軟部腫瘍体験者 鳥井 大吾さん


  • [公開日]2016.07.15
  • [最終更新日]2020.03.04

今回のオンコロな人は、4月からオンコロスタッフとして働いている私、鳥井です。
がんが発覚した経緯や告知、闘病からオンコロで働くに至るまでをまとめました。

名前:鳥井 大吾
年齢:27歳
性別:男性
居住:東京
職業:オンコロスタッフ
がん種:軟部腫瘍体験者

原因不明のまま、がんを2年間放置していた

2011年の冬、就職活動真っ只中の大学3年生の時です。
何社かの会社説明会後の帰り、ふと左のふくらはぎが張ってるなという感覚がありました。
ただ、痛みが無かったので放置していました。それから数ヶ月たつと右に比べ左のふくらはぎが若干太くなっていたのです。
特に私は心配していなかったのですが、母の勧めで、2012年の春に地元の整形外科に行くことになりました。問診時点ではリウマチの疑いがあるとのことで、血液検査とレントゲン撮影を行ったのですが、原因はわからず。
近くの大学病院を紹介され、そこで再検査をすることになりましたが、結局原因はわからず終いでした。
その時は「まあ別に痛いわけでもないし、このままでいいか」と思い、そのまま放置していました。
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その後ITのベンチャー企業に就職をして、忙しいながらも充実した社会人生活を送っていました。
その間も特に痛みはなく日常生活に支障はなかったのですが、ただ以前よりも若干左ふくらはぎが太くなっていたのを覚えています。
2014年5月、社会人2年目の時です。改めて病院に行く機会がありました。
父が『知り合いのクリニックに健康診断に行くから、ついでにお前もふくらはぎ見てもらえよ』
と言ったので、一緒に行くことになりました。
初めて左ふくらはぎを診察してもらってから2年が経っていました。

そのクリニックで初めてエコーを使用して、左ふくらはぎを見てもらったのです。
すると医師からふくらはぎに大きな塊があると言われ、詳しいことは大きな病院で見てもらって欲しいとのことで、紹介状を書いてもらいました。

後日その紹介状を持って、1人で総合病院にいき一通りの検査を受けました。1週間後に医師から
『この病院では専門に扱っていないため、別の病院を紹介するのでそこに行ってください』
と言われ、がんの拠点病院を紹介されました。
ただ、がんの拠点病院を紹介されたからといって、この時点では全く自分ががんであると思っていません。

それから数日して、紹介してもらった病院に行きました。
この時は父も母も一緒でした。
診察室に入ると、先日別の病院で検査したデータを見ながら医師にこう言われたのです。
『鳥井さんの左ふくらはぎには悪性の腫瘍、つまりがんがあります。病名は病理検査をしないといけませんが、粘液性脂肪肉腫の可能性があります。このくらいの大きさになりますと別の箇所に転移がないか検査する必要があります。』
いきなりのがん告知。
私はただただ、自分ががんだとは信じられずにいました。
そして数日後、転移がないかの検査をすることになりました。

検査から診断結果まで不安な1週間だった

家に帰ると、まず当時の会社の社長と上司の2人に急いで電話で報告をして、近々休職したいという旨を伝えました。
会社に人は非常に心配をしてくださり、急でしたが休職を受け入れてもらいました。
それから親しい友だち30人くらいにがんだと伝えました。
というもの私が友人の立場であれば、がんになったことを伝えて欲しいと思ったからです。
ただ、できるだけ不安や変な心配を掛けたくなかったので、電話の時はめちゃくちゃ明るく話すことを意識した。
この年齢でがんになることは珍しく、当時の私自身もそうでしたが、みんながん=死と考えていたので、
なのでどの人からも『どうなっちゃうの?』『治るの?』と心配をされました。
私自身どうなるか分からない中、「詳しい検査これからだけど、多分大丈夫だよ!」と明るく言っている、この時の気持ちは上手く表現が出来ないくらい不安定でした。

がん告知を受けてから数時間は、自分ががんであるとは受け入れられませんでした。
ふくらはぎが太い以外に、痛みやしびれといった自覚症状が全く無かったからです。
ただ、自宅に帰ってからの両親の暗い顔や告知されたがん種を調べると自覚症状があまりないがんであることがわかり、自分ががんであると徐々に実感がわいてきました。
すると今までなかった不安が一気に襲ってきたのです。
しかしその不安はどうすることも出来なかったので、ベッドの中で1人耐えていました。
気が付くとそのまま寝てしまい、翌日になるといつも通りの朝を迎えました。

