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罹患前の企業への復職と並行して、一般社団法人を立ち上げられた花木さんに、オンコロスタッフ中島がお話をお伺いしました。
症状は「風邪」?
中島:病気が見つかった経緯を教えてください。
花木:2017年、何気なく頬杖をついていたら、ふと首のリンパが腫れていることに気がつきました。
普通の腫れにしては大きい、ピンポン玉ぐらいのサイズでしたが、痛みもなく発熱もない、自覚症状がまったくない状況でした。
とはいえ、ただの腫れにしては大きかったので、念のため近所の耳鼻科に診てもらうことに。
その時は、「風邪をひいているんでしょうかね・・・」とあいまいな診断をされ、抗生物質の薬を処方してもらいましたが、1カ月経っても首の腫れは治まりませんでした。
そこで精密検査を受けるため、総合病院へ紹介状を書いていただき、細胞診で腫れの原因を調べてもらいました。
結果は、中咽頭がんの疑い。
極めて悪性の可能性が高く、万一遠隔転移していたらその病院では症例数が少ない、という点から「他の病院で確定診断を受けたほうがよいのでは」というアドバイスを受けて、連携している大学病院へ転院しました。
大学病院では、組織検査の結果「悪性」であることは確実となり、遠隔転移がないか、MRI、CT、PET検査を受けました。
腫瘍は首の2カ所と咽のみに留まっており、他の臓器への転移は見つからないことから、診断は「中咽頭がん、ステージⅣa」と確定しました。
ステージには惑わされない
中島:確定診断を受けた時の状況とお気持ちをお聞かせください。
花木:妻と2人で結果を説明されました。やはり「ステージⅣ」という響きは重かったです。
遠方に住む母に電話で伝えた時も、かなり取り乱していた様子でしたし、知人や友人もざわついたことは事実です。
ただよく調べていくと、部位ごとに「ステージⅣ」の5年生存率に差があることがわかりました。
遠隔転移もしていないことから、自分の中でも比較的希望が持てましたしね。とはいえ、やはり「ステージⅣ」の影響力は大きく、言葉が独り歩きしている印象を受けました。
中島:話は前後しますが、最初に総合病院で「がんでしょう」と言われた後、ご家族への説明は、どのようにされましたか。
花木:妻は、彼女なりにネットで症状を調べてくれており、「首の腫れは、化膿性の炎症のせいではないか」と言葉をかけてくれました。私もそのときはまだ楽観視しており総合病院で受けた精密検査の結果が出る時期に、以前から決まっていた友人との海外旅行に妻を送り出しました。
結果が出たら連絡する約束をしていたので、彼女の帰路の飛行機が離陸する時間と結果が出た時間が重なりましたが、LINEで「悪性腫瘍の疑いが高い」旨を伝えました。
楽しいはずの海外旅行だったので、せめて離陸してネットが繋がらなければ結果を知らせる時間を遅らせることができるという気持ちもありましたが、離陸前にLINEは既読となりました。後日聞いた話では、機内ではそれまで楽しく一緒に旅行をしていた友人から、優しい言葉をかけてもらっていたそうです。
中島:お子様にはどのように伝えたのですか?
花木:私には、当時4歳と小学校1年生だった息子がいます。
病名を伝えてもまだ理解は難しい年齢だったので、「体が少し悪くなったので、大好きなサッカーの応援や公園にはしばらく一緒には行けなくなりそう。でもちゃんと治すから辛抱してね。」と、オブラートに包んで伝えました。
息子たちは特に取り乱す様子はなく、私が闘病中のあいだも学校や保育園には前と変わらず通学・通園しており、入院時には頻繁に見舞いに病室へ来てくれました。まだ病気についてきちんと理解するには、幼い年齢だったと思います。
病院を決めるまで
中島:治療を始められた病院のことをお聞かせください。
花木:確定診断を受けた大学病院で治療を始めてもよかったのですが、他に治療法はないものかと模索を始めました。
2施設の病院へセカンドオピニオン、サードオピニオンを受け、最終的には通院時間を考慮して、比較的自宅から近いがん専門病院へ転院を決めました。
初診の耳鼻科から始まり、総合病院、大学病院、がん専門病院、とサードオピニオンまで受けた形になりました。
たまたま自分が医療関係の企業に勤めていたので、他病院で主治医の治療方針についての意見を仰げるシステムは当然知っていましたし、大学病院もがん専門病院も、治療方法に大きな差はないことがわかりました。
