原因不明の体調不良
2019年1月、26歳の私は当時コーヒーショップで勤務していました。元々は飲食店勤務だったこともあり、お酒を飲むのが好きでした。初めて自分の体調に違和感を感じたのも、そんな日常の飲み会の翌日でした。
いつもと変わらない量のお酒を飲み、通常なら二日酔いにもならない程の摂取量だったのにも関わらず、とても酷い、それは酷い二日酔いでした。そしてその日を境に二日酔いが治ることはありませんでした。
何を食べても胸焼け、吐き気。次第に何も喉を通らなくなり、この状況が1ヶ月続きました。流石の私もこれは何かおかしいなと思い、家から一番近い消化器内科を受診することにしました。
そのクリニックで、まず初めに診断されたの病名は、「逆流性食道炎」でした。
確定診断をするために胃カメラの予約をし、先生より「逆流性食道炎に絶対効果がある薬」を処方してもらいましたが、一向に良くなりません。薬が効いていると実感できる日は一度もありませんでした。
そして胃カメラでの診察。私の食道、胃は先生が驚くほど綺麗でした。炎症箇所もありません。それでも先生は「その薬」を飲んで様子を見よう、とのことでした。
その頃の私は既に10キロほど体重が落ちてしまっていました。口にできるものは、麦茶と桃ゼリーだけです。体力もかなり落ち、毎日吐き気との闘いでした。仕事も休みがちになっていきました。
「逆流性食道炎」と診断された翌月の2月中旬、効かない薬を処方され続けることに違和感を覚えたので、違う病院を受診してみることにしました。
そこで診断されたのが「機能性ディスペプシア」でした。
簡単に説明すると精神的なストレスや自律神経の乱れから起こる、胃炎のような症状のことを指します。挙げられる症状と、私の当時の状況はその症状に当てはまりました。
しかし、日頃からあまりストレスを感じてはいなかったので少し変だなあと思ったのを、よく覚えています。
そこで処方された薬は、漢方薬と、胃薬でした。僅かながら、効果があったように思います。
当時、とても楽しみにしていた大阪旅行では、串カツを少量食べれるまでに少し回復しました。
しかし、そう思えたのもつかの間、症状はどんどん悪化していきました。
3月上旬、この頃には吐き気に加え酷い口渇感に悩まされました。喉が乾きすぎて、うまく喋れません。1日に3リットル以上水分を摂っていたと記憶しています。
次第に桃ゼリーも食べられなくなり、仕事にも大きく影響しました。栄養を摂取できないので目眩が酷く、頭もほどんど回っていない状態に陥りました。
そして3月中旬、もう何も食べられなくなっていました。3時間前に食べたフルーツゼリーが何の消化もされず、その形をしっかり残した状態で胃から戻ってくるのです。
胃カメラではあんなに綺麗だったのに、私の胃は全く機能していませんでした。体重は、更に6キロほど減っていました。
定まらない診断結果から手術へ
薬はまだ残っていたのですが、著しく悪化してしまったので、更に他の病院をもう一度受診することにしました。そこでは腸のレントゲンをしたと思います。
その病院で診断された病名は「腸閉塞」でした。
腸が便で詰まり、限界を迎えて胃が消化活動できないと説明されました。この数ヶ月、ほとんど食事をしていなかったので、私はこの診断に違和感しかありませんでした。
そして、口渇感に関しては「糖尿病なんじゃないの?」と。しかし保険の関係上、翌月に入らないと血液検査はできないと言われました。
病院ごとに違う診断が下されて、医師から何を説明されてもよくわからなくなっていました。とにかく効く薬が欲しい。そればかり考えていました。
3月下旬、酷い目眩と吐き気に襲われ、もう精神的にも疲れ切っていました。
酷い腹痛で家のトイレから動けなくなり、母に連絡をして救急車を呼んでもらいました。
運ばれた先の病院でさまざまな検査をし、私が数ヶ月間悩まされていたものの正体がわかりました。
「高カルシウム血症」でした。
血中のカルシウムの正常値が10とすると、私はその倍の21もあり、いつ不整脈が起こってもおかしくないという危ない数値だったそうです。
そのままHCU病棟に緊急入院することになりました。
大量の生理食塩水を血中に流し込み、急いでカルシウム濃度を下げないといけなかったそうです。
これでやっと良くなるんだ、ちゃんと効果のある治療ができるんだ、と私は安堵することができました。
