プロフィール
- お名前
- ねぼすけさん(ニックネーム)
- 年代
- 50代
- 性別
- 女性
- 家族構成
- 夫と2人暮らし
- 仕事
- 公務員
- がんの種類
- 非小細胞肺がん(肺腺がん)
- 診断時ステージ
- ステージ3B
- 診断年
- 2023年
- 現在の居住地
- 埼玉県

健診結果で告げられたがんの疑い
2022年10月初旬、職場で年に一度の健康診断を受診したことがすべての始まりでした。翌11月になって手元に届いた結果の用紙には、「縦隔腫瘍/リンパ節腫脹」という、これまで見たこともない文字が記載されていました。前年の健診では「異常なし」だったため少し戸惑いましたが、当時私は高血圧の治療で近くの病院に通院していたため、まずはその内科の主治医に結果の用紙を見せて相談してみました。すると、同じ病院内の呼吸器専門医を紹介され、すぐにCT検査と血液検査を受けることになりました。そして1週間後、検査結果を聞くために1人で病院を訪れました。 診察室に入ると、呼吸器内科の医師がとても落ち着いたトーンで「血液検査のこの数値が高いので、肺がんや大腸がんが疑われます。ショックかもしれないけれど、まずは紹介状を書くので、すぐに大きな病院に行ってください」とおっしゃったのです。 その言葉を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になるようなショックを受けましたが、同時にすぐ頭に浮かんだのは、家で待つ夫の顔と、可愛がっている3匹の猫たちの姿でした。「まだまだ一緒にいたい」という思いだけが強烈に込み上げ、私はその場ですぐに紹介先のがんセンターへ受診予約の電話をしました。 帰宅後、夫には「がんだって。12月14日にがんセンターに行くよ」と端的に事実を伝えました。当初はがんセンターへも1人で行くつもりでしたが、受診日の2日くらい前になって、「今後の治療に関わる重要な話になるだろうから」と考え直し、夫に同行を求めました。夫は即座に承諾してくれたため、2人でがんセンターへと向かいました。私の話をそのまま受け止めてくれた主治医への深い信頼
12月14日、夫と一緒に初めてがんセンターを受診しました。当初は呼吸器外科宛ての紹介状でしたが、その内容から呼吸器内科へと案内されました。診察室で初対面となった主治医は、「当院に紹介されてきたということは、『がんではない』ということはありません。これから治療方針を決めるための検査をしていきましょう」と現在の状況を伝え、今後の流れについて紙に図や文字をたくさん書きながら、私にもわかる言葉で丁寧に説明してくれました。 そして一通りの説明が終わった診察の最後に、「ここまでで、何か質問などはありますか」と聞かれたのです。私はごまかすことなく、「何を質問していいのかすら、わかりません。自分ががんになるとも思っていなかったので、ネット検索なども一切していませんし、予備知識も何もありません。どうしたらいいかもわからないんです」と、率直な気持ちをありのままに伝えました。一般的な「標準治療」や「エビデンス」という言葉すら知らない状態でしたが、主治医は呆れたり怒ったりすることなく、「それでいいんです。大丈夫ですよ」と穏やかに受け止めてくれました。その誠実な姿勢を見て、私はすぐに「この先生を信じてついて行こう」と心に決めることができました。 その後、主治医が組んでくれたスケジュールに沿って、MRIや腫瘍マーカー、確定診断のための組織検査や遺伝子検査など、さまざまな検査を年内に慌ただしく終えました。そして年明けの2023年1月9日に検査結果を聞きに行き、右上葉の非小細胞肺がん(肺腺がん)のステージ3Bという確定診断を受けました。すでに病変が広がっており、手術は不可能な状態でした。 治療方法として一番望ましいのは抗がん剤と放射線療法を併用する同時化学放射線療法でした。しかし、リンパ節の転移箇所がかなり上部にも及んでいたため、放射線療法が技術的に可能かどうかは、放射線科とのカンファレンスで相談してから判断するということになりました。「もし放射線がダメだったら、抗がん剤を継続してがんと付き合っていくことになる」という説明を受けていたため、結果が出るまでの数日間は、とにかく「どうか放射線療法が受けられますように」と祈るような気持ちで過ごしました。そして方針が固まり、次の診察で「放射線療法もできますよ」と言ってもらえたときは、張り詰めていた糸が緩み、安堵して少し泣いてしまいました。お互いの冷静さを保つために選んだ家族LINEでの病状報告
