写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:るんさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:夫と子ども2人との4人暮らし
仕事:パート勤務
がんの種類:肺がん
診断時ステージ:ステージ3C
診断年:2023年
現在の居住地:兵庫県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2022年11月、るんさんは止まらない咳に違和感を覚え、近隣の総合病院を受診しました。当初は逆流性食道炎と診断されましたが、精密検査の結果、告げられたのは肺がんのステージ3Cという診断でした。それから約3年、遺伝子変異に合わせた分子標的薬から抗がん剤治療へと治療薬を変更してきました。副作用による体調の変化や、がん患者としての仕事探し、そして多感な時期にある子どもたちへの告知。さまざまな壁に直面しながらも、るんさんは「生きていればいい」というシンプルで力強い答えにたどり着きました。これまでの治療の経緯と、病と共に生きる日常についてお話しいただきました。
止まらない咳から始まった肺がんとの闘い
体調の異変を感じたのは、2022年の11月ごろでした。咳が出始めて、それがなかなか止まらなくなったのです。時期的にインフルエンザなどが流行し始めるころでしたが、あまりに長く続くため、近所の総合病院の内科を受診することにしました。
最初の診察で医師から告げられたのは、「逆流性食道炎でしょう」という言葉でした。処方された薬を飲み始めましたが、2週間、3週間と経っても咳が治まる気配はありませんでした。それどころか、11月の終わりごろには、首のリンパ節に触れると、コロコロとした小さな塊を感じるようになったのです。
何かがおかしい。そう感じた私は、12月に入ってから再び同じ病院、同じ先生のもとを訪ねました。咳が続いていること、そして首に新たな腫れができたことを伝えると、先生の顔つきが変わりました。すぐに、画像検査を行いましたが、その結果を見た先生は、「思っていたよりも深刻な状況かもしれません。すぐに紹介状を書きます」とおっしゃいました。そのとき先生が疑っていたのは悪性リンパ腫でした。
肺がんという確定診断と向き合う
紹介された別の総合病院の血液内科を受診したのは、年が明けた2023年の1月でした。すでに首のリンパ節の腫れは2つ、3つと増えていました。医師は「まずは組織を1つ取って調べましょう」と、すぐに生検の手続きを進めました。
血液検査の結果、大きな異常は見られませんでしたが、数日後、リンパ節の組織検査の結果が出ました。医師から告げられたのは、予想もしなかった言葉でした。
「これは悪性リンパ腫ではありません。肺からの転移です。すぐに腫瘍内科へ行ってください」
血液内科から腫瘍内科へ移り、全身のPET-CT検査やさらなる精密検査が行われました。その結果、2023年2月、非小細胞肺がん、ステージ3Cという最終的な診断が下されました。
ステージ3Cのため、手術という選択肢はなく、放射線治療の提案もありませんでした。医師からは「まずは遺伝子変異のタイプを調べてから、それに合った治療を決めましょう」と説明を受けました。
遺伝子検査の結果を待つ不安な日々
肺がんと診断されてから、治療方針を決定するための遺伝子検査の結果が出るまで、さらに2、3週間ほど時間がかかりました。この期間が、私にとって最も不安な時期でした。
自分の体の中にあるがんが、刻一刻と進行しているのではないか。そんな不安に駆られていました。11月に最初の症状が出てから、すでに数か月が経過しています。リンパ節の腫れも目に見えて増えていました。「こんなに待っていて大丈夫なのだろうか」「何かとりあえずの薬でも出ないのか」と、焦る気持ちばかりが募りました。
今振り返れば、医師から「この期間が必要な理由」をもっと詳しく説明してもらえていれば、少しは安心できたのかもしれません。しかし当時は、インターネットで肺がんの種類や遺伝子変異について必死に調べるしかありませんでした。調べれば調べるほど深刻な情報も目に入り、精神的に追い詰められていきました。