継続的な通院のことを考えると、病院の立地は重要です。ただでさえ苦しい治療が予想される中へ通勤ラッシュの時間帯に満員電車に長時間乗るのは億劫ですよね。通院にかかる時間は、身体に負担がかからないほうが絶対に良いはずです。
最終的に、自宅から近いがん専門病院で治療を受けたことは、間違っていない判断だったと言い切れます。
職場への罹患報告
中島:職場への報告はどのようにされたのでしょうか。
花木:まず上司に伝えました。罹患前から、よくコミュニケーションを取っていた間柄でしたが、まさか身近にいる部下ががんに罹患するとは、と驚いた様子でした。
精密検査が始まる早い段階から報告はしていましたし、罹患の報告後もすぐに人事部へ根回しをしておいてくれたおかげで、休職などの申請の類はスムーズに進めることができました。
また、私は社内向けのメールマガジン編集を担当していたので、その中で自分の罹患についてオープンにすることにしました。
遅かれ早かれ、同僚には病気のことはわかることですし、自分の言葉で公表したいと思っていました。
自分は配信後にすぐ休職して治療に入りましたので、その後の社内での反応は直接知ることはありませんでしたが、後で聞いたところによると、かなりのショックや驚きが社内には広がったそうです。
副作用との闘い
中島:治療の流れを教えてください。
花木:最初に外来で化学療法を週1回のペースで8クール受けました。カルボプラチン、パクリタキセル、セツキシマブの3種類の抗がん剤の投与です。
外来が休診になる年末年始は、入院をしながら投与を継続し、トータルで2カ月間かかりました。
その治療が終了すると、次の治療である放射線は35回照射しながら、並行してシスプラチンの投与を始めました。
副作用がもっとも強く出たのは、この放射線治療のときでした。20回を過ぎたころには、喉が焼けただれる症状が顕著に現れ、水や唾を飲み込むことすらできなくなってしまいました。
医療用麻薬であるオキシコドンを最大限処方してもらいましたがそれでもまったく痛みは引かず、眠れない、食べられない、など四面楚歌の状態に陥りました。
残り10回を残す段階で、妻に「もう治療を止めたい」と弱音を吐くほど辛い治療でしたが、35回の照射を乗り越えないと支えてくれている家族や周囲に申し訳が立たない、と自分を鼓舞していました。
中島:食事はどうしていたのですか?
花木:放射線治療を始める前に、食べることができなくなることを想定し、予め胃ろうを造設していました。
2017年3月に造設したこの胃ろうは、4月末に放射線治療が終了した後の療養期間を経て最終的な治療結果が出る8月頭まで、外すことができませんでした。
これによって、時期に応じてさまざまな苦労を伴うことになりました。
まず造設した直後は、お腹に穴を空けたので、声に出して笑ったりくしゃみをするとお腹に響き、激痛が走りました。
寝返りをうつこともできず、公共の場で裸を見せることにも抵抗がありました。
また、治療中、実際に胃ろうを使っていたときは、口から食べることとは違い、食事をした気が全くしませんでした。
胃ろうにセットする流動食も、1回の量を計ったり、温めたりする必要があるので、とても面倒に感じました。
5月以降は治療も終わり、徐々に口から食べ物を入れられるようになりましたが、ブランクによって食べ物の口からの飲み込みが弱くなり、うどんや麺類ばかり食べていたことを覚えています。
また、喉の渇きから、どこへ行くにもミネラルウォーターのボトルを手放せなくなりました。この症状は1年半近くかかりました。
西口洋平さんとの出会い
中島:一般社団法人キャンサーペアレンツの会員でいらっしゃいますね。
花木:前々職の同僚が、代表を務めていらっしゃる西口さんとたまたま同じ職場で働いていたことがあったそうで、キャンサーペアレンツを紹介してくれました。
ただ、その時はすでに治療に入っており、患者団体や他のサバイバーさんたちとの交流に、少し抵抗がありました。
勇気をもらえることもありますが、辛いお知らせを耳にすることもあるでしょうから、その一喜一憂からは距離を置いておきたかったのです。
それよりも、治療の最中は自分自身に集中したいという気持ちが強く、キャンサーペアレンツは登録だけに留めていました。
中島:その後はどのようにつながっていったのですか?
