胸の違和感から精密検査へ
2015年8月のことです。
還暦になる年の秋に、以前からの趣味であるロードバイクで100キロを走ろうと決めていました。
そのとき、私は55歳。
胸やけのような自覚症状はあったものの、いつものように出社して仕事をしていたところ、お昼近くに胸の痛みが激しくなったので、午後から仕事を休み、すぐに近くのクリニックに行きました。
同僚に紹介してもらったその医師が、たまたま「呼吸器内科」でした。
とても丁寧な問診をする先生で、30分近く症状の話をした後、レントゲンを撮ろうということになりましたが、実父が小細胞肺がんで亡くなったことを伝えると、レントゲンで少しでも異常があれば、念のためCTも撮ろうということになりました。
CT診察の結果、肺がんの可能性が極めて高いことがわかり、大きい病院へ紹介状を書いてもらうことになりました。
1か月の間に11日間の時間を費やし精密検査をしましたが、この間も胸やけは治らず、担当医からは開業医に言って別途診断をしてもらうよう促されました。
そこで、胃腸科のクリニックで診てもらったところ、「非びらん性胃食道逆流症」という診断でした。
薬を処方され、一錠飲むと、胸の痛みは一気になくなりました。もし私が最初からこの胃腸科を受診し、この一錠の薬を先に飲んでいたら、肺がんを早期発見することはできなかったかもしれません。
たまたま最初に行った病院が呼吸器内科であったこと、実父の話をしたことなど、幸運が重なったのだろうと思います。
高校時代からの親友は、高校三年生のときに若年性糖尿病を患い、インシュリン注射を37年間続けていました。
私が肺がんに罹患したことを告白すると、「結局、先生を信頼することが一番大事」と助言をしてくれました。
病院での主治医は信頼できる存在となっていたので、セカンドオピニオンは受けていません。
診断から「命の数字」に直面
病院での11日をかけての精密検査の結果、肺がんと診断されました。
右上葉、肺腺がん、ステージⅠB。
ひどい胸やけからCT検査をしたところ、胸部に縁のケバだった肺がん特有の陰影が見つかりました。
胸やけとは無関係な肺がんでした。
幸いにも根治手術が可能な状態であったので、呼吸器内科での初診から2カ月半後に手術をすることが決まりました。
手術中に生検をして腫瘍を判定するため、もし胸膜にがん細胞が散らばっていたり、胸水がたまっていたりする場合にはインオペ。
ステージはⅢかⅣに上がり、薬物療法に切り替えます。
良性の腫瘍であった場合も、手術を中断し経過観察になります。
それらのいずれでもなく悪性であれば、標準治療として右肺の三分の一を切除し、その周辺のリンパ節を郭清します。
当時、ステージⅠBの5年生存率は60%。
術後2年以内に、再発や脳への転移をすることも多い肺がんだと判り、私は生まれて初めて自分の「命の数字」に直面することになりました。
人には余命があるということを切実に感じました。
だからこそ絶対にこの5年間を生き抜いて、ロードバイクを駆って100キロを走ろうと考えたのでした。
手術前日社会に戻るための一歩
手術後のICU。
「6センチやよ。6センチ。きれいにとれたって。」
全身麻酔が覚めかけたときでした。
「きれいにとれたって、先生が。」
腫瘍が6センチであったこと、手術は成功したことを妻が私の耳元で言ったようでしたが、胸にドズンと重く刺すような痛みがひどく、私は目を開くことも身動きすることもできませんでした。
そして、すぐに朦朧として、次に目が覚めたときには医療機器の電子音が聞こえてきて、薄く目を開くと天井が見えました。
右の肋骨の間には太いチューブが入っていて、まるでハサミを刺しているのではないかと思うくらい痛みを感じました。
いくつもの管が体のあちこちに差し込まれ、たくさんの医療機器に囲まれている状態の中で、白い透き通った砂浜を走っている夢を繰り返し見ました。
とても長い夜でした。翌朝、執刀医が回診に来て、「さあ、松本さん。これからは、あなた次第。あなた次第です。あなたが病気を治していくしかない。」。
厳しい口調でアドバイスを受けました。