ALK融合遺伝子陽性に合わせたアレセンサによる治療を開始
2023年2月の後半、ようやく遺伝子検査の結果が出ました。私の肺がんはALK融合遺伝子陽性であることが判明しました。これに基づき、特定の分子を狙い撃ちする分子標的薬による治療が提案されました。
医師からは、4種類ほどの薬の選択肢が提示されました。その中で、「まずは副作用が比較的軽いアレセンサと、高い効果が期待できる反面、脳に作用する特有の副作用が出る可能性があるローブレナの2つがあります」と提案されました。
当時の私は、どの薬が自分に合っているのか、自分自身で判断できるほどの知識はありませんでした。医師はいつも2つの選択肢に絞って提示してくれましたが、最終的には「先生ならどちらがいいと思いますか」と聞き、その意見に従う形でアレセンサを選びました。
治療を開始すると、あんなにひどかった咳が次第に治まっていきました。副作用もほとんど感じることなく、日常生活を送ることができていました。「このまま長く効いてほしい」と願っていましたが、現実は甘くありませんでした。
半年が経過したころ、検査結果で耐性ができていることがわかったのです。医師からも「もっと長く効くと思ったのですが」と言われましたが、薬を替えることになりました。
薬の変更と副作用への戸惑い
次なる治療薬として提案されたのは、ローブレナでした。しかし、この薬にはこれまでとは異なる副作用がありました。
ローブレナを服用すると、人によっては判断力の低下や、認知機能の変化が現れることがあります。私の場合も、日常生活の中で不思議な行動が増えていきました。いつも通っている道なのに曲がるべき場所を通り過ぎてしまったり、支払いのときにキャッシュカードをATMに入れたまま帰ろうとしたり。これまでの自分では考えられないような「うっかり」が重なり、戸惑いを感じました。
このローブレナも、私には3か月ほどしか効果が続きませんでした。分子標的薬が次々と効かなくなる現状に、焦りを感じなかったわけではありません。しかし、立ち止まっている暇はありませんでした。
ABCP療法への移行と全身に現れる副作用
分子標的薬の次は、複数の薬剤を併用したABCP療法(テセントリク、アバスチン、カルボプラチン、パクリタキセル)に切り替わりました。この治療を4、5か月続け、現在はアリムタという薬による治療を継続しています。
抗がん剤治療が始まると、副作用はより全身に、強く現れるようになりました。髪の毛が抜け、体が異常に冷えるようになり、足のむくみもひどくなりました。夜中に何度もトイレに起きなければならず、手足のしびれや味覚障害、口内炎、さらに関節の痛みにも悩まされました。
特に手足のしびれは、仕事にも大きな影響を及ぼしました。それまで自宅でハンドメイドの製作販売をしていたのですが、指先が思うように動かず、細かい作業ができなくなってしまったのです。
副作用が強い時期は、家事をこなすのもやっとの状態でした。キッチンに長く立っていることができず、椅子を置いて座りながら作業をするなど、家族に助けてもらいながらなんとか一日を過ごしていました。
セカンドオピニオンと治験という希望
現在の治療を続けていく中で、主治医から「今がセカンドオピニオンを受けるタイミングかもしれません」という提案がありました。主治医も、今後の治療方針について、より専門的な知見を持つ医師の意見を仰ぎたいと考えていたようです。
紹介された大学病院の先生は、肺がん治療の第一人者でした。その先生のもとを訪ねると、「今は条件が合わないけれど、将来的に参加できるかもしれない治験があります」というお話を聞くことができました。
それ以来、3か月に1回ほどのペースで、その大学病院の先生の診察も受けています。総合病院の主治医も快くデータを貸し出してくれるため、2人の先生に見守られているような安心感があります。
現在はアリムタを続けていますが、いつか耐性ができるときが来るでしょう。そのときに、次の治療の選択肢として治験というカードがあることは、私にとって大きな心の支えになっています。