翌日から一般病棟に移ることができました。
それでも尚、生理食塩水の大量投与は続きます。徐々に口渇感もなくなり、食事もできるようになりました。
数ヶ月ぶりのまともな食事です。涙が出るほど嬉しかったのを覚えています。
そしてCTや超音波検査などの精密検査もしました。その結果、私の腎臓には「小さなコブ」がある、と、総合診療科の先生より説明がありました。
当時の私はその「小さなコブ」が「悪性腫瘍」だとは思いもしませんでした。
カルシウム値もかなり正常値に近づいた頃、泌尿器外科の先生から小さな部屋に案内され、両親と共にCTで撮った私の腎臓を見せてもらいました。
説明を受けていたその「小さなコブ」は、小さくはありませんでした。素人の私が見ても大きいのではないか、ということは分かりました。
腎臓は左右に1つずつありますが、私の右腎は元の形を留めておらず、その殆どが腫瘍に侵食されていました。
そこでは右腎を全て取らなければいけないこと、お腹を30cmくらい切らなければいけないこと、悪性かどうかは手術後に検査しないとわからないということ、などの説明を受けました。
私の頭の中は、死への恐怖と、両親への申し訳なさでいっぱいでした。
涙をこらえる母の顔を見たら、私は泣くことができませんでした。
人の前では絶対に泣かない、前向きに頑張ろう、と決めました。「病気だから不幸」と、人に思われたくなかったのです。
私は誰よりも幸せになろう、とその日の夜に一人病室で心に誓いました。
そして迎えた手術当日、自分の足で手術室まで行き、手術台に横になりました。
開腹手術なので、「硬膜外麻酔」という、背中の硬膜外からカテーテルを通し、麻酔を直接注入する局所麻酔を全身麻酔の前に行いました。
それからは全身麻酔で一気に眠り、次に目が覚めたのは6時間後でした。
無事に終わったと看護師さんから聞き、私は初めて人の前で泣きました。
初めて母の前で泣きました。
しかし麻酔の影響でまたすぐに眠り、目覚めたのは翌日でした。術後の記憶はあまりありません。
翌日から看護師さんのリハビリ指導が始まりました。
硬膜外麻酔、点滴の痛み止め、飲み薬の痛み止めを駆使しても痛いものは痛く、しかしそれでも歩いた方が回復が早いとのことで着替えをしたり、立ってみたりと寝てじっとしていたい気持ちとは裏腹に、指導に耐えました。今では看護師さんにとても感謝しています。
2日目には尿管のチューブが外されて、毎回トイレには自力で行かなくてはいけなくなりました。尿管チューブのおかげで勝手に排尿されていたので、脳が排尿の仕方を忘れたのかトイレに座っても上手に排尿できなかったり、逆に間に合わなかったり・・・そんな苦労もありました。
3日目には硬膜外麻酔のチューブが外されて、4日目にはシャワーにも入れました。やっと排便もあり、体から徐々に麻酔が抜けていくのを感じました。
しかし、開腹手術で30cmも切り、腹筋も切断しているので排便時にお腹に力を入れたり、笑ったりするのがとても痛かったです。腹筋は何をするにも使うんだなあ、と実感しました。
その後歩行のリハビリを毎日続けて順調に回復し、術後1週間で退院することができました。
病理の結果には1ヶ月かかりました。その1ヶ月の間は、なんとも言えない不安な日々を過ごしていました。
時間さえあれば、インターネットで腎臓がんや高カルシウム血症について調べまくっていました。
良い情報よりも悪い情報の方が目に入りやすく、落ち込んではまた調べ、そして落ち込む、そんな日々でした。
病理診断は「希少がん」
ついに病理の結果の日。誰もが予想していない結果でした。*「悪性ラブドイド腫瘍」。
3歩歩いたら忘れてしまいそうな、難しい名前の病名でした。あまり症例がなく、極めて希少ながんだということを説明されました。
更には3歳までの小児が多く発症するがんという事です。私は大人なのに、小児がんに罹患しました。
そしてがん専門病院への転院が決まりました。
「がんでした」と言われる心の準備はしてきたつもりですが、想像していたよりも状況は悪いんだな、と感じました。
帰宅してから、早速病名をネットで調べた結果、良いことは一つも書いてありませんでした。
再発率の高さ、症例の少なさ、治療法が確立されていない、ことなど、正直気が滅入りました。情報がなさすぎるのです。希少がんとはそういうものなのだ、と思い知らされました。
