「がんにならなければ、歌手にもなっていなかった」――2004年、36歳の若さで甲状腺がんが見つかった木山裕策さん。「死」や、声が出なくなる恐怖と向き合いながらも治療を行い、2008年、歌手としてメジャーデビュー。第59回NHK紅白歌合戦に出場するなど、数々の快挙を成し遂げました。がんの経験が、どのようにして夢への一歩となったのでしょうか。その道筋をうかがいました。聞き手は、肉腫経験者の鳥井大吾です。
のどにしこり……「悪性です」
鳥井:がんが見つかったときのことを教えてください。
木山:会社の人間ドックで、のどにしこりが見つかりました。「悪性の疑いがある」とのことでしたが自覚症状はなく、「念のため検査をしてみよう」という程度。結果を聞きに行く前日も、いつも通り夜中まで働き、朝までカラオケをした後に、そのまま病院へ向かうといった具合でした。
そんななかでの医師の言葉は、「悪性です」。ポカーンとしてしまって、頭は真っ白。「この先生、何を言っているんだろう」と思いました。
鳥井:ご家族もショックを受けられたのではないでしょうか。
木山:妻には、告知後すぐに電話で「がんって言われた。どうしようか」と伝えました。慌てる性格の私とは対照的に、妻は普段から肝が座っていて「調べてみないと何とも言えないから、とにかく調べてみよう」と意外と冷静でした(笑)。当時、子供は8歳、5歳、2歳の3人。幼かったこともあり、子供たちには病気であることを話しませんでした。
鳥井:職場へは、がんのことを伝えましたか。
木山:当時リクルートに勤めていて、とても忙しい毎日を過ごしていました。そのような状況で1ヶ月間休む必要があり、「もしかしたら死んでしまうかもしれない」という思いもあったので、言うことにしました。私は当時、課長になったばかりで部下も50〜60人いました。上司と、課のリーダーに伝え、私がいない間の仕事の割り振りをしました。やることが多く、入院日の朝3時までかかっても引き継ぎが終わりませんでしたが(笑)。
鳥井:病気のことについて、職場の方の反応はいかがでしたか。
木山:やはりみんな、構えていました。「木山さん、大丈夫なの?」と。「がん」ということに、とても気を遣ってしまったようです。15年前の私の会社では、自分の病気を打ち明けたうえで休職する人はあまりいませんでした。私は特に迷いもなく伝えましたが、今考えると重い話だったのかなと思います。
「歌えない」――どん底からの歌手デビュー
鳥井:手術により、声が出なくなる可能性もあったのですよね。
木山:手術の前日に、医師よりその話がありました。「甲状腺は声帯のすぐ近くを通っているから、たとえ手術で触れなくても、神経が麻痺することがある。声がかすれることや、出なくなることもある」とのことでした。さらには、「手術が終わった時点で声がかすれていたら、一生そのまま」と。
鳥井:実際にはどうでしたか。
木山:術後すぐ、声を出すことはできました。でも、結構痛い。しばらくして友人がカラオケに連れ出してくれたのですが、全然歌えなくなっていました。声は安定しないし、ビブラートもかけられない。「歌えなくなっちゃったんだな……」と、とても落ち込みました。好きだった歌が歌えないのは、がんの告知よりも最悪な気分でした。
鳥井:再び歌うために、どんなことをされたのでしょうか。
木山:しばらくどん底の気持ちだったのですが、「これ以上ひどくなることはない」と思い、術後1年くらいから練習をしてみることにしました。月に1回の通院の帰りにカラオケに立ち寄って歌ったんです。痛いし、声はうまく出なかったけれど、徐々に練習時間を延ばしていって、半年くらいしたらだいぶ歌えるようになりました。カラオケでCDに録音もしました。
鳥井:録音しておこうと思ったのはどんな理由からでしょうか。
木山:今までは、普通に「寿命までは生きるのだろう」と思っていました。でも、がんになってからは「いつ死んでもおかしくない」という気持ちになりました。だから、子供のためにも自分の声を残しておきたいと思ったんです。また、歌は「年をとってからやればいい」と思っていたけれど、先延ばしにしていたらそんな日は来ないかもしれないことを体感しました。だったら「好きなことを今やっておきたい」と思いました。
