【胃がん・乳がん体験談】
2回のがん治療を通じて手に入れた「自信」と「勇気」


  • [公開日]2020.04.23
  • [最終更新日]2020.04.24

大垣ちよさん
島根県松江市在住
胃がん・乳がんサバイバー
元小学校教員、現在はリラクゼーションセラピストとして活動中。

腹痛からの診断結果

「何か、腫瘍がありますね・・・」。

そう診断された32歳の秋。

腹痛で目が覚め、1人ではどうにもならなくて、夫に病院に運んでもらいました。

「帰りはタクシーで帰るから」と、仕事に向かう彼を見送って2時間後。

医師が内視鏡で撮影したという画像には、確かに ”普通ではない何か” が写っています。

「これは、本当に私のお腹の中なの?」、「誰か別の人の画像なのでは?」と、疑いたくなりました。

その後の精密検査の結果、『スキルス胃がんステージ3a』との診断。

自分のことを言われているとは思えずに、「はぁ、そうなんですか」と、答えた覚えがあります。

これまで大きな病気や怪我をしたことも無く、健康には自信があった私が、がん?!

初めての病気らしい病気が、がんだなんて!

こうして、ある日突然に闘病生活は始まりました。

慌ただしい治療スケジュール

淡々と進められる治療に、今思えば、頭も身体もついていけませんでした。

「治療には時間もかかるし復帰は人によりけりです」と、医師に言われ、仕事はいったん休職することに。

ネットで疾病について調べてみると、かなり厳しい内容が書かれていて、当時の情報では5年生存率が7パーセント。

100人同じ病気の人がいたとしたら93人は命を落とし、残りの7人も「生存している」けれど、治療以前の生活に戻れている人は片手で足りる人数・・・。

もう生きることを諦めるしかないのかも、と冷静に考える自分と、考えることすらできない動揺した自分が、ぐるぐると頭の中でさまよっていました。

とりあえず、仕事の後始末や引き継ぎを済ませ、入院。

診断から3週間で家や仕事のことをバタバタとこなし、術前の抗がん剤治療が始まりました。

初めての入院、初めての抗がん剤、初めての手術・・・。初めて体験することばかりで、私はものすごく緊張していました。

進行の早いがんだということもあり、過密な治療スケジュールは、主治医に言われた通りに検査を受けるだけで精一杯。

薬の副作用は人によって違いますが、私の場合は髪が抜けたり吐き気がしたり、肉体的な辛さの方が勝っていましたから、「助かるの?」、「これからどうなるの?」と、未来のことを考える余裕はありませんでした。

「未来」の前に、「今」がものすごく辛かったです。

でも、結果としてそれが良かったのかなとも思います。

平穏な治療だったら、色々と考える時間を持てるでしょうから、落ち込んだり泣いたりしていたかもしれません。

術前の化学療法3クールのあと、胃の全摘出、脾臓、お腹の中のリンパ節16個を摘出する手術を受けました。

術後は11日で退院しました。

「早く退院できて良かったですね」と、笑顔で見送ってくれた看護師さんにお礼を言いながら、「もうお世話にはなりたくないな」と思っていました、あの当時は。

「食べる」ということの苦しみ

退院後は、実家に戻って面倒をみてもらう事になりました。

家に帰ってから、みぞおちからおへそにかけての傷跡が痛んで寝返りにも四苦八苦しました。

トイレに行く時も、なにかにつかまらないと便座に腰掛けることができなかったり、着替えも時間がかかったりと、生活の中で、小さなストレスが少なからずあることに気が付きました。