そして心はどんどん孤立していきました。
告知の週明けには、がん専門病院での初診がありました。
がん専門病院には沢山の人がいて、初めて独りではないんだ、と実感することができました。
沢山の人達が治療に頑張っている、私も頑張ろう!そう思えました。
初めて会った先生は、悪性ラブドイド腫瘍について、沢山の情報を説明してくださいました。
ラブドイドには、やはりこれといった治療法がありませんでした。
しかし「ユーイング肉腫」に用いる「VDC療法」と呼ばれる、化学療法に効果があったという実例があるらしく、私もそれを受けることになりました。
全6回、約半年間入退院を繰り返しながら治療を受けました。
抗がん剤治療3日目に、病室で27歳の誕生日を迎えた「離職する」という覚悟
力仕事や、立ち仕事が多い仕事だったので、手術後の勤務はすぐにはできないかもしれないと伝え、3ヶ月の休職を取ることになりました。私の雇用契約では、3ヶ月が休職の取得ができる最長の期間でした。更に抗がん剤治療が決まり、治療が長く続く間に、取得できる休職期間はあっという間に過ぎてゆき、退職せざるを得ませんでした。
その間、傷病手当や医療保険などで治療費はまかなっていました。
好きな仕事だったので治療が終わったら戻ろう!と意気込んでいましたが、現在は違う職場で働いています。
心の支え
私は性格的に我慢強く、弱さをさらけ出すことが苦手です。家族は、感情を表に出さない私にどれだけ苦労した事かと、今は申し訳なく思っています。母は、なるべく私が一人にならないように、仕事をセーブしながらそばにいてくれました。
父は、何も言わないけれど、弱音も吐かずに支えてくれました。
兄弟も、それとなく一緒にいてくれます。特に仲の良い妹は病院の付き添いや休日には、一緒に買い物やランチに行ったりと、なるべく明るく過ごせるように気を遣ってくれたと思います。
数ヶ月に1度くらいしか会わなかった幼馴染も、2週に1度は遊ぶようになりました。
結果的には、私が我慢強いのではなく、みんなの支えが大きい、という事でした。何かを言ってもらうよりも、そばにいてくれる方が嬉しかったです。
病気により変わってしまった人間関係もありましたが、変わらない事が何よりも心の支えになったと思います。
妊孕性の温存をしない決断
治療に用いる抗がん剤の中で、「ドキソルビシン」という薬が、最も副作用が出る抗がん剤でした。治療を受けた30%の人が閉経してしまうと言われました。それを聞いた時は絶望的でした。がんは、私から将来の可能性も奪うのかと思いました。
提携している病院で、卵子凍結についての説明を受けることになりました。
胎児の時に一生分の卵子が作られること、若い20代なら卵子がまだ体内により多く残っている可能性が高いので生理が戻ってくる可能性も高いこと、卵子凍結には時間を要するのでその間はがんへの治療が行えないこと、そしてかかる費用などの説明を受けました。
私は、悩んだ末に卵子凍結をしないことを選びました。再発した時のことを考えたら、結婚して子育てしている自分を想像できなかったからです。
幸いなことに、現在は生理も正常の周期で戻ってきています。
妊孕性の温存については、非常に判断が難しいですが、「何を正解にするのか」、自分が一番に納得できるものを選ぶ事が、一番良いのかなと考えています。
副作用とその合間のブレイクタイム
2回目の抗がん剤治療あたりから、髪や全身の体毛が抜け始めました。分かっていたことなのに、お風呂の排水溝や寝起きの枕を見て、とても落ち込みました。
元々ショートヘアだったので、ウイッグはロングを選びました。
Twitterで同じ闘病中の女の子からおすすめのメーカーを聞いたりして、気がつけば6個くらいに増えていました。
完全に脱毛していた時期は、ウイッグがあまりにも不自然で悩んだり、写真に写り込むのが嫌になったりもしました。
また、爪も紫色に変色しました。仕事をせず治療に専念していた時期だったので、自分の好きなネイルカラーにして、変色を目立たないよう工夫をしていました。
抗がん剤による吐き気は人並みだったかと思います。
副作用で一番辛かったのは、白血球が減らないように維持するための注射です。背中や腰の骨がとても痛くなり、寝ても覚めても痛くて数日間ぐったりしていました。
その数日間を乗り越えると痛みや吐き気も治り、次の抗がん剤まで楽しく過ごしていました。