鳥井:オーディションへの応募も、「やりたいことへのチャレンジ」ですね。
木山:がんになった人は、みんな“命のリミット”を感じるものだと思います。私は、歌うことは大好きなのですが、実は人前で歌うのは苦手なんです(笑)。でも、「今やっておかないと」と思いました。それからは、子供のピアノ発表会や近所の夏祭りなど、歌える機会があればどこでも歌うようになりました。これまでだったら考えられませんね。
鳥井:行動にだいぶ変化がおきたのですね。
木山:そうですね。そのほか、4人目の子供が生まれたことも後押しになりました。夢を追うより仕事に専念するべきだろうかと考えたものの、子供に将来、「生まれたから夢を諦めた」と言うよりも、「生まれたことで、がんばろうと思ったんだよ」と言いたいなと思いました。
鳥井:お子さんにはその後もがんのことは伝えずにいたのですか。
木山:デビューしたときに番組で制作してくれた私のドキュメンタリービデオの中で、がっつりと病気のことに触れていたんです。それを子供が見て、「え! お父さん、がんだったの?」となりました(笑)。その後、上の子が小学校6年生くらいになったときに、きちんと話をすることにしました。大変な病気だったということは、子供なりにちゃんと理解できたみたいです。
「自分のやりたいことに向き合う時間」を大切に
鳥井:がんのイベントなどに登壇する中でのお気持ちを教えてください。
木山:やはり、自分や家族がならない限り、がんのことは分からないし、興味もないことが多いと思います。今は、「2人に1人ががんになる」と言われている時代で、人ごとじゃないはずなのに、「自分の身に起こるまでは人ごとであってほしい」という願望が心の中にあるのかもしれません。いつも、そういった方に検診の大切さなどをどうやって伝えられるだろうかと考えています。私の周りにも、「忙しいから」と、検診に行きそこなっているうちにがんが進行し、亡くなった方もいらっしゃいます。特に、働くお父さんには検診の大切さを伝えたいですね。
鳥井:興味を持ってもらうのはなかなか難しいですね。
木山:がんを経験した人が、何気ない会話の中でアピールする場が必要だと思います。私はライブのとき、曲と曲のあいだに自分のがん経験について話をします。
「がんにならなければ、歌手になっていなかったと思う。がんになって、人生にはリミットがあると気づけた。がんになったことは決していいことではないけれど、きっかけになったと思っている。でも、健康はすごく重要で、特に働き盛りのお父さんは、検診に行きましょうね」と。
鳥井:ライブの合間であれば、構えることなく、自然な形で受け取ってもらえそうですね。それでは最後に、現在がんと向き合っている方へメッセージをお願いします。
木山:私は、がんになって以降、「残された人生をどう生きるか」を考えるようになりました。人生は、長いかもしれないし、短いかもしれない。どちらにしても、普段から生き方を意識していれば、それはそれで納得できる人生になるんじゃないかと思います。あまり焦らずに、自分のやりたいことに向き合う時間を大切にしていただけたらと思います。
鳥井:がんが夢を現実へと導くきっかけとなり、声が思うように出せなくても少しずつ前進していった木山さんの姿に力をいただきました。本日は、ありがとうございました。
(写真・文:木口 マリ)
プロフィール:
木山 裕策(きやま ゆうさく)
1968年生まれ、大阪府出身。35歳の時に左側の甲状腺に悪性腫瘍が見つかり手術を受ける。手術の際に声帯と繋がる神経(反回神経)を傷つけてしまう可能性があるため、声が出なくなるかもしれないと告げられるが、もし声が出るまでに回復したなら、歌手という夢へ挑戦することを決意する。その後日本テレビ系『歌スタ!!』に出演し、2度目のプレゼンテーションによってデビューが決定する。2008年2月6日にシングル「home」でデビュー。同年12月31日の『第59回NHK紅白歌合戦』に初出場する。
現在では会社員も続けつつ、数多くのテレビ番組に出演し、週末には歌を届けるため全国を飛び回る生活を続けている。
2019年2月にネクストリボン公式テーマソング「幸せはここに」を配信限定でリリースしている。