プロフィール
- お名前
- アーモンドさん(ニックネーム)
- 年代
- 50代
- 性別
- 男性
- 家族構成
- 妻と子ども2人との4人暮らし(子ども1人は独立)
- 仕事
- 地方公務員
- がんの種類
- 非小細胞肺がん(ALK融合遺伝子陽性)
- 診断時ステージ
- ステージ4B
- 診断年
- 2024年
- 現在の居住地
- 愛知県

声の異変がきっかけで見つかった肺の影
声の異常は、ある日突然起きたわけではありませんでした。最初は少しずつ声が弱くなっていき、自分ではただ疲れているだけ、あるいは風邪を引いたのだろうと思っていました。しかしその状態が長く続き、行きつけの串焼き屋の大将から「そんな状態なら早く病院に行った方がいい」と強く勧められたことが受診のきっかけとなりました。 職場の近くにあるクリニックを受診して胸部レントゲン検査を受けたところ、肺に1.6cmほどの影が見つかりました。紹介状を持って市民病院でCT検査を受け、さらに詳しい検査のために地域の拠点病院である総合病院へと紹介されました。 2024年11月26日、妻と共に総合病院を受診しました。医師は画面を見ながら、「右下葉に腫瘍があります。リンパ節、左小脳、背骨、骨盤にも転移が確認されています。ステージ4です」と静かに言いました。この時点では生検時の遺伝子検査の結果が出ておらず、今後の治療方針は決まっていませんでした。全身への転移を告げられたとき、強い不安が押し寄せるかと思っていましたが、実際に自分の中から静かに浮かんできたのは「もう十分頑張った」という言葉でした。思い残したことはありましたが、自分の中で張り詰めていた糸がふっと緩むような感覚がありました。その日の夜、自宅の食卓には、ご飯、野菜炒め、煮物といういつもと全く変わらない夕食が並でいたと思います。ステージ4と告げられた日であっても、日常の風景は変わりませんでした。遺伝子検査の結果を受けて開始した分子標的薬
翌朝、休む理由も見当たらず体に痛みもなかったため、普段通りに仕事へ向かいました。午前中に病院から電話が入り、「明日の朝に診察へ来て午後から入院になるかもしれません」と言われました。そときはは、特別な決意があったわけではなく、目の前のやるべき仕事を淡々とこなしました。 次の日、「遺伝子検査の結果が出ました。ALK融合遺伝子陽性です」と私たち夫婦は医師から告げられました。 入院が決まったことを子どもたちに伝える際、妻は一番下の子には「1週間くらい入院することになる」とだけ伝え、高校生の次男や大学生だった長男には「使える薬があることがわかった」と、年齢に合わせて伝え方を変えました。 11月末に入院し、ALK阻害薬であるローブレナの服用を開始するとともに、骨盤の骨転移に対する痛みの緩和を目的とした放射線治療を行いました。副作用として、血液検査でコレステロールと中性脂肪の数値が上昇しました。また、顎の周りに強い突っ張り感が現れました。一時的に休薬した際にこの突っ張り感が消え、服薬を再開すると再び現れたことから、自分では薬による影響なのではないかと捉えています。自ら回復事例を調べて取り入れた発声練習
一方、声が出ない症状については、肺やリンパ節の腫瘍が反回神経を圧迫し、声帯の動きが制限されていることが原因でした。脳から下行する迷走神経から分岐した反回神経は、胸部で折り返して再び首へと上る経路をたどるため、その途中で圧迫されると声帯麻痺を引き起こします。 呼吸器内科の医師からは声の回復は難しいかもしれないと言われました。しかし、仕事への復帰に向けて、自分でなんとか声が出るようにしたいと思い、いろいろ調べたところ、がんセンターでの回復事例とリハビリ法を見つけました。それをふまえて主治医に相談して耳鼻咽喉科を紹介してもらいましたが、結果的に耳鼻咽喉科の受診自体は直接的な解決にはなりませんでした。 結局、声が完全に戻っていない状態での復帰であったため、首から携帯用の小型拡声器を下げ、ヘッドセットのマイクを使って会話をしました。職場では聞き返されることが増え、電話ではうまく伝わらないため、自然と会話は短くなっていきました。話すことよりもいかに伝えるか自体を考えるようになり、人との距離を測り直すような感覚がありました。 それでも仕事は続いていき、職場の人たちは入院前と変わらない態度で接してくれました。声が出ない現実に直面しながらも、ただ諦めるのではなく、職場の昼休みには自分でマインドフルネスを取り入れたり、声を出す練習をしたりと、いま自分にできる取り組みを自ら探し出して実践していました。両立支援ガイドラインを活用した職場復帰