告知を受けた数日後に転移がないかの検査にいきました。
それから次の検診までの約1週間が本当に不安でした。
症状がではじめてから約2年、何もせずにずっと放置をしていたからです。
もし転移してたらどうしようか、どんな治療になってしまうのか、今までどおりの生活が出来るのか・・・
こんなことを考えながら過ごしていました。

診察当日、両親と共に検査結果を聞きに病院に行きました。
医師からは
『幸い転移がなく、手術のみで大丈夫です。しかしながら、実際にふくらはぎを開いた時に腫瘍の状況がひどい場合には転移を避けるために足を切断する可能性があります。』
と言われました。

転移がないことには少し安心はしましたが手術次第では切断する可能性があると伝えられ、別の不安を感じつつその後入院についての話や手術についての話を聞きました。

手術当日は不安にならなかった

会社を6月いっぱいで休職させてもらい、7月の初旬から入院することになりました。
手術前日には改めて手術についての説明が有りました。
『基本的には四肢温存を目指した手術を行いますが、状況によっては切断する可能性がある。
それは術中判断します。手術では、腫瘍とその腫瘍に絡んでしまっている血管2本と腓骨を摘出します。
また足の筋肉もくり抜くため、足に一部障害が起きる可能性があります。』
このような説明を受けました。

手術当日になるとそんなに恐怖などはありませんでしたが、妙な高揚感がありました。
自分がいろいろ考えてもしょうがなく、信頼した担当の医師に任せるしかない、そんな気持ちだったと思います。
いざ手術台に寝ると全身麻酔をされて、目覚めると自分のベッドに戻っていました。
想定よりもかなり大きく、8時間に及ぶ手術で周囲の筋肉を含め15cmほど腫瘍を摘出。
幸い左足は温存することが出来ました。

思っている以上に肉体的にダメージがあった

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手術を終え、目が覚めた瞬間から左足に今まで経験したことのないような大激痛。
痛み止めもなかなか効かず、何時間も激痛でずっとベッドの上で「あぁ、痛い、痛い」とうめいていました。
術後6時間は汗だくになりながら、悶えていました。それからは痛みが少し治まるも、また痛くなっての繰り返しが翌日までずっと。
また傷の炎症から39℃の熱が出るなど、とても辛い状況が1週間ほど続きました。

手術後、2日目にしてリハビリが始まりました。
術後は寝たきりであったので、今がどんな状態か楽しみでした。
しかし、いざ車いすを降りて立ち上がると左足がしびれ、30秒も立っていられません。
と言うもの、足のメインの血管3本のうち2本を摘出したため、血液の流れが血管1本では適応しきれないために、立つと足の下に血が溜まってしびれるとのこと。
事前に医師からそのことを聞いてたとはいえ、少しも立っていられないことにショックでした。
この時にはじめて自分はがんになって大変な手術をしたんだと、頭と体両方で実感したのです。
その日のリハビリは満足に立つことすら出来ず終わりました。

ちょうどそのタイミングで私よりも2,3歳年下で余命宣告をされている女性のブログを見つけました。
そのブログの1つにこう書かれていました。
「人生起こることには意味がある。人生に無駄なんてことは何一つないんです。」
このフレーズが、満足に立てずにいた私の心にすごく響きました。
“まだ生きているのだから、頑張ろう!”
こう気持ちをポジティブに持っていくことが出来たのです。
それからは手術前と同じように歩ける様になることを目標に、リハビリの時間に外にも、朝、昼、夜とひたすらずっと歩く練習を毎日しました。

入院から2週間ほどして、いい具合に回復をしているということで退院が決まりました。
その時点では100メートルほど歩けるようになっていました。
7月後半に退院をして、それから8月末まではずっと自宅療養。
その期間はリハビリをしたり、上半身は筋トレをしたりと、出来る限り以前の生活に戻れるようにトレーニング行っていました。
そして医師も驚くぐらいの回復を見せ、9月に職場復帰。その後は経過観察をしつつ、現在に至ります。

