肺がん体験者 長谷川一男さん


  • [公開日]2015.08.04
  • [最終更新日]2020.03.04

 2010年に肺がんのステージ4 余命10か月を言い渡された長谷川さん。
 がん発見から告知までの経緯、心境の移り変わり、家族への想い、そして患者会の設立。
 がんと関係ある方もそうでない方も、全ての方に読んでもらいたいインタビューです。

名前:長谷川一男さん
年齢:44歳
性別:男性
居住:神奈川県
職業:テレビディレクター
肺がん体験者(2010年に病気発覚)
長谷川さんが代表を務める「肺がん患者の会 ワンステップ!」HPにて詳しい自己紹介がございますのでこちらをご覧ください。
http://www.lung-onestep.jp/syoukai2.html

■受診の経緯

・止まらない咳

 ある日、今まで経験した事のないような酷い咳に襲われました。数日は何とかごまかしながら過ごしていましたが、咳は何をしても止まりませんでした。そのうち、首のあたりが見た事のないような腫れ方をしてきて…何かがおかしいと思い、夜中に地元の救急病院に駆け込みました。それが受診するまでの経緯です。

■がんである事を知った経緯

・本当の事が知りたい

 検査が進んでいくうちに、検査がどんどん大がかりになってきて、先生もお若い方からベテランの方へ変わっていくんです。そして写し出されたCTの画像を見たときに、右の肺の下に雪だるまのような影があり、自分が尋常ではない状態である事もわかりました。
 医師からの言葉は「肺炎の可能性がある。はっきりしたことはわからない。」というものでした。
 でも医師は診察・治療をパキパキと進めるわけでもないんです。苦渋に満ちた顔をしているんです。
 こっちもどうしていいかわからない。変な沈黙になりました。これ、今ならどういう状態かわかります。
 医師は一目で肺がんとわかっていた。しかもかなり進行した状態。しかしながら、CT撮っているだけだから確定診断ではない。それは生体検査をして病理医ががんと判断してからつく。患者は具合が悪いとたった今駆け込んできた。
 そんな人間に確定診断もなく、進行したがんとは説明できない。つまり、ほぼ100%がんとわかりつつも、それを説明できない状況にあったというわけです。

 当時は当然ここまでわからないですけど、このままいくと、詳しい検査をするために入院するという説明になり、状況がうやむやなまま進むことだけははっきりとわかりました。
 私は職業柄「分からない」という事が1番嫌なことで、その状態のまま、1週間10日と時間が空くなんてことは耐えられません。だから最終的には、先生の口から「がんの可能性が高いです」という言葉を、その場で聞きだしました。

 この話には続きがあります。私はこの後、極度の緊張で4日間くらい一睡もできませんでした。体調が悪く入院中ですので、病気のことを本やPCで調べることもできない。「がん」という事実だけはわかったけども、なにもできず、緊張のまま時間が過ぎました。経験したことのないつらい時間でした。

 通常ならここまでの緊張状態にはならなかったのではないかと思います。告知は段階を踏む。最初の検査では「厳しい病気かもしれない。調べましょう」、そして次の検査結果が出て、「残念ながらがんでした。」とくるわけですよね。この間の時間が患者の心に「準備」みたいなものを作る。こちらのほうがショックは少ないかもしれません。
 でも、もう1回同じことが起こっても、私はたぶん同じことをすると思います。
『人は生きてきたように治療する』っていう言葉があるじゃないですか。何でも「知りたい!教えて!」っていうタイプの人もいるし、「お任せします」っていうタイプの人もいます。私はなんでも知りたい派です。良くも悪くも。          

■がんと告知されてから

 「がんだ。」と告知を受けてから、妻といろいろ話し合いました。そのとき妻がバンバン動いてくれて、セカンドオピニオンをとるために築地のがんセンターに行ったり、妻が病気についていろいろ情報が貰える職場だったので、情報を集めてきてくれたりしました。
 でも、あまり自分と近しい人じゃない人に相談した場合は、こちら側の状況も分からないので、役立つ助言はあまり得られなかったです。