当たり前ですが、実家には補助してくださる看護師さんはいません。

何をするにも時間はかかるし、痛みを伴うし、本当に疲れ果ててしまう日もありました。

その中でも一番苦しかったのは、「食事」でした。

お水を一口飲むだけで、キューっと締め付けるほどの痛み。

固形物を飲み込めば1分ほどで大量の冷や汗が出て、座っていられない状況にまでなる早期ダンピング。

一度にたくさん食べられないので、3回の食事を5回に分けて食べるように指導されました。

食べるという苦しみが、1日に5回も繰り返されるのです。

そして、消化がうまくいかないことで、30分ごとに見舞われる「下痢」。

入院中に対応いただいていた点滴での栄養補給もできず、みるみるうちに痩せていきました。

そんな私を心配して、家族は一日に何度も声をかけてくれました。

「大丈夫?」
「どのくらい食べれた?」
「食べれるものがあった?」

そのひとつひとつの質問に答えることも苦しくなったので、自分で食べた量をノートに記録することを始めました。

当時、私と一緒に実家で暮らしていた夫は、帰宅してから「今日はよく食べられたね」、「あ、全然食べてないね、食べにくかった?」と声をかけてくれていました。

当初はその言葉が嬉しかったのですが、そのうち、「栄養が偏るんじゃないか?」、「これだけしか食べれなかったの?」と、自分に不安がつのる言葉が増えていきました。

目の前のノートに書かれている食事量は、以前の1/10ほど。

栄養失調でこのまま死んでしまうのではないか、と常に不安に苛まれるようになりました。

この時期、下痢により脱水をおこして立ち上がることもままならない程になっていたので、余計に不安が増していたと思います。

家族の心配はよく分かっているのですが、自分自身ではどうにもならない悲しさと、積もりに積もったストレスで、精神状態は限界に達していました。

実家に戻って1ケ月、母が何気なく「何が食べれそう?食べたいものある?何か作ろうか?」と私に尋ねた瞬間、ついに爆発してしまいました。

「もう食べることについて、とやかく言わないで!みんなほど簡単に食べれないの!もう嫌!食べたくない!」。

大声で怒鳴って号泣した私。

母は悲しそうな顔をしていました。

もうそれほど若くない母。目の前で痩せ細っていく娘を見て、母だって苦しかったはずです。

どうしたらいいのか、何ができるのか、どうにかして楽にしてあげたい、と思ってくれていたに違いありません。

でももう、私は限界でした。

病院の指導が心の支えに

翌日、母と一緒に病院へ行き、「下痢をしてつらいこと」、「食事がうまく取れていないこと」、「自分も母も精神的に限界であること」などを、正直に主治医に話しました。

点滴を打ってもらい、めまいが落ち着くと不思議と空腹感が。

下痢を抑える薬を飲み、お腹のグルグルとした違和感が消えると、「なにか食べてみようかな」と、久しぶりに思えたことを鮮明に覚えています。

私が点滴を打っているあいだに、母は主治医の先生や看護師さんと話をしたようでした。

「何か心配なことや困ったことがあったら遠慮なく相談するように」と、専門スタッフが対応してくれる電話番号を教えてもらったそうです。

食べることに関しては、管理栄養士さんに改めて食事指導をしてもらい、家でできることを中心に教えてもらいました。

帰宅後、とても落ち着いた雰囲気でくつろいでいる家族と自分。

今まで、「闘病」は家族で乗り越えるものだと思っていました。でも、家族だけではどうにもならないこともあるのだと、その時初めてわかりました。

退院後も支えてくださる病院のスタッフの方々が、私達のその後の生活を安心したものに変えてくれたのだと実感しています。

私の家族に対する接し方も、家族が患者である私に接する時の配慮も、具体的に教えてくれました。

もっと早くに相談していれば良かったと、思っています。

その出来事のあとは、何かあっても「管理栄養士さんに電話すればいい!」、「具合が悪かったら病院に行こう!」と、家族みんなが前向きになれたことは、とても大きかったです。

その後、食事のとり方やタイミングにも慣れ、少しずつ、日常を取り戻していきました。

そして、手術から1年半で職場に復帰を果たすことができ、忙しくも楽しい日々でした。

辛い人生経験

共にがんと戦った夫とは、この間に離婚が成立。

子どもが持てなかったことが、大きな理由です。

がん治療の前に、治療後の妊娠出産についての相談をしておけば、化学療法前の卵子の凍結保存なども視野に入れていたかも知れません。

しかし、主治医の消化器外科の先生からは、妊孕性についての説明が残念ながらありませんでした。

当時は自分も全く知識がなかったので、今さらどうしようもないことですが、あの時何らかの情報があればまた違った人生だったかもしれません。

別のがんが自分の身体の中に

定期的に病院に通い、検査も忘れずに受け、自分なりにきちんとメンテナンスして、術後7年が過ぎました。

「これで最後のCT検査にしましょうかね」、「よく頑張りましたね」、と主治医に声をかけてもらった時は、心の底からホッとしました。

しかし、思った通り上手くはいかないものです。その最後の検査で、胸に影が写っているのが見つかりました。

乳がんでした。

検査の結果、大きさ7ミリ、乳管のなかをゆっくり進む穏やかなタイプのがんだと言われました。

ステージ0の初期がん。

幸い、スキルス胃がんの再発ではなく、初発の乳がんであるということが分かりました。

にも関わらず、私はスキルス胃がんの告知時より、比べ物にならないほど取り乱しました。

過去の治療のつらさをもう一度味わうのか?
手術跡の痛みにまた耐え忍ぶのか?
スキルス胃がんの再発ではないのか?
仕事をもう1度辞めなければいけないのか?
これから先、どうやって生活していくのか?
あんなに気をつけていたのになぜ?

胃がん治療の時には、「知らなかったからこそ乗り越えられた」、「知らなかったから考えることすらなかった」ことに、今度は真正面から向き合うことになってしまいました。これが一番辛いことでした。

体験したからこそわかる「辛さ」を知ってしまったので、それをもう1度味わって、一からやり直すのかと思うと、本当に本当に苦しかった。

絶望に近いガッカリ感というのでしょうか。言葉で表現するのは難しいですが、体験した人しかわからない感覚だと思います。

しかしながら、くよくよ考えていても、治療をしない訳にはいきません。

こうなったら全力でやってやる!
仕事は辞めよう!
健康であれば何としてでも生きていける!
クラスの子ども達とも、永遠の別れではないのだ!

吹っ切るまでに、それほど時間はかかりませんでした。

スキルス胃がんから立ち直って職場復帰まで果たし、元気で過ごせた6年間の体験が、私に自信と勇気をくれました。

それを乗り越えられたのだから、ステージ0の乳がんが乗り越えられないわけがない!

