【精巣腫瘍・後腹膜胚細胞腫瘍体験談】
転移再発を乗り越えて-みんなで社会と繋がろう


  • [公開日]2020.04.09
  • [最終更新日]2020.05.07

阿蘇敏之さん
精巣腫瘍・後腹膜胚細胞腫瘍サバイバー
現在は定期検査を受けながらフルタイム勤務されている阿蘇さんに、オンコロスタッフ 中島がお話しをお伺いしました。

「腫瘍」の意味がわからなかった

20歳の時です。片方の睾丸が、気がつくとソフトボール大に腫れ上がっていました。

痛い、痒いなどの自覚症状は全くなかったのですが、職場の先輩に、病院で診てもらったほうがいいのではないか、と勧められるまま、おできやイボができたような感覚で、近所の大学病院へ行きました。

当時はどの科に診てもらったらよいかわからない状態で、総合受付のかたに症状を説明し、泌尿器科の診療を勧められました。

28年前の当時は、患者へのがんの告知はタブーとされており、「腫瘍ができていますね、腫瘍は良性と悪性とがあって・・・」と医師からの説明はありましたが、悪性腫瘍ががんということを知らず、「精巣腫瘍」という診断が出たにもかかわらず、命にかかわるような病気という意識はなかったです。

その日のうちに、入院、手術の治療のスケジュールが決まりました。

実は、10日後に自分の結婚式が決まっていたのです。

僕としては、悪いものは早く取ってもらいたいという焦りと、人生の一大事であろう披露宴の打ち合わせも入院のために妻任せになってしまい、披露宴の2次会もできなかったことは、残念な思い出です。

1992年10月27日、手術を受けて腫瘍は取り除くことができました。術後2日目から歩行練習を始めたので、当時の入院治療のペースは、今に比べるとゆっくりとしたペースでしたね。

入院中は、休んでいる間の仕事はどうなってしまうのか、結婚後の新生活は大丈夫なんだろうか、と不安な気持ちで過ごしていました。

術後の11月8日、仮退院して結婚式と披露宴を無事執り行うことができました。

「精巣腫瘍」という病気ががんだとわからないまま、職場には入院で休職する旨の説明をしましたが、友人たちには病気のことを話すことはできませんでした。

式の後はまた病院に戻り、2週間の経過観察の後に退院の日を迎えることができました。

実は、その後経過観察の定期検査は1年で行かなくなっていました。

結婚により病院が遠距離になってしまったこと、体調も良く、「1年経過して何もなければ大丈夫ですよ」と、主治医から言われたような曖昧な記憶があったからです。

その日は突然やってきた

精巣腫瘍の手術から23年後の43歳の時、激しい腹痛と腰痛に襲われました。市販の鎮痛剤を服用して対処しましたが、痛みは日に日に強くなっていき、鎮痛剤の服用回数も増えていきました。

車の運転も、腰痛のためじっと座っている体勢がつらくなり、近所の総合病院の内科で検査してもらったところ、超音波で「大きな影」が見つかりました。

院内の外科医師に画像を診てもらったところ、「かなり腫瘍が大きくなっており、他の臓器や血管を圧迫している状態。後腹膜腫瘍の疑いがあるので、手術したほうがよいのだけれど、ここの病院では手術ができないので」と、転院を勧められました。

主治医に紹介いただいた病院へ転院し、画像を診てもらったところ「翌日、ご家族と再来してください」と告げられ、これは思った以上に酷い状態なのではないか、と嫌な予感がしました。

次の日は、早速手術の説明を受けました。23年前の手術の話を説明したところ、その医師からは「精巣腫瘍とは別のがんです。これほど悪性の腫瘍が大きくなっていることから、病名は後腹膜腫瘍だと思われます」と診断されました。

初めて「生死」を意識した

「悪性」という言葉を聞いて、これはやばいな、どうしよう、早く治療を始めなければ、という焦りからセカンドオピニオンは考えませんでした。

「手術は約12時間の予定」、「開腹していないとわからないが臓器に腫瘍が浸潤している場合は、その臓器もメスを入れなければならない」、という説明を受けた後、造影剤を使ったCTやPET検査の結果、静脈にも浸潤していることがわかりました。