■原因探し

 妻に申し訳ないと思っていることがあります。
 妻は私ががんになったことに対して、自分自身に原因があるのではないかと考えだすようになりました。もうちょっと注意深く見ていたら、もっと早く異変を見つけられたのではないか、自分が小言を言いすぎたのでストレスがたまってがんになったのではないかとか、自分を責めるんです。「そんなことないよ。俺の病気はそもそも自覚症状ないんだ」、と言っても、「うーん・・・」というばかり。家族が自分を責めることなんかないのにな、と思います。でも逆の立場だったら、自分もそう思うかもしれない。ちょっとどうしたらいいかわからないです。

■病理検査結果が出て・・・余命10ヶ月。 医師からもらった2種類の言葉。

 病理検査結果が出ると、先生が時間をとって、私と家族にきちんと説明してくれました。
腺がん、ステージ4、余命は10ヶ月くらい、イレッサを使えるタイプではない(当時ALKはまだない)こんな感じです。
 イレッサが使えないタイプと聞いたときには、あまりにショックで、個室にしてもらって、妻に泊まってもらったのを覚えています。

 で、実は私はこのとき、主治医、セカンドオピニオンで計3人の医師に意見を聞いています。病名とか予後とか、そのへんは3人の意見は変わりません。ただ、今後の生き方みたいなものに対しての言葉が全く違ったんです。
主治医とがんセンターの医師は「残念ながら治らない。今の一日一日を大切に生きてください。この病気はそういう病気です」と言いました。もう目に涙を浮かべながら言ってくれるんです。だからもう、はい、わかりました、という気持ちでした。
 ところが、3人目の医師は全く異なることを言うんです。
 会った瞬間から態度が違いました。診察室に入ると、まず私を頭から足の先まで見回すんです。そして、「子どもはいるの?」と聞きました。私は「小学生と幼稚園の子どもがいる」と答えました。妻はその言葉を聞いて、泣き出しました。そのあと、医師はこう続けました。「人には役目がある。あなたは子供を育てるという役目があります。それをしなければならない。治りはしないが、ほんのわずかな可能性がないわけではない。戦いなさい。戦え。」
 そして、今やっている抗がん剤治療が効いた場合、状況によっては、放射線治療が可能になるかもしれない、と言われました。気持ちだけではなくて、具体的な戦い方を教えてくれたわけです。
 私は目からウロコが落ちた気がしました。「可能性はゼロじゃない。戦っていい。」と言われたのです。私は流れに任すという感じから、情報を仕入れ、戦う姿勢に変わりました。

 そして今に至ります。5年半が経過しました。
 本当に3人目の医師にあってよかったと思っています。
 しかし今、治療を経験し、勉強するにつれ、考えが少し変わっています。
 私の病状に対し、2つの言い方があったわけですけど、一見すると、3人目が一番親身になっている気がします。しかし、私の病状で、希望を持たせることが本当にいいのだろうかと考えるようになりました。肺がんステージ4です。しかもイレッサが使えないタイプ。1年で半分の方が卒業されます。希望を持ってしまうと、そのぶん絶望が大きくなりますよね。
 つまり、1人目、2人目の医師のほうが誠実ではなかったかと思うようになったのです。一番言いにくいところを、1番嫌な役目を果たしてくれたとも考えます。誰が1番誠実なのか・・・今でもよくわかりません。

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長谷川さんコメント:余命越えたときの誕生日。余命に幅があるとわかっても、やっぱりうれしい

 

長谷川さん
長谷川さんコメント:ドセタキセルで脱毛。ステロイドで10キロ増量

■「一日一日を大切に生きる」の意味が変わっていった

「戦う姿勢になった」といっても、「一日一日を大切に生きる」という言葉は当然いきています。
最近、この言葉の意味が、自分の中で変化しているなと感じることがあります。

 治療初期は「一日一日を大切に生きる」は、子どもに対して「愛していると伝えることに全力を尽くす」という意味でした。自分を愛してくれた、そういう存在がいたことが、子どもを強くすると思ったからです。20歳の誕生日までの手紙を書いたりしたな。あとはテレビ一緒に見たりとか。子どもが小さいから、とくに伝えるといっても別にこれといってないんですよ。なるべく普通の生活を送るということをしました。

