「オンコロな人」の一人目は胃がんと乳がんの2つのがんを経験されている可知康子さんです。
可知さんはオンコロスタッフKのお母さんであり、まずは身近な人から話を聞いてみようという我々の要望を快く引き受けてくださいました。

現在の可知さんについて

YKさん2
名前:可知 康子
年齢:56歳
性別:女性
居住:長野県 職業:医療事務
胃がん(28歳):手術後完治
乳がん(49歳):手術→放射線化学療法後→7年経過

 

いつ頃に発症されましたか?

 胃がんと乳がんになりました。 胃がんは1987年の夏、28歳の時で、長男が保育年長、長女が年中、次女は1歳の誕生日を迎えたばかりでした。 乳がんは2008年6月頃でした。次女がやっと独り立ちしたばかりだったことを覚えています。

胃がんが発覚した経緯を覚えていますか?

 当時、1か月程度で体重が10㎏減り、胃のあたりの調子も悪かった事を覚えています。 私は育児によるストレス程度に考えていましたが、夫から「近所にバリウム検査を受けられる病院があるから、念のために受けてきたらどうか」と言われ、バリウム検査を受けました。検査直後、ただの胃炎と言われほっとしたのも束の間、1週間も経たないうちに病院から電話がかかってきました。 病院の説明によると「カンファレンスを行った所、胃カメラを行った方がいい」とのことで「どういう事なのだろう…?」と思いましたが、次女をおんぶしてすぐに病院に向かいました。

 この日は、先日検査を実施した若い先生と年配の先生が2人で胃カメラを行いました。 そして胃カメラ中に若い先生が「あれっ?」という声を発し、先生たちや看護師さんに不穏な空気が走ったため、「何かあるのかも…」と不安になり、検査後に「午後に家族を連れてきてください」と言われ、ドキッとした事を覚えています。

 仕事を早めに切り上げてやって来た夫と母と説明を聞いたときに「外科で手術が必要な状態」と言われたため、母の勤めていた日赤(日本赤十字病院)にすぐに入院することになりました。 この時に『がん』とは伝えられませんでしたが、「手術するくらいまずい状態」なんだなと思いました。

 日赤で再度胃カメラ検査行った時に、先生から出血している部位を見せられ「ここを切除します」と言われ、出血している胃を見るのもショックでしたし、お腹を切らなければいけないというのもショックでした。しかし同時に「切らないと子供に会えない」とも思いましたし、根っからのプラス思考だったため「早く治したい」とも思いました。 お盆明けに手術し、食道から胃の3分の2ほどを切除しました。先生からは「年配の方であれば胃を全て摘出しましたが、あなたは若いから少し残しました」と言われたことや「あなたは身長の割には腸がやけに短い」と言われたことを覚えています。

 日赤でも退院をするまでは『がん』であることは伝えられず、退院後1か月たってから『がん』であったことを伝えられました。 入院中に先生と看護師である母が悪性マーカーがどうのこうのと話しているのが聞こえていたため、「恐らく『がん』なのではないか」と考えてはいましたが、それ以上の事実を知ろうとも思いませんでした。

後から胃がんの告知を受けた時にどんなことを思いましたか?

 退院後に先生からがんと伝えられた時は「がんでしたけど、全部取りきったから大丈夫ですよ。」と言われました。 「5年間は転移する可能性があるから定期的に検査が必要」とも言われましたが、ただただ安心しました。

胃がんの時にどなたかに相談しましたか?

 日赤は母が務めていた病院のため、母が相談相手でした。ただ、あまり色々と相談した覚えはありません。
 母が医師から説明を受けていたため、結局、がんがどれくらい進行していたかは今となってはわかりません。そんな母も痴呆が進んでしまったため、がんのステージを知ろうとしてもわかりませんし、今更知りたいとも思いません。

乳がんが発覚した経緯を覚えていますか?