食べたいものを食べて、旅行にも行きました。
今振り返れば、心のどこかでは、元気なうちに、生きているうちにやらなくちゃ!という焦る気持ちがあったかと思います。
そして6回の抗がん剤治療を終えて、現在に至ります。
現在は3ヶ月に1度、定期的にCT検査を受けています。
術後の後遺症(手術痕付近の神経の痺れ)は未だにありますが、抗がん剤を終えてからすぐに筋トレを始めたり、と日々いろいろなことに挑戦して、生き生きと過ごしています。
がんの公表
髪の毛が抜けるタイミングでSNSで自分が病気であることを公表しました。と、同時にブログも開設しました。どうしても「がん=死」というイメージを、私自身が払拭したかったのです。
公表後は、大勢の方々から沢山応援していただきました。私が治療を乗り越えられたのも、こういった多くの人達の支えがあったからです。
公表することで傷つくこともありましたが、私は病名を公にしてよかったと思っています。
また、悪性ラブドイド腫瘍という疾患は情報が少なく、手術をして抗がん剤治療もした結果、私は今日も生きていることを広く発信したいと思いました。
治療を終えて生きていることは、私が闘病中に知りたかった未来です。
いま元気に生きていること。それが何よりも大事だし、今の私が発信すべきことだと思っています。
力強く生きる
「がんになってもそれなりに幸せ」。これが私の人生のテーマです。がんになった時は人生の終わりかと思ったけど、実際は新しい人生が始まりました。
仕事ばかりの生活が一変しました。やりたい事、見たい物、行きたい場所ー。 自分の心の声に耳を傾けられるようになりました。
がんは私から沢山の希望や可能性を奪っていき、自分は生きていれば十分!とは全く思っていません。
病気が原因で恋人との別れも経験しました。生理は戻ってきたけど、不妊治療は将来余儀なくされるかもしれません。
こういったことは、少なからず私の心の中でトラウマとなっていますが、それでも私は病気だから不幸、病気だから多くを望んじゃいけない、とは思いたくはないです。
私は、それなりに幸せな人生を病気のことも含めて、これからも自分の心情を発信していきたいです。
「がん=死」ではない事、「病気だから不幸せ」ではない事、病気でもできる事。
病気の罹患によって、間違いなくもたらしてくれた今を大切に、私は今日も生きています。
沢山欲張って、力強く生きています。
澁谷莉子さんブログ:「この度、希少癌になりまして。【悪性ラブドイド腫瘍】」 https://ameblo.jp/rikopicapi/(文責:中島 香織)
*「悪性ラブドイド腫瘍」とは 主に中枢神経(脳や脊髄)、腎臓、肝臓、軟部組織など体のあらゆる部位に発生する悪性腫瘍です。中枢神経と腎など、複数に同時に発症することもあります。
悪性ラブドイド腫瘍の多くは1歳未満の乳児期に発症し、大半の症例は2歳までに発症しますが、少ないながら、成人での発症も報告されています。
病気の原因は不明ですが、どの臓器に発生した腫瘍においても、SMARCB1(hSNF5/INI-1)遺伝子の異常が報告されています。
少ないですが、家族性の発生も報告されています。
症状は発生した臓器によって異なります。
例えば腎ラブドイド腫瘍の初発症状は、腹部の腫瘤、血尿、発熱などですが、無症状のこともよくあります。
治療法としては、最適な治療(標準治療)は確立しておらず、欧米を中心に、現在も小児を中心とした臨床試験が行われています。
一般的な治療方針は、手術で摘出が可能であれば、外科手術で摘出をしたのち、多剤併用抗がん剤治療、造血幹細胞移植を併用した大量化学療法、放射線療法などを組み合わせた治療が行われます。
中枢神経原発の場合は、外科手術で摘出をしたのち、抗がん剤の髄腔内注射、放射線治療などを組み合わせた治療が行われます。
手術が難しい場合は、緩和ケアに加えて、多剤併用抗がん剤治療が検討されます。
抗がん剤治療の内容としては、ユーイング肉腫やウィルムス腫瘍、ICE療法といった多剤併用抗がん剤の使用成績が報告されています。
治療成績向上のため、新薬開発も検討されており、EZH2阻害薬などの新しい分子標的治療薬が期待されています。
参考資料:小児慢性特定疾病情報センター「悪性ラブドイド腫瘍」 解説:国立がん研究センター 希少がんセンター 乳腺・腫瘍内科 下井 辰徳先生