血管を切る場合、ステントを入れる可能性があること、腿からの血管を切って繋げる可能性があること、の説明があり、「どうしよう、死んでしまうかもしれない。でも手術は受けないと前には進めない」という不安な気持ちに襲われました。

その後、外来で血管造影や口腔外科での精密検査に1週間ほど通院を続けました。

医師からのセカンドオピニオン

この時にお世話になった若い担当医師が、他病院の先生方と意見交換をするネットワークをお持ちで、僕の症状を話したところ、「非常に珍しい症例」、「23年前に手術した精巣腫瘍の転移再発ではないか」、「泌尿器科で診察すべきではないか」、と複数名の医師から意見が出たそうです。

腫瘍が大きすぎるため、まずは術前化学療法で腫瘍を小さくしてから身体に負担がかからない手術をする治療方法もある、と選択を迫られました。

転院先の病院は車で片道2時間かかるということもあり、意見を出していただいた複数の医師の方々のうち1名が所属されている、家から近い大学病院へ転院して治療を進めることになりました。

悪性と診断されて、「この先も生きていきたい」、「子どもの卒業式に参列したい」という希望が強く、「早く治療を進めなければ」という、焦りもありました。

一方で、20歳で罹患した精巣腫瘍に罹患した際は、早く手術した結果、元気になったので今回も大丈夫、という前向きな気持ちにもなっていました。

ここで死ねない、子ども達の成長をみたい、という目標があったからこそだと思います。

入院・治療生活

化学療法を始める前に検査した針生検の結果、病名が後腹膜胚細胞腫瘍と診断されました。

術前化学療法は、精巣腫瘍の標準治療であるBEP療法(ブレオマイシン、エトポシド、シスプラチン)を5クールの計画でした。

入院しながら1クール5日間連続で朝から夕方まで点滴を受け、3日間の休薬その他21日間の入院治療と7日間の仮退院、計28日が1セットでした。

5クールを終えた時点で腫瘍マーカーを調べたところ、下がったものの主治医が納得する数値ではなく、更に2クールが追加されました。

結果的には7クール、半年ほど化学療法治療をしたことになります。

化学療法の治療を受けることについては、副作用はそれほど大変ではないだろう、と、どこから湧いてくるのかわからない自信があり、抵抗感はありませんでした。

実際は、個人差はありますが自分の場合、常に吐き気を感じ、痛みも伴い、これは治療ではなく副作用で死んでしまうのではないか、という弱音を吐いてばかりの連続でした。

朝の採血で好中球の数値が下がっていた場合は、免疫力が落ちている状態なので、感染防止のために大部屋から個室へ移動しなければならず、この朝の採血の結果が出るまでは緊張しましたね。

