人口10万人あたりに6例未満の頻度で発生する、“まれ”ながんである「希少がん」。その定義ができたのは、今からほんの数年前の2015年のことでした。その翌年、2016年のがん対策基本法の改正では「希少がんの研究促進」が盛り込まれるまでになり、世の中の関心も高まってきています。
今回お話をうかがうのは、国立がん研究センター骨軟部腫瘍科長であり、希少がんセンター長の川井 章先生。「病気で足を失う人をなくしたい」——川井先生は、子供の頃の経験から感じたひとつの想いから、「骨軟部腫瘍(肉腫/サルコーマ)」の専門医を目指したといいます。希少がんの第一線で活躍する川井先生の想い、希少がんと切り離せない「AYA世代」の問題、そして川井先生が会長を務める『第1回日本サルコーマ治療研究学会(JSTAR)学術集会』(2018年2月23〜24日)は、どんな理念のもとで開かれるのかについてお話をうかがいました。聞き手は軟部腫瘍体験者でオンコロスタッフの鳥井大吾です。(全3回)
医師を志した想い「病気で足を失う人・悲しむ家族をなくしたかった」
鳥井:川井先生は、今年(2017年)1月より、国立がん研究センター中央病院で開催しているセミナー『希少がん Meet the Expert』(共催:オンコロ、認定NPO法人キャンサーネットジャパン)でもご一緒させていただいています。
私は先生のご専門である肉腫の体験者です。2014年、25歳の時に「粘液型脂肪肉腫」の告知を受け、9時間の手術で左足ふくらはぎの15cm大の腫瘍を摘出しました。リハビリをしてもまったく歩けない時期もありましたが、2か月間の休職を経て社会復帰をしました。
川井:大変な経験をされたんですね。鳥井さんにお会いしてからずいぶん経ちますが、初めて詳しくお話をお聞きしました。
鳥井:その後、
若年性がん患者団体『STAND UP!!』で初めて同年代のがん体験者と出会いました。中には治療中の体験者もいて、「その人たちのために何かできないか」ということでがん情報サイト「オンコロ」を運営する株式会社クリニカル・トライアルに入社し、今に至っています。先生が医師を志したのには、やはりきっかけがあったのでしょうか。
川井:鳥井さんがそうであったように、医師や看護師など医療に関わる仕事に就いている人の中には、病気によって辛い思いをした人、病気に対する個人的なパッションを持った人が多いように思います。私の場合も、やはりそのような経験がありました。以前は、それについて話をすることなど決してありませんでしたが、時がたって少しずつ人に話すこともできるようになりました。
私には、医者とは何かを考える前に、「病気で足を失う人をなくしたい」「肉腫で苦しむ家族をなくしたい」という強い想いがありました。
実は、私が中学2年生の時に妹が骨肉腫と診断されました。妹は小学校5年生で、クラスで一番スポーツができて、級長にも選ばれるような自慢の妹でした。それがある時、「膝が痛い」と言いだして歩くこともできなくなりました。「成長痛だろう」と軽い気持ちで近くの医院を受診したら、すぐに大学病院を紹介されて、がんが大腿骨(ふとももの骨)にあることがわかりました。
切断しか治療法はないと告げられ、骨肉腫の診断の2週間後には手術を受けました。手術室から帰ってくる妹のストレッチャーに、足一本分のふくらみしかないのを見た時のショックは今でも忘れません。しかし、手術の2カ月後には再発が見つかり、再度、股関節から切断する手術を受けることになりました。2度の手術の後、約1年間の抗がん剤治療を受けました。今のように良い吐き気止めがなかった時代でしたから、何度も何度も吐いて、それは本当に苦しそうでした。でも、そんなときでも、毎日見舞いに行く私の帰り道を心配したり、同じ病気の友達のために千羽鶴を折ったり、妹は本当にけなげでした。
今だからわかることですが、ちょうどその頃、骨肉腫の治療に強力な化学療法が導入されて、世界的にその治療成績(※)が劇的に良くなった時期でした。妹がもしあと2〜3年はやく病気になっていたら、命は助からなかったと思います。反対に、あと10年おそく病気になっていたら、足を切らずにすんだかもしれません。妹が足を失うことがわかった時、親父が泣く姿を初めて見ました。(※治療を行った結果、病気が良くなったかどうか)
鳥井:私の告知の時も母が診察室で泣いていて、家に帰ったら父も泣いていました。その時に初めて父の涙を見ました。
川井:父親の泣く姿は胸を衝きますね。その時、「病気で足を失って悲しむ人がいなくなるように医者になろう」と誓ったんです。進学先は妹の足を奪った岡山大学医学部しか頭にありませんでした。大学を卒業して医局を選ぶ時にも、骨肉腫の治療ができる整形外科へ入局しました。ちょうどその頃、妹の手術をした先生が助教授をしておられたんですが、むこうにしてみたらなんだか敵討ちに来られたみたいで相当怖かったんではないかと思います。いい迷惑ですよね(笑)。
医師、そして患者家族の経験と『たんぽぽ』の会
鳥井:当時、肉腫はどんなイメージだったのでしょうか。
川井:その頃、ドラマなどでヒロインが亡くなるのは白血病か骨肉腫と決まっていました。当時の骨肉腫は切断しか治療法がなく、それだけの犠牲を払ってもほとんどの患者さんが亡くなってしまう“残酷な病気”の代表でした。そんな病気が大切な妹に降りかかってくるというのは、とても大きなショックでした。医療が進歩した今も、肉腫と診断された患者さん・家族が受けるショックは同じだと思います。
鳥井:先生は、
『肉腫(サルコーマ)の患者会 たんぽぽ』にも積極的に関わっていますね。
川井:「たんぽぽ」には、できるだけのお手伝いをさせていただきたいと思っています。鳥井さんは「同世代のがん患者に何かできないか」という想いからオンコロに入り、私の場合は「足を切って悲しむ人をなくしたい」との気持ちで医師になりましたが、そのような一途な気持ちを、すべての患者会の皆さんはその根底に持っておられると感じています。皆さん、自分のつらい経験を通して、同じ病に苦しむ患者さんのために「何かをしたい」と思っています。「たんぽぽ」を応援させてもらっているのは、自分自身の患者家族としての経験も元になっているのかもしれません。
今回は、川井先生が「なぜ、希少がんである肉腫の専門医を目指したのか」についてお話をうかがいました。第2回では「希少がんセンターの在り方」、情報発信として毎月行われている「『希少がん Meet the Expert』の意義」、希少がんとは切り離せない「AYA世代の問題」についてうかがいます。
(写真・文:木口マリ)
●プロフィール:
川井 章
1961年生まれ、岡山育ち、岡山大学卒業。大学病院勤務、米国留学を経て2002年より国立がんセンター整形外科(現国立がん研究センター骨軟部腫瘍科)勤務。2015年より希少がんセンター長。