花木:はい。いざ、治療が終わり治療結果が出ると、急に孤独感を感じるようになりました。
自分のような小さな子どもを抱えて働く世代のがん罹患者がまわりにおらず、社会ではマイノリティな存在なのではないか、と強く思うようになりました。
他の、同年代のがんサバイバーの皆さんは、どのように生活しているのだろう、どのような気持ちなのだろう、と、改めてキャンサーペアレンツのSNSサイトにログインし、情報を集めるようになりました。
キャンサーペアレンツSNSサイトの中に「日記コーナー」があるのですが、以前から書いていた自分のブログを転用する形で、書き込みをするようになりました。
会員の皆さんは、基本的にニックネームで登録されていますが、私は本名で登録しており、それが珍しかったらしく、西口さんから、直接お声がかかりました。
例えば、自分でも会の中でなにかお手伝いができないか、と西口さんへ「本名と顔写真の公開を前提に、その方のチャレンジ、生きがいをインタビューして外部ブログとして一般公開する」コンテンツをつくりたい、と提案し、承諾のお返事をいただいたこともあります。このブログは1年半で10名を超える方に登場いただくまでになりました。
ニックネームの会員さん達にとっては、いきなり「本名で」公開されることには抵抗があるかもしれない、と自らインタビューの第1号となりました。
西口さんの想いを受け継いで
中島:花木さんにとって、西口さんはどのような存在ですか。
花木:西口さんは、企業に所属しながら一般社団法人であるキャンサーペアレンツを立ち上げられました。
自分もサラリーマンをしながら、社団法人を立ち上げることができるかもしれない-この着想は、西口さんの活動をモデルにさせていただきした。
普通のサラリーマンのときは想像できなかった、法人を立ち上げたからこそ生まれたリスクや苦労、家族を抱えながらの活動に対する想いなど、今は少しだけ西口さんと同じ目線で物事を考えられるようになってきたのかなと思っています。
残念ながら、2020年5月に西口さんはお亡くなりになりましたが、今もそのご遺志はわずかでも受け継いでいるつもりですし、今でも西口さんはいつも私の活動を後押ししてくださっている感覚をもっています。
その想いを探ると、「行動する」、「一歩前に踏み出す」、「繋がること」に辿り着きます。
自分が1日1日を魂を込めて生きながら、その想いを受け継ぎ行動し続けることを、西口さんは喜んでくださっているのではないか、と感じています。
社団法人の立ち上げ
中島:復職されてからのご活動を教えてください。
花木:医療関係の企業に勤めていることも関係していますが、昨年2月に産業カウンセラーの資格を取得しました。
当初の動機は、がんという病気になったから、というわけではありませんでしたが、取得後、カウンセラーとして活動していく中で、同僚や知人ががんに罹患したらどう対応したらいいのかわからない、といった悩みを抱えている社員が多いということがわかりました。
そういう方に向けたアドバイスなどをボランティアや副業の一環で始めました。
また、現在勤めている会社の名前を背負って講演活動も始めました。
保険会社などへ出向いて、自分の経験を基に、万一のときのために備えておくことの大切さを示したりしています。
中島:社団法人を立ち上げられた目的は?
花木:自分が代表を務める一般社団法人がんチャレンジャーは、「寄り添い方」をテーマに、人との繋がりにより、前向きな人生を歩んでいただけるようなサバイバーが、一人でも増えることが最終目標です。
きっかけは前述のボランティアで、こうした活動をもっと本腰入れてやりたいと思い、勤務先の許可を取りつけました。
時間の大切さや、身体の有限さは、サバイバーの皆さんはよく理解されているはずなので、一歩踏み出せばその行動力は大きいものではないか、と考えています。
「寄り添い方」ハンドブック
中島:今年、クラウドファンディングによって、『「寄り添い方」ハンドブック』という冊子を作成されましたね。
花木:はい。現在は患者団体や、ご家族、医療スタッフ、企業の人事・総務の方々などからご希望をいただいており、ご興味のある方からご連絡をいただければ、無料で郵送(個人の方にはPDFにて配布)しています。
https://www.gan-challenger.org/handbook/
中島:今後のご活動の目標を教えてください。
花木:周囲の方々が自分の意思を尊重してくれたり、話を聞いてくれたり、その関わりがあって今の自分があります。
気の利いた言葉ではなく、自分の気持ちを理解しようと寄り添ってくれる、共感してくれる、受け止めてくれる人がまわりにいたら、「もう少し、がんばってみよう」とパワーをもらうことができます。
どんな人にも、なにげなくかける一言で傷つけてしまう可能性があるので、言葉を発する前に少し立ち止まってみるだけでも生きやすい環境の世の中になるのではないでしょうか。
人と人とのかかわり方、繋がりを、今の世の中に少しずつでも浸透させていければと思っています。
(文:中島 香織)
一般社団法人 がんチャレンジャー
https://www.gan-challenger.org/
花木さんブログ「38歳2児の父、まさかの中咽頭がんステージ4体験記!~がんチャレンジャーとしての日々~」
https://ameblo.jp/hanaki-yuusuke/
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