オンコロな人インタビュー 「国際医療経済学者 ステージIIIBのがんになる。」 アキ よしかわ さん Vol.1


  • [公開日]2017.07.28
  • [最終更新日]2020.03.03

オンコロな人インタビュー「国際医療経済学者 ステージIIIBのがんになる。」アキ よしかわ さん Vol.1

聞き手:柳澤 昭浩(がん情報サイト「オンコロ」コンテンツ・マネージャー)

医学の発展には、医師・研究者と患者、双方の力が不可欠です。医師・研究者でなければ気付きえない部分がありながら、当事者からしか見えない事実が存在しています。

今回登場するのは、国際医療経済学者でステージIIIBの大腸がん体験者でもあるアキよしかわさん。アキよしかわさんは今年の6月新著「日米がん格差」(講談社)を出版されました。この著書をもとに、がん治療体験、そして日米の医療を比較することによって浮き彫りになる“ニッポンの医療”についてうかがいました。(全3回)

ある日突然、「学者」から「患者」に

柳澤:アキさんは日本と米国で活躍される医療経済学の研究をお仕事にされていますが、簡単に自己紹介と、医療経済学について教えて下さい。

アキ:10代半ばから米国に移り、それからずっと米国カリフォルニア州のサンフランシスコ近辺に住んでいます。カリフォルニア以外にもワシントンDCを生活の拠点としていますが、アイデンティティ的にはジャパニーズ・カリフォルニアン・アメリカンですね。経済学の中でも医療を専門に扱う「医療経済学」をテーマに研究しています。

医療経済学とは、医療現場の様々な事象を、経済学を用いて分析する学問です。特に米国では、ビッグデータをもとに、いろいろな切り口から分析しています。「なぜこのような結果が導かれるのか。それはどのような要素から導かれているのか」を検証します。日本では、医療経済学は文系の学問のように思われていますが、米国ではバリバリの理系の分野です。医師免許を持った医療経済学者も多いです。

柳澤:医療経済学者でありながら、がんを体験されたとのことですが、その経緯を教えてください。

アキ:日本に持っている会社も大きくなってきて、私自身の責任も大きくなってきたため、人間ドックを受けるようになりました。がんが見つかったのは3回目くらいの検査の時でした。

柳澤:それ以前に自覚症状などはありましたか?

アキ:トイレ(大)の時に血が出るようになったんです。でも周囲の人にそのことを言ったら「それは痔だ」という話になり、“アキ・切れ痔説”というものが出回ってしまいました。こんなことばっかり言って、かっこいいおじさんになりたいのに全然なれないですよね(笑)。ともかく、そんな笑い話になって、その時は終わってしまいました。

私はもともと、とても元気な人なんです。日本と米国を行き来するような生活を22〜23歳のころから続けていて、疲れることに慣れていました。だから身体が疲れても、これだけ一生懸命働いていたらあたりまえだ、くらいに思って暮らしていました。

柳澤:世の中の同世代(50代)の人たち以上に忙しい生活をされていたんですね。

アキ:いや、日本の責任ある人のようには忙しくなかったです。仕事をしているように見せつつ、ほどほどにサボっていましたから(笑)。というか、オンとオフがなだらかで、仕事が遊び、遊びが仕事、につながっているような感じです。

それに、私は本当の意味での“勤め人”というのをしたことがありません。大学から大学院に行き、そのまま大学の先生になってしまって、学生の延長線上で仕事をしていました。サラリーマン生活も、日本における学生生活もしたことがないのです。合コンっていうのもしたことはありません(笑)

柳澤:「仕事が遊び、遊びが仕事」という表現は私もよくわかります。私も学生時代はハードロックをやっていて長髪だったので、合コンに呼んでもらえませんでした(笑)。

アキ:どうしてですか!? 米国では「ハードロックやっています」と言ったらモテまくりですけどね。当時の日本はフォークソングなどの柔らかい音楽が流行っていたからですかね?

米国では、がんも「チャレンジ」のひとつ

柳澤:話がそれました(笑)。アキさんは、今年の6月に新著『日米がん格差』を出版されました。日米の医療の違いを医療経済学の視点を持ちながら、さらに一人の患者として医療に向き合うようになられましたが、その時はどのように受け止められたのでしょうか?