がんを経験して少しずつ考え方が変わった

がん告知をされた瞬間に、将来稼いで、いい家に住んで、いい車に乗って、そして結婚して子供が出来て・・・
未来が一気に消えた、そんな気持ちになりました。
それから治療を無事終えたあとも、助かったという安心感はあったものの、それよりも今後どうなっていくかわからない漠然とした不安の方が大きかったです。
例えば2020年の東京オリンピック関連のニュースを見ると、
その時にはがんが再発するのはないか、いやもしかしたら死んでいるかもしれない、と思ってしまいました。
数ヶ月先を考えることが出来ても、数年先の未来を考えると怖い。こういった思いを手術を終えてからも1年くらい感じていました。

そんな中、若年性の患者団体、『STAND UP!!』で同世代のがんサバイバーと接するうちに徐々に考え方が変わってきました。
壮絶な闘病生活をしているサバイバーがものすごいポジティブであったり、
まさに現在抗がん剤を服用して、何年もがんと戦い続けているサバイバーと接していくうちに、
“未来はどうなるかわからないけど、限りある人生で今をしっかりと生きていこう”そんな前向きな気持ちになることが出来ました。

そして気持ちが前向になると、がんになったことは私の一つの強みと思えるようになりました。
退院した1年半は、親しい人以外には自分ががんであることを伝えませんでした。
がんであることを変な目で見られたり、気を使われたりすることがとても嫌だったからです。
そんな中、自身ががんであることを積極的に他人に話したり、インターネットで情報発信している方々を見てものすごい衝撃を受けました。
自分のがん患者経験を語ることで、現在のがん患者や取り巻く環境に役立てていきたいというその方々の想いに感化されました。
それからはがんを隠すのではなく、
“自分ががんになったということは、がん患者の気持ちが少しは理解することが出来る”
と捉え方が変わってきたのです。
つまりがんになったことは自身の強みであると捉えられるようになり、人に対しがんサバイバーであると話していくようになりました。
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今後の人生はがんについて関わっていきたい

私の目標は、“がんになっても他の人と変わらないんだ”ということ体現していくことです。
がんになっても“仕事をすることは出来る”、“遊んだり出来る”、他の人と決して変わらないということを身をもって示していきたいと思ってます。
これは私自身ががんを告知された時に、今までどおりに暮らせなくなる、死の恐怖を抱え続けなければならないという経験があったからです。
こう思ってしまったのはがんに対しての知識もなく、またがんになった方は亡くなっているというイメージを持っていたからです。
大変な病気であることは事実ですが、しかし医療の発展により絶対に治らない病気ではないということを知りました。
また、実際にがんサバイバーで何年にもわたって明るく生活している方にも何人にもお会いしました。
過去の自分が持っていたがんに対する偏見を、これからの自分の行動をもってなくしていきたいと考えています。

2016年4月よりオンコロプロジェクトにジョイン

私は元々はIT系の会社でHPの制作や集客に関わる業務を行っていました。
そんな中、2014年6月にがんに告知を受けました。
無事に手術を終えてからは元の職場に復帰をして従来の業務を続けていました。
がんになったことを徐々にポジティブに捉えられるようになってきてからは、
自分のがん経験を活かして、またがん患者のためになにか出来ることはないのかということをずっと考えていました。
そんな中、「オンコロ」のWebサイトを発見し、なんとタイミングよく最近はじめたばかりのスタッフ募集のページを見つけました。
しかも募集している業務がWebサイトの運営にまつわる内容であったので、これだったら今の仕事の経験も活かせるを思い、これ以上無いタイミングだなと、メールで問い合わせたことがきっかけです。
そしてオンコロの取り組みやビジョンを聞いて、共感をし、2016年4月からスタッフとして働くことになりました。

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最後に

ここまで体験談を読んでくださってありがとうございます。
最後まとめるとしたら、このフレーズです。
“過去の事実は変えられないが、過去の意味は変えられる”
どこで見つけたフレーズかすっかり思い出せないのですが、改めてがんの体験を振り返ってみると私にはこの言葉がぴったりだなと感じます。
がんにならない方がもちろん良いのですが、なってしまった以上は捉え方を少しでも前向きにすると気持ちもちょっとは楽になるんではないでしょうか。
私自身、がんは大変な経験で、今後もどうなるかわからないのですが、それについて悲観的になるのではなく、仕事やその他の活動に活かしていくことが大切だと思っています。
この体験談を読んで、ほんのすこしでもなにかを感じて貰えたら幸いです。

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