患者団体に聞く! 卵巣がんの会スマイリー 片木美穂さん Part1-紆余曲折しながら、全力疾走- ドラックラグ編


  • [公開日]2023.09.15
  • [最終更新日]2023.09.22

今回は、ドラッグラグの解消に大きく貢献してきた、卵巣がんの患者会「スマイリー」の代表、片木美穂さんに、「これまで」と「これから」についてお話を伺いました。

スマイリーの活動のはじまり

川上:はじめに、スマイリーの活動について教えてください。

片木:まず私自身の話をすると、2004年に、粘液性(一部境界型悪性)の卵巣がんに罹患し、子宮と卵巣を全摘出しました。当時は、インターネット上にも卵巣がんの情報はほとんどなく、ならば自分の経験を発信しよう、と、ブログを立ち上げたんです。まだスマートフォンは普及しておらず、ガラケーの時代です。ブログにはたくさんの同じ卵巣がん患者さんが訪れてくれて、ネット上で交流が始まりました。2006年の春、ブログを通して親しくなった再発治療中の患者さんから、「日本では、もう使える抗がん剤がないの」と相談され、会いに行ったのが、スマイリーの活動の始まりです。

川上:海外では承認されている、効果が証明された抗がん剤が、日本では承認されておらず使用できない、いわゆる「ドラッグ・ラグ」の問題ですね。

片木:そうです。彼女が使いたかったのは「ドキシル」という薬剤でした。当時の日本では、卵巣がんでは承認されていない薬剤だったため、使うには個人輸入し、自費で治療するしかありません。この課題に直面し、私たちは未承認薬(適応外薬)の承認を求めることを目的として「スマイリー」を立ち上げたのです。米国NCCN(National Comprehensive Cancer Network)の卵巣がん診療ガイドラインを見ると、ドキシルだけでなくゲムシタビン、トポテカンなどの薬剤が卵巣がんの再発に標準治療として使用されていることがわかり、驚きました。どれも当時の日本では使えない薬剤でした。当時から10年前の1996年に承認されたものもあり、「何とかして使えるようにしなくては」、と使命感に駆られました。

私がやるしかない

川上:スマイリーの活動は、患者同士の分かち合いやピアサポートとしてのグループではなく、薬剤の承認を求めて活動するところから始まったんですね。

片木:はい。効果のある薬を使いたい、との切実な願いからのスタートでした。再発治療中の友人の状態は待ったなしで、夏の終わりにホスピスに入院することになり、9月半ばに旅立ってしまいました。彼女が亡くなって、薬剤の承認を求める活動はもう必要ないと考え、スマイリーの活動を辞めようとしたのですが、ブログを通して多くの方から「薬が必要」だと要望が寄せられ、「それなら私がやるしかない」と、9月25日から署名活動を始めたんです。

川上:2006年というと、ちょうど「がん対策基本法」が成立した時期でもありますね。

片木:そうですね。今から思うと、がんをめぐっていろいろな人や、ものごとが動き始めていたと思います。私は、活動を始めたとはいえ、何が薬の承認を求める活動に繋がるのかもわからず、手探りの状態でした。そんな時に、現在はオンコロのコンテンツ・マネージャーをしている柳澤さんと知り合ったんです。

川上:当時、柳澤は卵巣がんの抗がん剤を扱う外資系の製薬企業に勤めていて、NPO法人キャンサーネットジャパン(CNJ)に転職しようとしていたタイミングでしたよね。(私も同時期、臨床の看護師からCNJの専任理事になるタイミングでした)

片木:柳澤さんから「片木さんのような人を待っていたよ」と、第一線で活躍する医師などの専門家を紹介され、卵巣がんのこと、薬が承認されるまでのプロセスのこと、臨床試験のことなどをイチから学びました。夜中の3時にメールを送っても早朝にはお返事が来るなど、先生方も熱意を持って応えてくださったので私も夢中で学び、意識を失うまで勉強する日々が続きました。

国会議員会館へ乗り込み、ついに署名提出へ

片木:ドキシルの承認を求めて9月末に始めた署名活動は3ヶ月で28,603名分を集めました。大臣に渡すべきなのはなんとなくわかっていたけれど、どうやって提出すれば良いかまでは分からず、市議会議員に聞こうと思い、市役所に行くと、薬剤承認は国の問題だから国会議員に会うように、と言われました。さっそく国会に出かけ、粘り強く何人もの議員に声をかけました。つまみ出されたこともありますが、運良くある議員さんが足を止めてくれ、お話を聞いてくださったんです。そして私を議会の地下の売店に連れて行き、議員便覧に書いてある厚生労働委員会の議員にアプローチすべきだと教えてくれたのです。

川上:手探り状態のなか、それは有り難い出会いでしたね。

片木:その議員さんは「自分もがん経験者だから」、と、何も知らない私が国会でどのように物事を進めていくべきかを学べるように、自分の議員事務室に1週間、私の居場所を作ってくれました。議員事務室で繰り広げられるさまざまなやり取りを横で見ていて、訴状は封書ではなく1枚の紙、また、ファックスのほうが目に留まりやすい。議員とつながるには、まず秘書さんと良い関係を築くこと。など、とても貴重な学びを得ることができました。秘書さんにも親切にしていただき、大臣に会いたいなら厚生労働省に行きなさい、と言われました。そして、何とか、医薬食品局審査管理課の課長との面会することができ、2007年4月末に無事署名を提出することができました。

