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乳がん体験者 濱島明美さん

[公開日] 2015.07.21[最終更新日] 2015.07.21

目次

2児の母親であり、育児、仕事と大忙しでのさなか、突然、乳がんであると告知を受けた濱島さん。20代という若さもあり、当時はなかなかがんである現実を受け入れられませんでした。がんを体験して伝えたい事、それは「自分らしく生きる」ことでした。 名前:濱島明美さん 年齢:41歳 性別:女性 居住:千葉県 職業:キャンサーネットジャパン職員 乳がん体験者

Q 乳がんになられた当時の状況と経緯を教えてください。

今から13年前の2002年の6月、ちょうど29歳の誕生月でした。子どもがまだ6歳と4歳でした。フルタイムで仕事をしていたので、残業などで迎えに行けないときには母が手伝いに来てくれていました。そのような中で母が「明美も29歳になったんだから、そろそろがん保険とか入った方がいいんじゃない?乳がんはお風呂上りなんかに自己検診で見つける事が出来るらしいよ」という話をしていました。普段はそんなことをやろうとは思わないんですけれども。何となくそのときお風呂上りにやってみたら、左胸に小豆があるような、ひっかかる感覚がありました。母に電話し「やってみたら小豆みたいなのがあるんだよね。でも、子どもを2人産んでいるし良性のしこりだと思うんだけどね。」という話をしたんです、そうしたら、「その若さで、もしがんだったらすぐ死んじゃうかもしれないから、すぐ病院に行きなさい」と言われ、病院に行ってみたら本当に乳がんだったという経緯があります。

Q 小豆みたいなものを見つけたときには「がんかもしれない?」と思われましたか?

自分では“しこり”があったとしても、子どもを出産したあとの、乳腺炎の残りか、そういったものだと思いました。当時、乳がんに関する本を読むと、『出産経験のある方はそういった“良性のしこり“繊維腫”が見つかる場合もあります。』と書いてあったのと、乳がんは比較的高齢の方がなるもので、まだ20代だった私は、それには当てはまらないと思っていました。

Q病院での検査で病名がわかったときはどのようなお気持ちでしたか?

最初に近くの病院の外科で検査を受けたときに、エコーの検査技師さんから「濱島さん、普通、“良性のしこり”っていうのは丸く写りますが、トゲトゲしているので明らかに悪性です。」という事を聞かされました。その時、自分はまだ20代だし、きっと何かの間違いだと思っていました。でも結局、細胞診とエコーの検査結果から「乳がん」と宣告されました。それでも、自分が乳がんだという事を受け入れられなかったので、紹介状を書いて貰い“がん研”に移動しました。

Q がんである事を受け入れられるようになったのはいつ頃ですか?

がん研で、またエコーやマンモグラフィーの検査をしたのですが、がん研でも結局「乳がんで間違いありません。」と言われて「本当に乳がんなんだ。」と思いました。それでもどこかで、何かの間違いじゃないだろうかという気持ちがずっとありました。

Qがんである事を受け入れることが出来なかったのには何か理由はありますか?

自分の年齢で乳がんになるなんて、全く思っていませんでしたので

Qどなたかに相談はされましたか?

まず、母親に電話で伝えました。その後は、職場で直属の女性の上司に、これからまだ検査が続くことや、今後、手術で入院することがあるかもしれないという事を伝えました。

Q 手術や検査の流れを教えてください。

自分では小豆くらいのしこりを1個しか見つけられませんでしたが、検査をしたら左側に5個の腫瘍があり、1番大きいもので1.7センチありました。そして、左の乳房を全摘した1年後に、シリコンの乳房再建術を受けました。あと抗がん剤を4クールやりました。

Q 治療中のお気持ちや辛かったエピソードなどがあればお聞かせください。

私は脱毛が1番辛かったですね。最初、先生からは「抗がん剤治療しながら仕事はできますよ」って話をされました。でも、毎日、満員の通勤電車にスーツを着て、カツラを被って乗ることが想像出来なくて、髪が抜けると分かったときに自分から仕事を辞めてしまいました。吐き気は、最初の方は吐いていましたが、4クールやるうちに、吐かなくなり、後半の副作用自体はそれほど苦しく無かったです。

Q周りの方のご理解はありましたか?