「今すぐにリハビリを始めてください。最大のリハビリは一日も早く社会に出ることです。そのためには歩くこと。歩いてください。今すぐです。今すぐに立ち上がって、自分の足で歩いて、病室に帰ってください。できますか?」
右肺の三分の一を切除。
その翌朝、まったく痛みが癒えない状態。
立てるのだろうか。歩けるのだろうか。
一瞬にいろいろな思いが沸き起こりましたが、電動ベッドの背もたれが上がったときには、私は必死で立っていました。
まっすぐには立てませんでした。
看護師に誘導されつつ、点滴棒を引きました。
背中を丸めて、廊下の手すりをつたいながら、よたよたと歩きました。
看護師の詰所まで来たとき、「お帰りなさい!松本さん、お帰りなさい!」。
ひとりの看護師が大きな声で言うと、一斉に拍手が沸き起こりました。
このときの泣きだしそうな感傷を、私は忘れることができません。
退院は、術後5日目でした。当時の標準的な入院期間だと聞いています。
症状を受け入れ、そして目標の実行へ
それからは初めての経験の連続でした。
術後の薬のためか、味覚がない、何を食べてもまずい。
匂いがしないのに、下駄箱の異臭だけが鼻につく。
口内炎がたくさんできる。下痢がひどい。咳き込む。息が切れる。手術をした右胸がずしりと痛い。
本当に治るのだろうか、楽になるのだろうかという不安、憂うつ。
術後の生活は、思っていた以上につらいものがありました。
強く、明るく生きるのは、理屈ではありません。
執刀医が言っていた通り、自分次第です。
5年生存率を延ばすのは自分自身。
今の自分を受け入れることがそのスタートラインです。
いつでも前向きであることが生きる源です。
「100キロを走れるだろうか」ではなく、「100キロを走ろう」と自ら決めることが始まりです。
そのことに、気づくことができました。
社会復帰まで
がん保険には、以前から加入していました。
また、生命保険の見直しをしており、告知前にがんにも適用される契約に更新したところだったので、幸運なことに手術費用などの金銭の不安はありませんでした。
会社では、上司にがん告知を受けたことを手術をする日が決まる前に話しました。
会社がメディカル事業を担っていることもあり、すぐに理解をしていただけたことは、職場の環境下にも感謝しています。
術前術後に6日間の有給休暇をとりましたが、この年の9月のシルバーウィークには5連休があったこともあり、休職届は提出しませんでした。
できるだけ早く社会に復帰し会社で仕事をすることが、最大のリハビリという執刀医の話に従順でした。
術後8日目には出勤しようとしましたが、上司から止められて有給休暇を延長し、週末をはさんで術後12日後に復職しました。
人生の第二話へ
以前からロードバイクには乗っていて、その前年の夏と前々年の夏に100キロを走っていましたが、肺がんの告知を受けてから、走る意欲を全く無くしていました。
また、手術後は走れなくなると思い込んでもいました。
ですが、肺は上葉を切除してもリハビリをすれば中葉や下葉が膨らんで呼吸機能をカバーするという話を術後に執刀医から聞き、それならば自分でコースを決め、一人でロードバイクに挑戦してみようと思い直しました。
術後2年目の2017年今年挑戦したバイクのコースは、伊勢の外宮から奈良の県境近くまでを往復するというシンプルなものでした。
相応にトレーニングをしていたつもりでしたが、思いのほかアップダウンがきつく、往路20キロまでは快調だったものの、折り返し地点では脚がズキズキと脈打ちました。
復路60キロを過ぎると風圧を受け続けた首がキリキリと泣き始め、ゴールは予定より一時間以上も遅れました。
走行距離104.39キロ。 タイム6時間26分17秒。 平均速度16.2キロ。
決して誇れるものではありませんし、歓喜して躍り上がるようなものでもありませんが、思いがけずそのゴールには当時高校2年生の一人娘が待っていました。
GPSで私を追尾していたらしく、スマートフォンでゴールの瞬間を連写。
私は小さくガッツポーズをして満面の笑み。100キロを走るという、ごく個人的なサクセスストーリーは、そうして第一話を完結しました。
今また私はこの次のサクセスストーリー、第二話を、そして、第三話を考え始めています。
私の人生は、いよいよこれからです。
(文責:中島 香織)