川上:すごいストーリー。ド根性に運が味方した、というか……。それで、ドキシルの承認には一歩近づいたのでしょうか。

そこからが戦いの始まりだった

片木:それが、薬の申請→審査のプロセスには、通常は4-5年かかるということをそのとき知りました。「やれたらやる」、ということで、「やらない可能性もある」ということも。私たちの戦いはスタート地点に立ったばかりだったのです。署名提出は、ある意味ゴールのようにも見え、スマイリーのメンバーのなかには一区切りついたと感じていた方も多く、その先に進もうとする私の行動について「売名目的」などと批判されたこともありました。

川上:患者会で、政治的な動きや国への働きかけをすると、内部から「売名行為」と批判されるという話は、他のがん領域でも度々耳にしますが、残念なことですね。

片木:苦しかったです。でも私は、誰かが亡くなるたびに「自分のせいだ」と自分を追い詰め、とにかくこの問題をひとりでも多くの人に知ってもらい、前に進めたいと考えていました。私の仕事は、メディアに注目されることだ、と宣言し、2007年に芦屋で開催されたリレーフォーライフに「スマイリーちゃん」という着ぐるみを自作して、「あたりまえの治療をあたりまえにうけたいねん!」と書いたプラカードを持って練り歩きました。


これがリレーフォーライフを取材に来ていた日本テレビの目に留まり、「ノーモア・ドラッグラグ」というキャンペーンを始めるから、と声をかけられました。2007年はがん対策基本法が施行された年で、メディアもいつも以上にがんを取り上げてくれるタイミングでもありました。この時の日本テレビとのご縁で、薬剤の承認に時間がかかるのは審査官が少ないからだ、ということも知りました。番組担当だったキャスターの町亞星さんがそのことを当時の舛添要一厚労大臣に訴えてくれて、これを受け、大臣が「審査官の人数を3倍にします」と公言してくれました。

念願のドキシル承認へ

川上:ドキシルの承認は、どのように進んだのですか?

片木:最初に署名を提出した2007年、厚労省のなかに未承認薬検討会議はありましたが、ドキシルは正式には「未承認薬」ではなく、他の病気には既に承認されているものの卵巣がんでは使えない「適応外薬」だったからか、なかなか検討してもらえませんでした。痺れを切らせ、もう一度、署名活動をすることにしました。ちょうどそのタイミングで、長崎の24歳の卵巣がん患者さんから「再発患者の自分がテレビ出演することで多くの人に知ってもらえるのでは」と連絡があり、日本テレビが彼女に密着取材することになりました。番組を通してドキシルのことを呼びかけると、2008年10月15日~年末の2か月半で、今度は15万以上の署名が集まり、署名された紙は段ボール箱9箱分、重さは150キロにもなり、大きな台車で厚労省に持ち込みました。その様子も日本テレビで報道されました。2009年1月のことです。


川上:それはインパクトあったでしょうね。

片木:厚労省側も驚いていました。そしてその場で、次の検討会議にかけ春までに承認します、と公言いただき、実際にその年の春、4月22日にドキシルが承認されました。その日の朝、厚労省に初めて行った時からお世話になっていた審査官の方から、「今日承認されます」とFAXで連絡もいただきました。FAXの2枚目には、「頑張りましたね」との労いの言葉がありました。4年かかると言われていたものが、2年ほどに短縮したのです。その日は、私が卵巣がんになって、手術してからちょうど5年が経過した日でもありました。

川上:感慨深い……。やっとゴールですね。

ドキシルの承認だけがゴールではない

片木:ドキシルについては目的を達成しましたが、他にもゲムシタビンやトポテカンがまだ使えなくて。とはいえ、ドキシルでやってきたように、マスコミを巻き込んで署名を集めて、というプロセスを同様にやっていく消耗戦はもうできない、と思っていました。

ちょうどその頃、天野慎介さん(日本がん患者団体連合会 理事長、グループネクサス理事長)と知り合い、天野さんが活動している血液がん領域や他のがん領域でもドラッグラグはあるから、適応外薬も含めてきちんと検討してもらえるよう厚労省に働きかけていこう、と意気投合しました。これに厚労省側も応えてくれて、それまでの未承認薬会議は一旦解散し、患者会と学会から意見を求める形で新たに「医療上の必要性の高い未承認薬・適応外薬検討会議」(以下、検討会議)が組織され、厚労省のWebサイトにも意見の募集要項が出て、2010年の2月に第1回の検討会議が開催されたのです。

川上:署名提出などのプロセスを経ずに、国民からの意見を吸い上げ、適応外薬も含めた未承認薬を検討する仕組みが作られたのは大きな前進ですね。この検討会議が設置されてから、ゲムシタビンやトポテカンはスムーズに承認されたのですか?

片木:その後の検討会議で、ゲムシタビンとトポテカンが公知申請(*注)として扱われましたが、そこから保険適応となるまでに半年かかると知り、当時、国立がん研究センターの理事長で、中医協(中央社会保険医療協議会)の委員だった嘉山正孝先生に直訴したところ、話を聞いてくれて、公知申請の薬剤は保険適応を前倒しすることを決めてくださいました。そこからエトポシドやアバスチンなども使えるようになっていきました。

*公知申請
海外では認められているが日本では未承認のため使用できない医薬品について、有効性安全性など科学的根拠が十分と認められた場合には医学薬学上「公知」であるとされ、臨床試験の一部あるいは全部を行わなくとも承認が可能となる制度。

川上:片木さんは、患者の立場から、ドラッグラグの短縮に大きく貢献され、薬剤承認の歴史を変えたと言えますね。ここまで、スマイリーが会の立ち上げから取り組んできた適応外薬・未承認薬の承認に向けた活動について伺いました。次回は、そのほかのスマイリーの活動について伺っていきたいと思います。ありがとうございました。

後編はこちら
『患者団体に聞く! 卵巣がんの会スマイリー 片木美穂さん -紆余曲折しながら、全力疾走- Part2 相談支援編』

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