 2008年6月のある日、母とケンカしたときに胸のあたりがピキッとなり、その2,3日後に突然、右乳房の上側がへこんでいたのに気が付きました。 その時に山田邦子さんがやっているTVで「胸がへこんでいたら乳がんだった」と言っていたのを思い出して、自分が勤めている総合病院で一応見てもらおうと思いました。

 マンモグラフィーを受けたところ「すぐにエコー検査もやった方がいい」と言われ、エコー検査も受けました。そこで、仲の良い先生から「可知さん、多分乳がんだと思うから穿刺しましょう」と言われ、運が良いのか悪いのかわからない状態でした。組織を採取して検査した結果は予想通り乳がんでしたが、先生は「初期だと思うから治りますよ」と言ってくださったし、胃がんからも生き残ったため、なんとなく楽観的に考えていました。ただ、乳房を切除しなければいけないのは少しショックでした。

 そこでどの病院で手術するのかということになった時、自分の勤めている病院は嫌だったのと、大学病院から勤め先の総合病院に来ている乳腺外来の先生がいたため、その大学病院で手術することにしました。胃がんの時は母が身の回りの世話をしてくれましたが、この入院時は一緒に住んでいた次女が身の回りの世話を行ってくれました。手術には夫や東京で働いている長男、静岡に嫁いだ長女も来てくれました。そのため、殆ど心配する事もなく手術に臨むことが出来ました。

 ただし、ここからが最悪でした。 いざ手術を行ってみると予想外にがんが縦に伸びていたとのことで、部分切除を希望していたのですが乳房は全て失われ、更にセンチネルリンパ生検の結果、転移していたとのことでした。

 ステージ1と言われていた術前診断は、術後診断でステージ3aに変わりました。 手術前は殆ど心配なく臨んだのですが、麻酔から目が覚めてからその事実を聞かされた後「なんで私だけ・・・」と誰もいなくなった病室で涙を流しました。

 放射線治療に加え抗がん剤治療も行わなければいけなくなり、本当に辛かったです。

術後の放射線と抗がん剤の治療はいかがでしたか?

 放射線治療のために、車で1時間以上かかる大学病院に頻繁に通うことが辛かったです。 抗がん剤治療は副作用が脱毛と手足のしびれしか出なかったため何とかなりましたが、同時に併発した更年期障害の症状が少し辛かったです。

経済面はどのように解決しましたか?

 胃がんの時も乳がんの時も一般保険で殆どカバー出来たため、保険に入っていてよかったと思いました。 特に胃がんになってから保険は入れないと思っていたのですが、乳がんになる2年前にがんになっていても入れるがん保険を勧めてくれた友人には感謝しています。

胃がんの時と乳がんの時は告知のタイミング違ったようですが、どちらが良かったですか?

 胃がんの時の方が終わった後に真実を聞かされたため、心の負担は軽かったかもしれません。 乳がんの時は術前と術後の診断が違ったため、ショックは大きかったです。「なんだよ!」と思いました。 ただ、それでもやはり自分が何の治療を受けているかは知って、前向きに向き合っていきたいと思います。

国や医療に対してのご意見ありますか?

 今は保険適応となっていますが、2008年当初はセンチネル生検が保険適応(2010年4月より適応)ではなく、臨床研究として実施して10万円かかりました。 10万円支払ってセンチネル生検を行ったからこそ転移していることがわかり、辛かったですが適切な治療を行えました。あの時お金を払わなければ私は今頃死んでいたかもしれません。もう少し保険制度の整備を急いでほしいと思います。

感謝したい方はいますか?

 胃がんの時にカンファレンスで胃カメラを進めてくれた先生です。この先生がいなかったら私は死んでいたかもしれません。 それと、当然家族には感謝しています。胃がんと乳がんでは子供たちのシチュエーションが全く違いましたが、それぞれ違った意味で私を励ましてくれました。

再度にこれからの目標などを教えてください。

がんに2回なるという経験をしている人はあまり多くないかもしれません。 乳がんの方は10年経過していませんし、がんマーカーの値も若干高値を推移している為、今後どうなるかは分かりません。 それでも私は、これからも自分らしく前向きに生きて行きたいと考えています。

インタビューを終えて

 いかがだったでしょうか? ものすごくサバサバしていて非常に前向きな可知さんですが、「私はあんたが中学校に入るまで生きられないかもしれない」とつぶやいたのをスタッフKは覚えているといいます。強そうに見えても心のどこかでは死を意識されていて、不安と闘っていたのかもしれません。それでも「くよくよしていても仕方がない」と 前を向いて生きる姿は本当に素晴らしいと思います。スタッフKも「家族全員が母を尊敬をしているし、母に感謝している」と話していました。 可知さんが良き人生を送ることをお祈りしております。

オンコロな人担当 HAMA

がん体験談


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