そうですね。まず家族の支えがすごく大きかったです。子ども達がまだ6歳、4歳ということもあり、母がうちに泊まり込んで、食事やお風呂の世話をしてくれていました。私は抗がん剤で具合が悪く、1日中寝ている状態の日もありました。当時母が仕事をしていなかったので本当に助かりました。そこで母の助けが無かったら、辛かったと思います。

Q 経済面での苦労はありましたか?

派遣社員で働いていたので“傷病手当”を貰ったのですが、収入が普段の6割なので、生活を支えるのはちょっと難しくて親から支援を受けていました。

Q 国の支援など、「あったらいいのにな」と思う制度はありましたか?

実は少し前に離婚していたので、がんになったとき、保険をちょうど切ってしまっていました。そのため、収入も無くなり、本当に家賃をどうしよう、光熱費をどうしよう、食費をどうしようという状態でした。どんな立場の人もがんになったときに、最低限の衣食住は守られるようになって欲しいですね。

Q ご両親の支えがある中でも、経済面などは本当に大変だったと思います。その他に特に辛い事はありましたか?

本当にお金が1番大変だったと思います。結局、私はお金の事も生活の事も、親が足りない部分を補ってくれていました。でも、そういう人がいない、独り身の人が、同じような立場になった時に支えてくれる人がいないというのは、大変な状況だと思います。また、治療中は子どもたちにも転校させたり、転園させたりしてしまい、辛い思いをさせてしまったと思います。

Q ご自身の病気をお子さま達にどのように伝えましたか?

私は全く伝えられなかったです。伝えなければと思ったんですけれども。自分が乳がんだという事を受け入れられなかったので、子どもに「これから入院する」と言おうとすると、自分が泣いてしまい子どもを動揺させてしまうと思ったので全く伝えられなかったです。

Q お子さまが知ったのはいつくらいですか?

親が、「お母さんはこれからね、入院して胸を切るのよ」と言ってしまいました。今は、だいぶ病院に子どもを連れていけるようになってきましたが、私の頃は“子どもは連れてこないで下さい”と言われていました。入院中の面会はダメっていう事だったので。特に小学校1年生のお姉ちゃんの方は「もうお母さんはそのまま死んじゃうじゃないかと思ってた。」と言っていました。

Q 感謝している方のエピソードについてお聞かせください。

そうですね、両親には本当に感謝しています。子どもたちのご飯、お風呂、学校との連絡や保育園の送り迎えも全てやって貰っていましたし、経済的にも支援をして貰いました。それと、オペの日に両親が立ち会う事になったので、その日は保育園のママ友が子どもたちに夕ご飯食べさせて、お風呂も入れてくれました。そういう近所付き合いをしてくれるママ友にも感謝をしています。

Q お母様から言われて、何か印象に残っている「ことば」はありますか?

オペが終わり、病室に戻り麻酔から覚めて目を開けると、父、母、兄弟、皆に囲まれていました。そのときに、母が「これからね、辛い事は全部言っていいのよ」とポロポロと泣いていました。「何で泣いてるんだろう?」と、そのときは思いましたが、オペの後で私の顔が真っ白で、死んじゃうんじゃないかと思ったそうです。それをすごく覚えていますね。

Q 今、目標にしている事はありますか?

