河野 隆志(こうの たかし)先生
国立がん研究センター がんゲノム情報管理センター(C-CAT)センター長。研究所ゲノム生物学研究分野長、先端医療開発センター ゲノムTR分野長を兼任。肺がんを中心としたがんゲノム研究や個別化医療の研究に取り組み、日本のがんゲノム医療の基盤整備と新規治療開発を推進している。
「今の患者さん」と「未来の患者さん」を支えるC-CAT
C-CATが設立された背景には、日本でがん遺伝子パネル検査(CGP)を保険診療としてスタートさせるという国の大きな決断がありました。遺伝子変異に基づくがん治療の有効性が明らかになってきたことを受け、厚生労働省は現場で検査を行うだけでなく、そのデータを集約して活かす「データ集積機構」もセットで構築することを決定したのです。 C-CATには大きく2つの役割があります。1つは「今の患者さんの診療を支援すること」、そしてもう1つは「集まったデータを未来の患者さんのための研究開発に活用すること」です。 遺伝子パネル検査が行われると、患者さんの遺伝子データと臨床情報がC-CATに送られてきます。私たちはそのデータをもとに、患者さんの遺伝子変異にマッチする可能性のあるお薬や臨床試験(治験)のリストをまとめた「C-CAT調査結果(レポート)」を作成し、担当医にお返しします。現在では、300を超える全国の病院において保険診療下で遺伝子パネル検査が行えるようになり、C-CATには約13万例を超える患者さんのデータが蓄積されています(2026年6月時点)。「薬にたどり着ける人は少ない」は本当か
遺伝子パネル検査を受けても、治験への参加を含めて自分に合った薬にたどり着ける方(薬剤到達率)は約10%といわれています。 しかし、この数字だけをもって、「がんゲノム医療の恩恵が少ない」ということにはなりません。例えば、KRAS G12Dという遺伝子変異は、C-CATに登録される全患者さんの約10%に認められますが、現時点ではこの変異に直接効果が期待できる分子標的薬は承認されておらず、治療選択肢は限られています。一方で、C-CATにデータが集まることで、「どの遺伝子変異を持つ患者さんが、日本にどれだけいるのか」が明確になります。こうしたデータは、製薬企業による新薬開発を後押しする重要な基盤になります。 さらに今後新薬が承認され、標準治療として使用されるようになれば、患者さんは遺伝子パネル検査を受ける前の段階で、その薬による治療を受けられるようになります。つまり、「パネル検査後の薬剤到達率」という数字が大きく変わらなくても、遺伝子変異に合った治療を受けられる患者さんの総数は増えていくことになります。 がんゲノム医療の価値は、「検査後に何人が遺伝子変異にマッチした薬の治療を受けられたか」ということが重要であることはもちろんですが、集まったデータが新薬開発につながることで、将来、より多くの患者さんが遺伝子変異に合った治療を受けられるようになることにも、大きな意味があるのです。診療現場に「使いやすい情報」を届けるための工夫
C-CATが作成するレポートは、主治医の先生や専門家が集まって話し合う「エキスパートパネル(専門家会議)」の土台となる、非常に重要なものです。だからこそ、いかに臨床現場で使いやすく、正しい情報をスムーズに見つけられるかに心を砕いています。 今年の4月にはシステムをバージョンアップしました。これまでは単に治験のリストを出すだけでしたが、新システムでは各治験の「適格基準」や「除外基準」を明確にし、「この患者さんは、この治験の参加条件に合致しています」といった情報まで、ひと目で分かるように工夫しました。膨大な情報の中から、現場の先生方が最適な治療選択肢を迷わず見つけ出せるようにすること。それが私たちの大きなミッションだと考えています。
患者さんのデータが新薬へつながる可能性
患者さんから同意を得てお預かりしたデータ(リアルワールドデータ)は、すでに日本の医療を前進させています。現在、C-CATのデータは16の製薬企業を含む170以上のグループに利活用されています(2026年6月時点)。 実際に、こうしたデータから新たな治療につながった例も出てきています。例えばRET融合遺伝子という変異に対する治療薬は、当初、一部の肺がんなどに限定して承認されていました。しかし、C-CATのデータを解析した結果、ごくわずかな割合ではあるものの、他の種類のがんでもこの変異を持つ患者さんが存在することが明らかになったのです。このリアルなデータが後押しとなり、現在では適応拡大が承認されています。 また最近では、非常に珍しい胞巣状軟部肉腫というがんに免疫チェックポイント阻害剤が有効であることが、C-CATのデータ探索などを契機に認められた事例もあります。このように患者さんから集まったデータは、治療法が限られていた別の患者さんに、新たな治療選択肢を届けることにつながる場合があります。 海外の研究者からは、日本のC-CATデータの質の高さに驚かれることも少なくありません。これは、多忙な臨床現場の中でも、患者さんのために丁寧にデータを入力してくださっている医療現場の皆さんの積み重ねがあるからこそです。日本全体で「がんゲノム医療を前に進めよう」という思いが、この仕組みを支えているのだと感じています。C-CATが目指す、さらに先の未来
今後の展望として、私たちにはいくつかの目標があります。 1つ目は、「海外の製薬企業へのデータ提供」です。現在、C-CATのデータを利用できるのは日本に支社がある企業に限られています。しかし、世界中で開発されている画期的な新薬をドラッグ・ラグ(海外の新薬が日本で承認されるまでに遅れが生じる問題)やドラッグ・ロス(海外の新薬が日本で開発・承認されない問題)なく日本へ持ってくるためには、海外の企業にも「日本にこれだけ治療を待っている患者さんがいる」というデータを示していく必要があります。国とも相談しながら、セキュリティを担保した上で海外企業へデータを提供できる仕組みを作りたいと考えています。 2つ目は、「能動的な治験マッチング」です。現在は、病院のエキスパートパネルにC-CAT調査結果を通じて国内の治験の情報をお渡しして治療をお考えいただく仕組みになっています。今後はC-CAT側から「ある治験の参加条件にぴったりの患者さんが、〇〇病院にいらっしゃいます」と、治験実施施設や病院に能動的にお知らせするコミュニケーション基盤を作りたいと構想しています。これにより、希少ながんや希少な変異に対する治験への参加率を効果的に引き上げられるはずです。 3つ目は、「医療DX技術の活用による現場の負担軽減」です。膨大な臨床情報をカルテからC-CATに入力する作業は、現場の大きな負担につながっているのが現状です。最新の医療DX技術やAIを用いて、必要な臨床データを現場の負担なく自動的に抽出できるような未来を期待しています。「患者さんとともに、医療の未来を切り拓く」ために
C-CATは直接患者さんを診療する部署ではありません。しかし、だからこそ、患者さんの声を意識的に取り入れることを大切にしています。学会などで患者会の展示に足を運び、直接お話を伺ったり、アンケート調査を通じて「少しでも多くの治療選択肢や参加できる治験が増えてほしい」といった患者さんの希望を把握し、私たちの活動に反映するようにしています。 また、C-CATの役割やがんゲノム医療について正しく知っていただくために、分かりやすいホームページの作成にも力を入れています。SNSでの情報発信も積極的に行っており、現在ではXで5,000人を超える皆様とつながることができました。