 “治療が奏功する”と、文字通りの意味になりました。生活を丁寧に送ることを心がけました。
で、今はまた違う。今年はじめに転移がわかるんです。それをきっかけに、「自分であり続けること」という意味に大きく変わりました。
 他の患者の方々はどうなんでしょうかね?みんなこの言葉を大切にしているでしょ。その人なりの解釈があるわけで、そこを聞いてみたいです。

■患者や患者会が出来ること

・みんな患者初心者

 科学的な事はどんどん積みあがっていきますが、患者はいつも初めての経験なんですよね。先輩方が経験してきたことは、基本、継承されない。いつも揺れ動く。例えば、「告知」。頭が真っ白になって、どうしよう・・・とあたふたする。これに対しての有効な対策なんかない。でも、そのことをちゃんと知っていて、「俺、同じ体験したぜ、あんたの気持ち、よくわかる」といってくれる人がいたら、どんなに助かるでしょう。「告知」という部分の他にも、「治療法の選択」「副作用」など、患者にとっては初めてのことばかりで不安なんです。だから、患者会を通して先輩から“想い”や“経験”を伝えられればと思います。「1 人じゃないよ。居場所あるよ。」と伝えたいですね。それから逆もあります。私も患者で治療中です。基本ぐずぐずしています。だから「ちょっとちょっと、こんなことあったんだよ~」と話したいです。私の不安も聞いてもらいます(笑)

■患者の願い、そして国に期待する事

 単純に患者の願いって、本当に1番簡単な言葉で言えば、「治る」っていう事になるんですよね。それしか無くて、それ以外は無い。今、PD-1免疫チェックポイント阻害剤、あれが皮膚がんの次に肺がんが出てくるんですね。肺がんも扁平上皮がんだけだったのが、腺がんの方にも使えるようになってきています。死亡率が1番高い、がんのど真ん中の肺がんに薬が出来る訳ですよね。世界が変わっていくっていうのをすごく期待したいですね。そのためにも、日本のドラッグラグ問題(海外と比較すると、日本が新薬を認可するのに時間がかかる)ははやく解決してほしいです。患者ができることはします、という思いがあります。

*イレッサ…手術不能、または再発非細胞肺がんに対する延命治療の抗がん剤。
*PD-1…(免疫チェックポイント阻害剤)がんが免疫細胞に対してかけているブレーキを解除する新たな治療法。

長谷川さん インタビュー

  ■インタビューを終えて

 今回のインタビューは1時間を超えるロングインタビューとなりました。質問内容以外のところでも話が盛り上がり、貴重なメッセージを沢山頂くことが出来ました。その代わりに編集作業がちょっと難しかったです(汗)
長谷川さんのお話する体験談は当時の状況や、医師との会話、心境の変化などが細部まで語られておりとてもリアルに感じられるものでした。

 ここには全て記載していないのですが、印象的だったお話があります。それは長谷川さんが当時、自分の病状が今後どうなっていくかは運任せであり、病気に対して自分では何も出来ないと思っていたという話です。長谷川さんはある先生によって希望が持てるようになった、闘い方を教えてもらった事で「目の前に階段ができたんです!」と少し興奮気味にお話をされていました。当時の長谷川さんにとって、とても凄いことだったのだと思います。このきっかけが文中に記載のあるセカンドオピニオンを利用したときの話です。

 他の体験者からも聞くことなのですが、セカンドオピニオンの利用により、良い方向に進んでいく方が多くいらっしゃるという印象があります。希望を与える先生が良い先生かについては私も判断が難しいことであると思います。ただ、患者さんに個性があるようにドクターにも個性があります。自分に合う先生を探すことはとても重要なことなのだと思いました。

 そしてもう1つ感じた事、それは先人や周囲の方の存在や経験が自分のためになったのであれば自分も誰かのために何かをしてあげたいという気持ちです。長谷川さんが代表を務める肺がん患者会「ワンステップ!」の目指すことの1つにその想いがあるとの事です。
 自分1人だけでは生きる事は出来ないです。人を思いやる気持ちを忘れないようにしたいと思います。

担当者:HAMA

 

■「肺がん患者の会 ワンステップ!」とは・・・

長谷川さんが代表を務める、2015年の4月25日に設立された患者会です。

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