千葉敦子の生き方
-ニューヨークで乳がんと向き合ったフリーランス・ジャーナリスト-


  • [公開日]2017.10.23
  • [最終更新日]2017.10.23

乳がん啓発月間の10月に入った。アメリカにおいて、ピンクリボンが乳がん啓発のシンボルとなってから25年。自分が罹患するずっと昔から、「乳がん」という言葉で思い出す女性がいる。

遺された著書を紐解く

千葉敦子さんは、新聞社に勤めたあと、フリーランスの道を選び、彼女にとって生きるには窮屈な日本を離れ、ニューヨークで活躍されたジャーナリスト。そのキャリアは、著書から読み取ることができ、1980年代当時の“自立した働く女性”として、憧れの存在だった。

乳がんが千葉さんの身体を襲ったのは、アメリカに移住する前。当時はインターネットの普及もしていない1981年の出来事である。情報も乏しく、患者に病名を告げることもタブーとされた時代だったが、医師との頻繁なコミュニケーションや医療従事者であった妹さんの助言により、冷静に標準治療を受けられた。
ご自身の乳がん治療に関する著書もいくつか出版されている。私は彼女の著書に学生時代に出会った。その生き方の逞しさに勇気をもらい、当時から未来の自分に繋がった同じ病への闘う姿勢を学んだ。

乳がんサバイバーにかかわらず、すべてのがんサバイバーやそのご家族、また健康に日常を過ごされている方たちにも、千葉さんが出版された書籍は是非読んでいただきたい。80年代に書かれたものだが、現在に通じる医療の問題点の発見もあり、その力強い表現は読み手を魅了してやまない。

アメリカ移住という選択肢

東京であるレベルのキャリアを積まれた千葉さんの姿勢はすでに海外、ニューヨークに向けられていた。

“ジャーナリストという職業の楽しみは、人との出会いにかかっている部分が少なくない。ありとあらゆる文化的背景を負った人たちが日々暮らしているニューヨークには、数限りない出会いのチャンスが存在する。ニューヨークはアメリカではない。ニューヨークは世界なのだ。-”※1

初発時の治療は都内の病院で受け、奇しくも、アメリカ移住を決めたタイミングでがんは鎖骨に再発する。放射線治療を経て患部はほぼ消滅したが、再発と診断された後の揺れる心情は著書の中より読んで取れる。

“気分のアップ・アンド・ダウンは、個人的な各種の心配事、自分の将来に関する見通し、それに肉体的な疲労の度合に左右されることが多かったが、その日置かれた環境によることもあった。-”※1

日本に戻らず、ニューヨークで治療を受ける決意には、世界最高レベルの医療環境下であることや、性に合った日常生活が送れる地を選んだことにある。多くの友人たちが、各分担に分かれて千葉さんの生活を支え続けた様子は著書に残されている。「日本では病人に遠慮して、このようなサポートは受けられなかっただろう」と回顧されている。

現在注目されている療法は以前から存在していた

最近の医療ニュースの話題として、「音楽療法」や「笑いがもたらす効果の療法」の記事を目にするようになった。どちらも、すでに千葉さんの著書で紹介されていた。アメリカでは、すでに80年代には取り入れられたものだ。

“精神面の看護で大きな役割を果たしているのは、音楽療法(ミュージック・セラピー)だ。1940年代半ばに大学が学士号を与えるようになったのが始まりで、痛みや苦痛を忘れることができる点が重要なメリットとされており、たいていの患者はちょっとおしゃべりになり、陽気になることもあるそうだ。-”※2

“難病にかかった作家が「笑い」を闘病の重要な柱として病を克服して以来、アメリカでは「笑いの効用」についての研究が進められている。がんに限らず、闘病にユーモア感覚は不可欠だ。-”※1

アメリカの医療現場と単純比較をすれば、日本はこのような精神医療に大幅な遅れを取っていることになる。今頃になって日本国内で注目されはじめたのか、逆に不思議に感じてしまう。

不十分な医療情報

80年代といえば、まだインターネットが普及しておらず、アメリカでも使い始めたばかりの時代だったはず。何かを調べたい時には、紙媒体をまず頼るしかなかった環境は、両国においてほぼ同等な環境であったと想像する。

“私が東京にいたとき、化学療法について知りたいと思っても、医学教育を受けたことのない人間が分かるような案内書が日本語では見つからなかった。ニューヨークでは、書店に行けば、感情的な闘病記ではない、役に立つガイドブックがたくさん見つかる。知識は患者を強くすると、私は信じる。-※2”

日本ではまだ、患者本人への告知がまだタブーとされていた時代。治療に関する情報は非常に乏しかったであろう。患者本人も積極的に自分の治療方法を模索する時代ではなく、医師から施される治療を淡々と受け入れていた風潮だったのではないだろうか。

“東京で治療を受けていたとき、一番の悩みは医師が十分な説明をしてくれないという点だった。アメリカでは全く様子が違う。私が入院した病院の入院案内には、「患者の責任」という項目の中に「質問をすること」が含まれていた。-※2”

