今回の「オンコロな人」は、以前「オンコロな人」に登場した若年性がん体験者の濱中真帆(はまなか まほ)がお届けします。
※濱中真帆さんの体験談はこちらから
■40歳で肝細胞がんに
濱中:こんにちは。卵巣がん体験者の濱中真帆です。まずは自己紹介をお願いできますか。
松崎:松崎匡(まつざき ただし)です。現在46歳で、福祉事業所のアドバイザーや福祉関係の講師をしています。2009年、40歳のときに肝細胞がんと告知されました。
■肝臓がんで母を亡くし、父に勧められて
濱中:なぜ肝細胞がんが見つかったのか、経緯を教えてください。
松崎:母を肝臓がんで亡くしているため、父に勧められて40歳のときに、キリのいい年齢、ということで人間ドックを受けました。そのときに腫瘍マーカーを測ってみたら異常が見つかり、大学病院へ行ったのですが、2ヶ月くらい見つからず、腫瘍マーカーだけが異常を示している状態でした。
■ガッツポーズをしてしまいそうな
濱中:がんの告知を受けた時はどんなことを思いましたか?
松崎:入院をしても毎日毎日見つからず、不安でした。なので、がんがどこにあるか見つかったときはガッツポーズをしてしまいそうな気持ちでした。はっきりしないほうが気持ち的にはつらかったです。腫瘍マーカーが高いといわれたときにはある程度は心の準備は出来ていました。
■なんて相談したらいいのか
濱中:がんだと告知を受けたことをどなたかに相談したりしましたか?
松崎:いろいろ人に言いました。「そんな風に見えない」と言われることが慰めになっていたような気がします。でも、相談はできなかったです。なんて相談したらいいのかわからなかった。
■昨年1年間は毎月入院
濱中:今も治療中、とのことですが、治療についてのお話を聞かせてください。
松崎:最初は、画像に写らないくらいなので初期だと思っていました。その後手術をすることができ、状態も落ち着いてきましたが、1年ぐらいして腫瘍マーカーが上がってきて再発しました。今までで一番きついと思ったのが最初の再発でした。 「俺に限って再発なんて無いよ」と思いました。手術が出来ず、分子標的薬などを使用したりしていましたが、これまでに9回再発しています。胆汁が溜まって膿んでしまい、肝臓が腐ってしまった時は手の施しようがないと言われたこともあります。その後、奇跡的に手術をしてもらうことができましたが、それが合併症との闘いの始まりでした。胆汁のトラブルが続き、昨年1年間は毎月入院していました。
濱中: がんが見つかった後、お仕事はどうされていますか?
松崎:当時は腹腔鏡で出来る、ということを知らず、がんがわかってすぐに仕事をやめてしまいました。当時は学校の教師をしていましたが、無知であったために治療がいつまでかかるかもわからず、無理だろうと思って仕事をやめてしまいました。その後講師の仕事を続けながら、再発をしたときに「最後になるかもしれないけど自分でやっちゃおう」と知り合いに融資をしてもらって福祉系の事業を起業しました。いろんなトラブルを抱えている人を救わなくてはならない、という使命感から2011年の7月に起業しました。倒れるわけにいかないというプレッシャー、責任があったことで落ち込む暇がなかったから元気でいられたのかなぁ、と思っています。
■使える制度は全て使った
濱中:経済面に関するお話を聞かせてください。
松崎:使える制度は全て使いました。傷病手当の期間も使いきり、限度額認定証も使いましたが、保険には入っていませんでした。9回の再発を面倒見てくれる会社があるのか、と考えると起業していてよかったと思いました。
今は障害年金が認定されたので受給しています。再発の所見は出るけれど、肝機能の数値は良かったため、障害年金がもらえる等級まで上げてもらえませんでした。福祉関係の仕事をしていたためその辺のことに詳しかったこともあり、最終的にもらえましたが、半年かかりました。
■Dr.に感謝
濱中:闘病生活を振り返って、感謝したい方はいらっしゃいますか?
松崎:かなりリスキーな治療をしてきたので、Dr.には感謝しています。たまたま同じマンションに住んでいたので、会った時にちょっとした相談が出来たりしたので、心強かったです。
■自分のような例を作ってほしくない
濱中:国や医療に対して何かご意見はありますか?
松崎:がんになってあわてて仕事をやめてしまったので、自分のような例を作ってほしくないと思います。今はがんになっても働き続けられるように、と企業にも働きかけていますが、がんになって仕事をやめてしまう人は絶対いると思います。そういう心境になる気持ちがわからなくはないので、そうやってやめてしまう人もいるんだ、という前提で政策などを考えてほしいと思います。
また、これは国や医療に対してではないのですが、がん患者さんは自分ががんと診断されると、ネットなどを通して勉強すると思います。その得た知識を、医療者とけんかをするために使ってほしくないと思います。入院中、病棟で他の患者さんから聞くのは、ネガティブなことばかりでした。医療者もわかりやすく説明してほしいけれど、最低限の共通言語までは患者も学んだ上で「どうしようか」と話し合っていってほしいと思います。
■1年間何事もなく
濱中:現在、何か目標はありますか?
松崎:1年間何事もなく過ごして、どれだけ有意義なことが出来るか、を試してみたいと思っています。元気だと安心しちゃって後回しにしてしまいますが、今度こそなんかやろう、と決意を固めてしまうと、入院して出来なくなって落ち込んでしまうのは嫌なんです。
■「後悔したい」
濱中:最後に、このインタビューを読んでくださっている方に伝えたいことはありますか?
松崎:多くの方は「後悔しないように」といいますが、僕にとっては違う、「後悔したい」と思っています。やりきってゴールしちゃうより、「あれやりたかったなぁ・・・」と思っていたほうが僕には合う、そういう考えがあってもいいんじゃないかな、と思います。やりきった、と思うと人間は次の欲求が出てきます。その欲求に正直でいたいな、と。やりたいことがあるままでいたいと思います。
今、うまく言えないもどかしさを感じています。それは、ひとつの課題だと思っていて、うまく言えないのも当たり前なんじゃないかなぁとも思っています。やりきってしまうより「あの時こうすればよかった」と思うから次が生まれるんじゃないかと思っています。いろんな人がいろんな活動をしていて、それが実を結ぶところを見ていきたいなぁと思います。
■インタビュー後記
9回もの再発を乗り越え、今なおがんと闘う松崎さん。「がん患者は障害者になれない」と仰っていたことが印象的でした。一部の方は、がん治療による影響で障害が残ってしまった方もいます。しかし、私のように目に見える障害が残らず、内臓の機能的にも障害として認められない場合は、障害者と認定されないのがほとんどだと思います。どんなに治療を続けていても、見た目が他の人と変わらないことが何よりもつらいことだと、抗がん剤治療を終えてから思いました。
松崎さんのお話から学ぶことも多く、私にとってもとても参考になるお話を伺うことができました。
松崎さん、ありがとうございました。
濱中 真帆
2020年10月21日追記:
10月14日、松崎 匡さんはご逝去されました。松崎さんにはオンコロ立ち上げ当初より大変お世話になりました。これまでの数多くのサポートに心より感謝いたします。
謹んでお悔やみ申し上げます。
―オンコロスタッフ一同―