をしました。がんは脳腫瘍で、治るかどうか分からないことや、半身麻痺になるリスクがある手術を受けることなど、ある程度のことは隠し立てせずに。秘密にする方が、余計に心配させてしまいますから。

鳥井:一度は復帰されましたが、2年後には2度目のがんに。その時はいかがでしたか。

高山:2度目の入院中に、お見舞いに来てくれた幹部社員と、「社長が長い間いないのは、会社にとっても社員にとってもあまりよくない」という話になり、社長を譲って会長に退きました。社長でなくなることは寂しかったですが、「高山さんは会社のことは心配しないで、治療に専念してください」と言ってもらったのはありがたかったです。

退院後、一年ほどして体力がついてきた頃に、早く会社に復帰したいとたまに会社に顔を出していたのですが、「会社にいないで現場を把握していないのに、中途半端に指示を出したりすると、社員が混乱してしまいます。まずは会社のことは自分たちに任せて、お身体を最優先してください。そしてフルタイムで戻れるようになってから、会社に戻ってきてください」と言われてしまいました。

鳥井:理解はできるものの、なかなか難しい話です。

高山:ところが、7ヶ月に及ぶ抗がん剤治療のために体力が極端に落ちてしまい、どんなにがんばっても、元のように仕事をできるまでに体力を戻すのは無理だと思いました。だとしたら、代表取締役会長としての、そして株主としての責任が果たせません。もう代表取締役は退任し、経営からは身を引こうと思いました。

同時に、株式も手放す必要があると考えました。このような経緯で役員を離れた自分が株だけ持っていても、もはや経営陣に適切な助言はできません。創業者である自分の代わりに会社の将来を任せられる誰かに、株式を買い取ってもらい、経営を全面的にお任せする。

その「誰か」の選択肢は二つでした。私が会長に退いた後の経営陣への事業承継か、外部の会社への株式売却(M&A)か。

ベンチャー界隈のいろいろな友人たちに相談し、いろいろと悩み、考え抜いた結果、「オーシャンブリッジをぜひ自分たちが発展させていきたい」と手を挙げてくれた同業の会社(ノーチラス・テクノロジーズ)に会社をお任せすることにしました。「私たちは、自分の会社とカルチャーの全く異なるオーシャンブリッジを吸収合併するつもりはない。オーシャンブリッジのミッションや考え方に非常に共感している。ぜひ今後もオーシャンブリッジを独立した会社として発展させていきたい」と言ってくれたことが決め手になりました。

創業者にとって、会社は子供のようなものとはよく言われます。自分もそう思います。でも複数のがんを経験した自分にとっては、文字通り、自分自身の命をかけて、生み出し、育ててきた会社であり、その意味では子供以上かもしれません。その思いを最大限に汲んで、オーシャンブリッジの経営を引き受けてくれたノーチラスさんには、本当に感謝しています。

鳥井:売却の交渉には時間も相当かかったのではないでしょうか。

高山:当初はなかなかよい候補先が見つからず、ノーチラスさんと出会うまでに数ヶ月かかりました。出会ってからも、お互いのビジョンのすり合わせや、さまざまな条件交渉、そして当時の経営陣との話し合いなど、結局一年ほどかかりました。これまでのビジネス経験の中でも、最も大変な一年でした。でもこれが済めば、今度こそ家族とゆっくり過ごせると思っていました。2度のがんからも、そして会社からも卒業して、これからはやっと家族との時間を第一に過ごせるんだ、そう思っていました。

しかし、株式売却の契約を締結した3週間後に、3度目のがんが見つかってしまった。これまで寂しい思いをさせてきた娘と妻に、たくさん楽しい思い出を作ってあげたいと、家族旅行の計画を立てたり、娘も大好きなポール・マッカートニーのライブのチケットも買ったりと、いろいろ準備を始めたところでした。なぜここでまたがんになったんだと本当に悲しく、そして本当に悔しく思いました。

この3度目が、一番、告知の衝撃が大きかったですね。「なぜこのタイミングで・・・」と思うと、涙が溢れてきました。これまでの2度のがんでは、告知時も治療中も、ほとんど泣いたことはありませんでした。でもこの時は、「やっとこれで自由になれた。これからは家族とともに」と考えていた矢先だったので、いろいろな感情が溢れて、なんども涙を流しました。

でも考えてみると、これもすごいタイミングです。もしがんが見つかるのが1ヶ月早かったら、M&Aも成立していなかったかもしれないからです。辛いタイミングではありましたが、一方で、M&Aの契約を締結した後で本当によかったとも言えます。おかげで治療に専念することができました。

鳥井:しかし、その3度目も治すことができたのですね。

高山:移植から一年半となる今年の10月を、再発なく迎えることができれば、統計的にはほぼ治ったと言える状態になります。妻が娘に、「パパは、がんという難しい病気を3回も乗り越えたんだよ。今は、みんなのために、経験した事をブログや本に書いて世の中に発信している。それがたくさんの患者さんの役に立っている。それが、パパのお仕事なんだよ」と言っています。ですので、今度こそ家族3人で海外旅行に行きたいですね。それと2冊目の本も書きたいと思っています。それが、今年の目標です。

度重なるがんに、経営者であるからこその難題。それらを乗り越え、明るく笑う高山さん。患者として、そして人としても学ぶところの多いお話をうかがいました。ぜひ、最高に楽しい旅行をしてきてもらいたいと思います!

高山さんのブログ「オーシャンブリッジ高山のブログ」:
http://www.oceanbridge.jp/taka/


治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ (幻冬舎単行本) 高山知朗著

インタビュアー:鳥井大吾
写真・文:木口マリ

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