病を隠してのパート探しと社会とのつながり
治療を続けながらも、私は「外に働きに出たい」という強い思いを抱くようになりました。自宅での仕事ができなくなり、家にこもっていると、どうしても病気のことばかり考えてしまいます。精神的な健康を保つためにも、社会との接点を持ちたいと考えました。
しかし、がん治療をしながらの仕事探しは想像以上に困難でした。3週間に1回の点滴治療があるため、その週は数日間動けなくなります。シフトの融通が利く職場を探さなければなりません。面接で「がんです」と正直に伝えれば、採用される可能性は極めて低くなります。雇う側からすれば、いつ倒れるかわからない人をあえて選ぶ理由は乏しいでしょう。結局、がんのことは伏せたまま、座ってできる週2、3日のパートの仕事を見つけました。
体調を見ながらの勤務は楽ではありませんが、一歩外に出て、誰かと会話をすることは、私にとって何よりのリハビリになっています。
家族への告知と子どもたちの変化
がんを告知されたその日の夜、私は家族全員に事実を伝えました。隠すよりも、みんなで向き合っていきたいと考えたからです。
夫は私以上にショックを受けてしまい、一時期はうつ状態のようになってしまいました。病人の私が、落ち込む夫を励まさなければならないという、どこかおかしな状況になりましたが、それが逆に私を強くしてくれたのかもしれません。
当時、小学生だった2人の子どもたちも、最初は言葉を失っていました。学校のがん教育で「日本人の死因1位はがんです」と習ってきた直後だったこともあり、「お母さんは死んでしまうのではないか」という不安が大きかったようです。学校の教材には画一的な情報しか載っておらず、子どもたちは混乱していました。
私は子どもたちに、「今はいい薬がたくさんあるんだよ。お母さんはこうして治療を頑張っているから大丈夫だよ」と伝え続けてきました。治療から3年が経ち、副作用で寝込む日もありますが、元気に過ごす私の姿を見て、子どもたちも少しずつ安心してくれるようになったと感じています。
「生きていればいい」というポジティブ思考
がんになってから、私の考え方はよりシンプルになりました。もともと前向きな性格ではありましたが、今はさらに「生きてさえいればいい」と本気で思えるようになりました。
例えば、現在中学3年生になる上の子が、学校に行けない時期が続いています。以前の私なら、将来を悲観して取り乱していたかもしれません。でも今は、「いいじゃない、生きていてくれれば。私と一緒にいる時間が増えただけ」と、大きく構えていられます。
失敗しても、間違いがあっても、命があれば取り返しがつきます。そんなふうに物事を捉えられるようになったのは、がんと向き合ってきた3年間があったからこそだと思います。「日々を大切に生きる」「くよくよする時間がもったいない」そんな思考に変わってからは、心の重荷がすっと軽くなりました。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がん治療を続けている方、そして診断を受けたばかりの方に、私の経験からお伝えしたいことがあります。
焦らず、今できる治療を信じてください
がんの治療は日進月歩です。一つひとつの治療を乗り越えていけば、また新しい薬や治験といった次の選択肢が現れます。希望を捨てず、今できる治療を大切にしてください。
自分の感情を否定しないでください
治療がうまくいかなかったり、副作用がつらかったりして、落ち込む日は誰にでもあります。そんなときは、無理に明るく振る舞う必要はありません。「今日はしんどいよね」「落ち込んでも仕方ないよね」と、自分自身の感情を認めてあげてください。ずっとその状態が続くわけではありません。少し時間が経てば、また前を向ける日が必ず来ます。
社会とのつながりを細くても持ち続けてください
病気になると、自分だけが社会から取り残されたような孤独感に襲われることがあります。フルタイムで働くことが難しくても、短時間のパートや患者会への参加など、どんな形でもいいので外の世界との接点を持ってください。誰かとつながっているという感覚が、治療を続ける上での大きな力になります。