アキ:「やれやれ」と思いました。これは本の中にも書いていることですが、日本と米国では、「がん」というものに対する恐れや、対峙する気持ちが違っています。米国ではがんも「One of challenges(チャレンジのひとつ)」というふうにとらえます。私は10代からずっと、米国でチャレンジを繰り返す生き方をしてきました。でも、もうチャレンジも終わりかな、と思ったところで新たなチャレンジ(=がん)が見つかって。「またチャレンジか、やれやれ」となりました。

例えるなら、「これから第3外国語を勉強してください。試験もしますからね」と言われたのと同じような雰囲気でした。あるいは、確定申告をまとめ終えて提出したのに、「アキさん、10年分遡ってもう一度やってください」と言われるような(笑)。「えー、また?」というような意味の「やれやれ」ですね。そのような感じで、恐れなどは不思議となかったですね。淡々とやっていました。

柳澤:日本と米国、どちらで治療をするかで迷われましたか?

アキ:日本の医療の研究をずっと行って来たので、当事者としての精神的な責任感もありましたが、実際のところは手術(外科治療)は、仕事のスケジュール的に日本でという選択肢しかありませんでした。手術後、早々に重要な講演が控えていたためです。手術からしばらくしてからの抗がん剤治療は、日本と家族のいる米国との中間地点にあり、米国でがん治療の成績に定評のあるクイーンズメディカルセンターのあるハワイで行いました。

しかし、治療って、ある意味「出会い」だと思います。知人の消化器外科医に、日本のある有名な先生を紹介していただけたのですが、お会いして5分で「この先生になら任せてもいいな」と感じました。

柳澤:治療費の面はどうでしたか?

アキ:私は米国で年金や医療保険に入っているので、日本では無保険者だったんですよね。ですから退院時には数百万円の医療費の全額をクレジットカードでお支払いしました。ですが、結果的には米国の医療保険が適用されることになり、ほぼ全ての治療費をカバーすることができました。

医療費全額ということで考えると、米国で手術をしたら、日本の3〜4倍かかっていたと思います。たとえ保険に入っていたとしても、米国では加入している保険の種類によって自己負担額も異なります。私の場合は、ラッキーなことに給付が豊かな米国連邦政府職員の医療保険でしたので、自己負担額も日本の保険制度での自己負担額よりも低い、僅か150ドルほどだけでしたが、保険によっては日本での無保険での治療費以上に費用がかかっていたかもしれません。

米国で注目の「キャンサーナビゲーター」とは

柳澤:アキさんの著書に「キャンサーナビゲーターが重要だ」とありましたね。

アキ:キャンサーナビゲーターというのは、米国にある患者サポートのサービスです。どういう仕事かというと、定義付けは難しいところですが、例えば、化学療法に不安があれば、その利点と欠点を説明したり、副作用が辛ければ寄り添い、食事の支援をしたりもします。ターミナル(終末期)の患者さんや家族のためのカウンセリングに近いことをする場合もあります。

そのほか、幼い子どものいる人ががんになってしまった時など、どうやったら家計を維持できるかを考える、という仕事をしているナビゲーターもいます。

柳澤:さまざまな形でサポートしてくれる存在なのですね。ナビゲーターは、主にどこで活躍しているのでしょうか。

アキ:すでに米国のがん拠点病院では、キャンサーナビゲーターの常駐が義務付けられています。また、キャンサーナビゲーターは、病院に限らず、社会福祉事務所などでも活躍しています。お金がない人や路上生活者ががんになってしまった場合、どうしたら資金を調達して治療をしていけるようになるかという相談に乗ることもあります。本当に小さなことから大きなことまでを、いろんなレベルで支援するという役割を担っています。

柳澤:日本の患者サポートのひとつに、がん診療連携拠点病院に設置されている「がん相談支援センター」がありますが、それと違う点はどういったところでしょう。

アキ:米国では、キャンサーナビゲーターは向こうから「私があなたのキャンサーナビゲーターです。何か困っていることはありませんか?」と能動的に患者にアプローチします。また、病院の中だけでなく、院外にも公的な資格を持ったキャンサーナビゲーターがいるということも違いかもしれません。