私は、元の生活を取り戻そうと思っていますね。乳がんになる前は、派遣社員としてフルタイムでオフィスワークをしていました。そのときは毎月貯金をして、どんなふうに今後の人生を歩んで行こうなどを考えて生きていました。けれども、乳がんになったとき、「老後なんかきっと来ない」と思いました。乳がんは、2センチ以下は“早期発見”と言われていましたが、私のしこりは1.7センチにも関わらず、診断結果は、腫瘍5つ、リンパ節転移6つで、「ステージ3」でした。小さく見つけたのに、何でそんなに進行しているんだろうと当時は思いました。そこから、1年後の自分も想像出来なくなり、未来のことなんて何にも分からない。子どもの成長も見られないかもしれないと思いました。それから、1年後、何年後とかを想像せずに生きてきて、10年近く経ちました。今までは、目の前の事だけをやるような人生でしたが、これからはまた元のように10年後、20年後の自分の姿を想像しながらも、自分はずっと「乳がん体験者」だって思うんじゃなくて、「普通の41歳として生きていきたいな」っていうのが目標ですね。乳がんだった事も忘れて生きていきたいと思います。

Q 同じ体験された方や、これから治療される方に向けたメッセージをお願いします。

そうですね。今、この“キャンサーネットジャパン”の活動をしていて思う事は、がんは、がんになった人が悪いわけではありません。だから、それをずっと「何でがんになっちゃったんだろう?何で自分だけが?」と自分を責めたり、周りと比べたりせずに、自分らしく生きていって欲しいなと思います。

Q がんのような病気になると、「何で自分が?」「自分は不幸だな」と思ってしまうこともあるようですが、この現実を受け止めるにあたりきっかけは何かありましたか?

私は、最初、乳がんの“ステージ3”と言われた事もあり、情報は全然調べませんでした。当時は、13年前なので、インターネットもそんなに進んでなくて、あまり自分で調べませんでした。悪い事しか目に入らなかったので。でも、抗がん剤が終わったあたりに、私と同じように20代で乳がんになり、お子さんもいる体験記のブログと出会いました。そこを見にいくようになり、同じ20代で子どもも同じくらい。私と同じような体験している人がいるんだ、自分だけじゃないと思えた頃からですね。

Q 母親という立場で、乳がんのステージ3と言われて、子どもたちにどのような思いで接していたのでしょうか?

ステージ3と言われ、先は短いと思っていたので、いっぱい子どもとの思い出を作り、死んだ後も、何かにつけ自分を思い出してもらおうと思っていました。色んな事を経験させて、いつか子どもたちが「これは昔、お母さんに教わったんだ」って言わせたくて、ドイツ・イギリス・フランスに連れていったり、バレエやオペラ、劇団四季のミュージカル、コンサートなど、いろんなところに連れて行きました。子どもたちも母はいつ死ぬのか分からないと感じていたせいか、反抗期も無く素直に育っています。私のわがままにいつも付き合ってくれています(笑)また、娘も息子も都合が合う時は、キャンサーネットジャパンのイベントをボランティアで手伝ってくれています。 濱島さんがお勤めしているキャンサーネットジャパンのホームページはこちらからです。 キャンサーネットジャパン ホームページ  

インタビューを終えて

私にも当時の濱島さんと同じくらいの子どもがいるのですが、自分であったらどのように子どもと接するか考えながら話を聞いていました。以前私が入院した際に、点滴を受け包帯にくるまれ横たわっている私を見て、娘が大泣きしたのを思い出しました。それを考えると私もがんになった場合子どもには伝える事は出来ないと思いました。濱島さんは子どもたちの事を想えば想うほどに伝える事ができなかったのではと思います。 子どもたちに反抗期がなかったという話がありましたが、本当に死んでしまうかもしれないと感じた事で大切な人の存在をより感じる事が出来たからなのかもしれません。同じく子ども時代に母親ががんになったという私の友人も反抗期がなかったと話をしていました。 また、がんの患者さんにとって、周りで支えてくれる人の存在は本当に大きなものであると思いました。人は一人では生きていけない、だからこそお互いに助け合い、感謝することが大切である。母親への感謝の話を聞いてそのようなことを改めて感じました。 メッセージにあったように、私もずっと自分らしく生きていきたいと思います。
オンコロな人担当 HAMA
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