3週間で仕事を片付けて引き継ぎを済ませ、子どもたちに別れを告げ、治療に専念することになりました。

7ミリの腫瘍なので、部分摘出で入院も術前検査含めて2日ほど。

「乳房の形も損なわれることはほとんどないでしょう」、との説明でした。

手術も、部分麻酔だったため、術中は主治医の先生と話しをしながら受けました。

スキルス胃がんの手術の時は、「生きて出てこれるだろうか?」と、泣きながら手術室に入ったのに、「あっさりしたものだ」と、拍子抜けしました。

「取り切った腫瘍は検査に出します。結果は3日後、傷の様子を見る時にお伝えしますね。」と、言われて帰宅。

そして3日後、病院で衝撃の報告がありました。

術後病理結果

「手術で摘出した断面に、腫瘍が残っていました。がん細胞が、取りきれていない可能性が高いです。今度は乳房の半分を摘出しましょう。次の手術は全身麻酔です。乳房の形も歪むと思われますので覚悟をして下さい。残した乳房は放射線治療をします」。

私は直ぐにこう答えました。

「半分取るなら全部取ってください」。

残した乳房の再発が気になること、もしまた取り切れていなかった場合には、全摘になるであろうこと、リスクはできるだけ避けたいこと。思っていることを全て正直に話しました。

主治医の先生は、「そこまでしなくても」と言ってくださっていたのですが、どうしても不安が拭えなかったのです。

「そこまで希望するなら」、ということで、乳房全摘とリンパ節生検手術を受け入れてくださいました。

全摘の手術は全身麻酔で行われました。

やはり、部分麻酔とは比べ物にならないほど不安でした。

部分摘出の時には事後報告だった両親にも、さすがに全身麻酔手術なので何かあった時にはいけないと、手術当日は付き添ってもらいましたが、既に親は涙を流していました。

また悲しい思いをさせてしまった、と本当に心苦しかったです。

手術を終え、ICUから一般病棟に移り、初めて食事が運ばれて来た時には、なぜだかとても有難く感じました。

「ああ、ご飯が食べれる」。

一口食べた途端に、どっと溢れる涙。命の有難みを実感した瞬間でした。

病室で検温や傷口の確認、食事や体調についての問診ルーティーンは、3日もすれば飽きてきます。

「飽きる」ことは元気な証拠だとは思うのですが、病室では話し相手もおらず、時間を持て余していました。

そんな時、「大垣さ〜ん、どうですかぁ?開けますよ?」。

カーテンの向こうから、穏やかに声をかけてくれる主治医の先生。

回診に来られる度に、小さな折り鶴を置いていかれました。

和風の紙で指先に乗りそうなほど、小さな鶴の折り紙。

これが、私の入院生活に彩りを与えてくれていました。

「明日は、先生来られるかなあ?何色の鶴かなあ?」。

先生は手術や外来のお仕事で、毎日病棟に回診されるわけではありませんが、この鶴が枕元にあるだけで不思議と落ち着けました。

腕が上がらなくて不安に思ったり、痛みに苦しんだりしていても、些細なことが本当に幸せに感じられるきっかけとなった、鶴と先生には本当に感謝しています。

退職の決心

退院してから小学校での仕事からは完全に離れました。

学校という現場は、子ども達の命を預かります。

子ども達に何かあった時に、咄嗟に手を出すことが出来ない、体力がないために対応することができなかったら後悔してもしきれない、と思ったからです。

寂しいですが、少し離れたところから見守りたいな、と思っています。

体験を生かして

現在は、自分のこれまでの体験を生かし、リラクゼーションセラピストを仕事としています。

自分の人生と初めて向かい合ってみて、感じたことや治療を通して分かったことをお伝えしたり、無理のない体調のコントロールをする方法をお伝えしています。

そう思うと、私のがん治療や闘病の体験は無駄でなかったのだ、と心から思います。

私の命をかけた体験が、誰かのお役に立てるのであれば、この上なく嬉しいです。

現在でも下痢に悩まされ、傷跡のつっぱりに顔を歪め、ダンピング症候群や貧血で起き上がれない日もあります。

罹患前の生活に完全に戻れたわけではなく、一生付き合っていかなければならないことだと覚悟しています。

でもこの体験は、私ひとりではないはずです。

この瞬間も病と戦っている人達がいて、私よりずっと辛い思いをしている人もいるはずです。

だからこそ、いろいろな想いや情報を共有して、より良い生活をできるように、手を取り合って生きてたいと、強く思うようになりました。

今は、ネットを検索すれば、正しい情報も間違った情報も、その全ての情報が手に入ります。

知りたいことも、また知りたくなかったことも、同じように目の当たりにします。

ネット検索しないようにしても、気になってどうしても調べてしまうことが多いものです。

私は身体よりも、心の安定を保つことが、本当に難しかったです。

手術し治療も終えて、定期的な検査のみになった今だから、冷静に振り返れることはたくさんあります。

今は、「よくやった、自分!」と、自分で自分を褒めてあげたいです。

(文責:中島 香織)

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