柳澤:なるほど、日本にも必要な存在ですね。私も、10年前がん患者支援団体のNPOに入職した理由の一つは、そういう人材を日本でも養成されたらというものでした。しかし、日本のがん相談支援センターは無償で行なっているため、財源の問題もありますね。

アキ:米国におけるキャンサーナビゲーターも同様です。今後、診療報酬をどうしたらよいか、財源をどうするかなどが課題ですね。

辛かったのは「バトルモードの後」だった

柳澤:がんに罹患し、辛かったことはなんでしょうか?

アキ:私が、がんになってみて一番辛かったのは、手術と抗がん剤治療という一連の治療が終わった後でした。化学療法を行なっている最中の私は「闘うアキよしかわ」だったんです。その間、“バトルモード”だったんですよね。私の場合は2週間ごとの抗がん剤治療があり、その時には必ず“戦友(=医師・看護師など)”と会っていたわけです。治療は辛いけど、元気をもらって帰ってくることができました。

しかし、一旦治療が終わってしまうと、「次は半年後ね」ということになってしまいます。頻繁に会っていた人たちと急に会えなくなってしまう。そうするとバトルモードから突然、ポンッと“日常”に放り出されてしまうわけです。「何をしたらいいのだろう」となり、本当に何もできなくなってしまいました。仕事場でもポーッと窓の外を眺めてしまって。

それまではガンガン言いたいことを言っていたのにそんな状態になり、周りの人からは「これぐらい大人しいアキの方がかわいらしくて良い」などと言われました(笑)。バトルモードの間は息子と話す時も真剣で、お互いをぶつけ合うように人生の話などをしていたのですが、今は「次、会ったら何話そう」となっています。そんな状態が半年から1年くらい続きました。未だにそれが抜け切れていないところがあります。

柳澤:治療中は、荒波の中で何とか泳いで「生き残らなければ!」という状況だったのに、突然岸にたどり着いて気が抜けてしまう、というところでしょうか。

アキ:岸にたどり着いてはいるのですが、常に「いつサメが飛びかかってくるか」という不安を抱えていますね。再発の不安があるという意味で。そんな中で、自分の社会的な居場所がないような、そんな気持ちになりました。そう感じているがん体験者は多いのではないでしょうか。

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今回は、アキよしかわさんに、がん体験者としてのお話しをうかがいました。次回は、米国の医療と比較することで浮き彫りになる「日本の医療」について、がん体験者の視点、そして医療経済学の研究者の視点を交えてお話しいただきます!

アキ よしかわ
米国グローバルヘルスコンサルティング会長
大腸がんサバイバーの国際医療経済学者、データサイエンティスト
10代で単身渡米し、医療経済学を学んだ後、カリフォルニア大学バークレー校とスタンフォード大学で教鞭を執り、スタンフォード大学で医療政策部を設立する。米国議会技術評価局(U.S. Office of Technology Assessment)などのアドバイザーを務め、欧米、アジア地域で数多くの病院の経営分析をした後、日本の医療界に「ベンチマーク分析」を広めたことで知られる。
著書に『Health Economics of Japan』(共著、東京大学出版会)、『日本人が知らない日本医療の真実』(幻冬舎メディアコンサルティング)、『日米がん格差』(講談社)などがある。

柳澤 昭浩
がん情報サイト「オンコロ」コンテンツマネージャー
18年間の外資系製薬会社勤務後、2007年1月より10期10年間に渡りNPO法人キャンサーネットジャパン理事(事務局長は8期)を務める。先入観にとらわれない科学的根拠に基づくがん医療、がん疾患啓発に取り組む。2015年4月からは、がん医療に関わる様々なステークホルダーと連携するため、がん情報サイト「オンコロ」のコンテンツ・マネージャー、日本肺癌学会チーフ・マーケティング・アドバイザー、株式会社クリニカル・トライアル、株式会社クロエのマーケティングアドバイザー、メディカル・モバイル・コミュニケーションズ合同会社の代表社員などを務める。

(写真/文:木口マリ)

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