吐き気止めを変えていただいたり、医療用麻薬を処方していただいたり、胃薬を服用して、なんとか予定通り合計7クールの化学療法治療を終えることができました。

2クール追加したにもかかわらず、腫瘍マーカーは主治医が期待するほど下がってはいない数値でしたが、腫瘍がこぶし大の大きさまでに小さくなっていました。

手術が終わってから

手術は、朝8時30分に始まり、終わったのは16時ごろだったそうです。

術後は通常ICUに移されますが、主治医が驚くほど回復が早かったようで、一般病棟にすぐに戻ることができました。

いざ病室に戻ると、呼吸器管を抜いてから痰がからんで呼吸困難になり、パニック状態で10分おきにナースコールを鳴らしていたようです。

みぞおちからへそ下10cmぐらいまでを開腹したので、腕、首、背中へと、痛み止めの点滴を、約1週間入れていました。

手術は、腫瘍が画像で診ていたより小さくなっていたそうで、血管を傷つけることなく、無事に終了することができました。

執刀医は、「阿蘇さん、成功しましたよ!」と、一緒に喜んでいただき、ともに握手したのを覚えています。

この時の入院期間は、約10日間でしたが、仮退院をして念願であった子どもの卒業式にも参列することができました。

病気の公表

後腹膜胚細胞腫瘍の手術を終えてから、20歳から敢えて公表しなかった自分の罹患を、友人にむけてSNSを通じ初めて公表しました。

23年前の当時は僕の病状を知らずに結婚式に参列してくれた友人たちからは、とても驚かれました。

体重が落ちて痩せてしまったので、写真からでは自分が伝えたかったがん患者のイメージが理解されなかったかもしれません。

大手術終わってまた手術

去年の2019年、術後3年で腹壁瘢痕(ふくへきはんこん)ヘルニアに罹患しました。腹部の手術の合併症のひとつとされています。

創部が5cmほど開いてしまい、自宅から近い病院で治療しました。

痛みは特にありませんでしたが、後腹膜胚細胞腫瘍の手術時と同じ箇所の創部を開いて、メッシュ2枚で患部を塞ぐ手術を受けました。

この2枚のメッシュは、一生僕のおなかの中に入れた状態となります。

立ち上げた患者会

3年前の夏、45歳で「がんサロン おしゃべリバティー」という患者会を発足しました。

がんのイメージを変えたい、孤独を感じている患者さんにはひとりではないということを伝えたい、という想いで自分ひとりで立ち上げた会です。

治療が一段落してから、「自分以外のがんサバイバーさんは、どのような考えや気持ちをお持ちなんだろう。実際にお話しをしてみて、どのような体験をされたのか知りたい」という気持ちが強くなりました。

自分が治療中の時は、患者会にも参加する機会はありませんでした。

一人でも不安を抱えている人がいるならば、自分の意見を押し付けるのではなく、その不安に耳を傾け一緒に共有できたらいいな、と思っています。

会の参加者は、がんサバイバーさん、ケアギバーのかた、看護師さんや薬剤師さん、製薬企業のかたが中心です。

都内ですと患者会は多く開催されているので、神奈川県相模原市を拠点に、2ケ月に1回程度の間隔で開催しています。

開催日とタイミングが合えば、予約も不要なのでどなたでも参加できます。勇気をもって足を運んでいただければ、嬉しいです。

対話と傾聴だけではなく、料理教室やワークショップなど、その回によってさまざまな内容を取り入れています。

がん種や性別は関係なく、不安や悩みを抱えていた事を話す内容を、他の人にも伝えることが大切なのではないかと考え、会の中では快諾をいただいた方々へ「皆さんの経験を他の方々に伝えさせてください」とお願いをしています。

初めて会に参加された方は、さまざまな方々の体験を聞くことによって、気持ちが落ち着くようです。

がんと就労問題

化学療法治療中に、職場から一方的に解雇通知が届くという事が起こりました。

治療期間が半年以上もかかり、「がん=死」というイメージが払拭できなかったようで、会社は僕を雇用継続することが不利益と考えたようです。

ショックのあまり、入院中ではありましたが、妻の運転で職場へ赴いたところ、ちょうど副作用で顔がむくんでおり、かつたまたま顔色もよかった時なので、健康そうな僕を見て逆に社長はびっくりしたようです。

こちらも生活がかかっているので、一方的に自分の考えや希望を社長に伝えたところ、「阿蘇さんさえ良かったら、復職してもらって構わない」という結論になりました。

手術前でもありましたし、「この先どうなるか自分の身体がどうなるかお約束はできませんが、このまま籍をおかせてください」とお願いをし、今も同じ職場で働いています。

がん教育が始まり、大企業ではがん罹患社員に対して福利厚生が手厚くなってきた動きがありますよね。

でも中小企業は、「がん」という病気にまだ理解が足りないという印象です。

「働けないだろう」、「亡くなってしまうのではないか」という誤解があります。

僕のような体験者が、商工会などに出向いて、声を上げて環境を変えていきたいと考えています。

いま、治療している方へ

生きること、そして社会人の方は働き続けることを、諦めないでほしいです。

自分で社会から断絶するのではなく、繋がっていてほしいし、声に出していってほしいです。

悩み事は溜め込まず、僕が話を聞くお手伝いができれば、と思っています。

治療中、僕は「子どもの卒業式に参列したい。それまでは絶対に諦めないし、生き続ける」という、身近な目標を立てました。

そんな些細なことでもよいので生きる目標を立てると、治療に専念することができて、乗り越えられると信じています。

がんサロン おしゃべリバティーHP:https://arteryex.biz/wordpress/


がんサロン おしゃべリバティーfacebook
:https://www.facebook.com/osyabeliberty/

阿蘇敏之さん連絡先:osyabeliberty@gmail.com

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