国内の病院において、「医療者の責任」はあっても患者への責務を示す表記は使用されていないのではないだろうか。言葉を換えれば「医療スタッフががんばって治療を施すので、患者さんはそれに従ってください」という理解に至るのは、私だけではないだろう。

“日本では、新しい抗がん剤が開発されたというニュースが、あたかもこれですべてのがんが治るようになったかのようなトーンで伝えられがちだ。日本にはメディカル・オンコロジストと呼ばれる化学療法専門医がまだ少ないけれど、専門医を探して治療を受けることが非常に重要だ。-”※2

身体的治療にあたる医療スタッフの人数不足が深刻な問題ではあるが、がん治療に関わる報道に、日本人は過剰に反応してしまう。最近では、『オプジーボ』という言葉が独り歩きして、あたかもすべてのがんに効くような印象を受けてしまう世相だ。まずは、主治医や専門医と相談することが重要なこと、と千葉さんが警鐘を鳴らしている。

また、「できるだけ今までの生活を送ること」、「QOLを下げないこと」、「仕事は続けたほうがよい」と昨今言われ続けているがん治療中における日常生活についても、著書の中で触れている。

“闘病中は、できるだけ自分のことは自分でするのが非常に重要だと思う。病院任せ、医師任せにせず、治療に積極的に参加していくことが大切だ。日本人は病人に対して「仕事は休んで闘病に専念してください」という人が多いが、がんは安静にしていれば治るという病気ではないから、患者から生きがいを奪わないことの方が大事だ。「他人の厄介になって生き延びている」のはつらいものだから。-”※2

80年代から存在していた怪しい民間療法

情報が氾濫している現代において非常に問題視されている民間療法については、昔から存在していたようだ。

“日本から始終、食事療法に関する資料が送られてくる。ご厚意はありがたいが、成人になってからはがん以外の病気にかかったことは一度もない。持病のある方が体質改善なさるのは結構だが、私は昔から栄養のバランスのとれた食生活をしているので、心配しないでいただきたい。-”※2

“私の乳がんが三度目の再発をしたことを報告して以来、日本の読者の方々から、あまりに多くの民間療法を勧められてきた。現在の医学の力で、がんにかかった約半数は究極的には死ぬのが現状であるため、それが民間療法の暗躍する土壌をつくっているようだ。これらの多くは全くむだであり、大きな危険をも伴う。このような治療に日本人が注いでいる無駄金の膨大さは想像を絶する。がんがどういう病気であるか、現代医学の提供する治療法がどういうものか、を理解していない場合が多い。-”※2

“民間治療法の開発者は、たいてい既存の医学界とは関係ない、独立した研究者で、勇気にあふれたカリスマの持ち主ということになっている。中には医学博士号を持った人までいて、これが一番始末に悪い。彼らは医学用語をゆがめて使い、いかにももっともらしい説明をつけて説法するので、素人はひっかかりやすいのだ。-”※2

30年近く前から現在に至っても改善されていない問題は嘆かわしい、の一言に尽きる。今年の8月より、ようやく厚生労働省が、「医療機関ネットパトロール」を開始したが、患者サイドとすれば、冷静さを欠き、藁をも縋る思いで、標準治療から外れた治療方法を信じて選択してしまう傾向は全くわからないでもない。耳に入った情報をすべて鵜呑みにするのではなく、正しい医療情報をキャッチする患者さん自身の調査力も試される時代になっている。

久しぶりに千葉さんの著書を読み返し、2000年代の治療法の進歩を学び、日米の医療現場の違いを考えさせられ、今なお解決しない問題点に気づくことができた。
そして、いつ読んでも力強く潔い文章表現は、彼女の生き方そのものだという感動を再体感することができた。

最後に、闘病中の方、そのご家族、そしてすべてのサバイバーに、千葉さんが残されたメッセージを記したい。

“人間は死ねるからこそ、生は尊く、人生は美しいのだろう。人生には喜びも苦しみもあるのだから、その最後の日々も、苦しいこともあろうが喜びに包まれた瞬間もあっておかしくない。それを可能にする経済力も、思いやりの心も、日本人には持ち合わせているはずだ。-”※2

引用著書
※1 1988年刊「昨日と違う今日を生きる」
※2 1987年刊「よく死ぬことは、よく生きることだ」

千葉 敦子 ちば あつこ(1940年-1987年)
1964年学習院大学卒業、東京新聞経済部記者となる。1967年ハーバード大学大学院留学、1974年末から海外紙誌の東京特派員を歴任。1981年乳がんの手術を受ける。その後再発したが1983年に渡米、ニューヨークを本拠に、日英両語による国際ジャーナリストとして活躍した。1984年がん再々発。1987年7月9日、ニューヨークの緊急入院病院にて死去。遺言により、日本人以外のアジア人ジャーナリストの活動を援助する目的でアメリカに「千葉敦子基金」を設立された。

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