病気になった当初は「仕事を辞めるか、続けるか」の二択しかないと考えていました。しかし、産業保健総合支援センターへ相談したことで、「治療と仕事の両立支援」という、どちらも諦めずに働き続ける方法を一緒に考える道があることを知りました。当時の地方公務員の職場は病気との両立について、所属長と本人が相談して職場単位で対応する雰囲気でしたが、自ら厚生労働省のガイドラインやフォーマットを活用して行動を起こしました。 「公用車は運転できない」「骨盤の転移があるため高所での作業はできない」といった業務上の制限や、時間外勤務を減らす方針を書類にまとめ、産業医の承認を得て上司に決裁してもらうという手順を踏みました。自ら職場へ希望を伝えてガイドラインを活用することで、後に続く人が働き続けやすい前例を作る一歩となりました。自転車通勤で生み出した時間と家族の日常
職場復帰から1週間ほど経った朝、乗るはずだったバスが12分遅延する出来事がありました。遅刻を避けるため、医師の「骨折しなければ走ってもいい」という言葉を思い出し、職場までの約500mを走って間に合わせました。自分の足で走れた爽快感からヘルプマークを外したこの日の経験や、バスの待ち時間への不満が、後の通勤手段を見直すきっかけとなりました。 2025年10月からは、バスを使わずに済むよう通勤経路そのものを見直しました。これまでと違う駅を利用することにし、自宅から駅までの2kmと駅から職場までの6kmに自転車を利用する通勤方法へ変更しました。これにより朝夕それぞれ10分ほどの時間が短縮され、朝は睡眠時間を確保し、夕方は19時過ぎだった帰宅時間が18時台へと早まりました。 この帰宅時間の変化は、娘の習い事の送迎や、夕食を準備する時間を生み出しました。料理をするとき、キッチンからは一段高くなった食卓の様子が見え、妻が休んでいたり娘が宿題をしていたりする家族の日常が広がっています。妻が休んでいるときは、照明を落として包丁の音を立てないように配慮しています。 また、以前、料理を「手伝う」と口にした際、妻から「手伝いではなく子どもたちのことは二人の責任」だと諭されて以来、料理や送迎はサポートではなく「分担」なのだと意識が変わりました。そうして作り続けた食事も、娘は今では「おいしい」と食べてくれるようになっています。当たり前の日常を積み重ねこれからも淡々と歩む普通の人生
分子標的薬の治療効果があり、現在は原発巣以外は回復し投薬継続中です。回復していく過程では周囲への強い感謝の気持ちが湧いていましたが、日常生活が元通りになってくると、ふと「また悪化するのではないか」という不安の波が押し寄せてくることもあります。しかし、食生活を見直し、睡眠時間をしっかり確保し、自転車通勤などの運動を継続するといった「自分でできる日々の心がけ」を実践することで、比較的薬の副作用を感じずに済んでいます。 今の時代、治療法の進歩によって「がん=死」ではなくなりました。がんは決して何かの罰を受けるものでも、ただ死を待つだけのものでもなく、治療をしながら「生きることができる病気」へと変わってきているのだと感じています。だからこそ、死ぬことばかりを考えるのではなく、今生きている事実に目を向けることが大切です。病気になる前と変わらずにできることはそのまま続け、これからもフラットな気持ちを保ちながら、当たり前の普通の人生を淡々と歩んでいきたいと思っています。今、がんと向き合っている方へのメッセージ
がんと共に生きる今、同じように治療に向き合う方にお伝えしたいことがあります。 これからの生き方を見つめ直す病気です がんと診断されると絶望してしまうかもしれませんが、そこで人生が終わるわけではありません。むしろ、これから先の時間を誰とどう過ごしたいのか、自分にとって本当に大切なものは何なのかを改めて問い直し、整理するきっかけになります。過度に恐れたり悲観したりするのではなく、自分らしい人生の歩み方を見つける機会として捉え、前を向いて進んでいってほしいと願っています。 できることはそのまま続けてみてください がんだからといって、死ぬことばかりを考えたり、無理に生活を大きく変えたりする必要はありません。がん細胞が体にあることを過度に不安がらず、今まで通りにできることはそのまま続けていく。そうして当たり前の日常を淡々と積み重ねていくことが、ご自身の普通の人生をしっかりと続けていくことにつながると思います。がん体験に関するインタビュー参加者募集中
オンコロでは、がん体験をお話しいただける方を対象としたインタビューを実施しております。応募条件など、詳細は下記の応募フォームをご確認ください。この体験談をきっかけに、治験についてもっと知ってみませんか?
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