治療が始まるにあたり、家族にも状況を伝える必要がありました。しかし当時の私は、入院直前まで非常に多忙を極めていたため、感傷に浸る時間はあまりありませんでした。そんなある日、義理の母から電話があり、スピーカー設定にして夫と3人で話をしました。 義母は結婚当初から私のことをとても可愛がってくれており、その日も普段通り「声が可愛いね」などと和やかに話をして電話を切りました。ところが、電話を切った途端、突然夫が声を上げて泣き出しました。「こんなに仲良くしてくれて、可愛がってくれているのに」という夫の涙を見て、そのときばかりは私も一緒になって泣いてしまいました。 また、私の母と、同居している叔父、そして弟には、入院する前日になってようやく事実を報告することにしました。一人ひとりに同じ話を3回繰り返し、そのたびに相手のショックや悲しみを3回も受け止めるほどの気力が、当時の私には残っていませんでした。そこで家族LINEに「〇時〇分に大事な話があるから出てね」と連絡を入れ、ビデオ通話をつなぎました。私の横には画面に映らないように夫にも同席してもらいました。画面越しにがんであることを伝えると、母は案の定号泣し、叔父は「抗がん剤なんてやらない方がいい」と強い言葉で反対しましたが、直接対面して1対1で話をするよりも、画面越しであったからこそ、お互いに少し冷静さを保てたと感じています。コロナ感染による隔離下で裏口から通い続けた放射線療法
2023年1月23日から10日間の予定で入院し、1クール目の抗がん剤(シスプラチン、ビノレルビン)と全30回に及ぶ放射線治療が始まりました。1クール目の入院中はまだ体力もあり元気だったため、6階の病室から1階のコンビニまで軽快に往復することもできていました。 しかし、2月20日に2クール目の抗がん剤治療を受けるために入院する予定で病院へ向かったところ、事前の新型コロナウイルスのPCR検査で無症状ながら陽性と判定され、そのまま入院は延期となってしまいました。予定していた抗がん剤治療は一旦見送りとなり、2週間の自宅待機を余儀なくされましたが、放射線療法だけはスケジュール通りに継続する必要がありました。そのため、病院の一般の患者さんの外来が終わった午後5時以降に病院の裏口から入り、防護服に身を包んだ放射線技師の方に対応してもらうという特例の形で治療を続けました。 自宅待機中、私は自分で車を運転して毎日病院へ通っていましたが、その往復の車中ではスターダスト・レビューの「木蘭の涙」という曲をよく聴いていました。曲を聴きながら、もし私がこのまま病気でいなくなってしまったら、残された夫は一体どうなってしまうのだろうと想像してしまい、ハンドルを握りながら一人で涙を流していました。隔離入院の孤独を救ってくれた医療スタッフによる細やかな配慮
自宅待機期間を経て再び入院し、2クール目の抗がん剤治療を受けました。コロナ感染明けのため、個室に隔離された状態での入院でした。 個室にはシャワー設備がなく、数日間髪を洗えずに不快な思いをしていました。そこで看護師さんにドライシャンプーを買ってきてほしいと頼んだところ、「あれはスッキリしないから」と、バケツにお湯を汲み、生理食塩水の空き容器に穴を開けた手作りの簡易シャワーを用意して、洗面台で丁寧に髪を洗ってくれました。 また、抗がん剤の副作用で食欲が落ちていたため、食事をうどんに変更してもらったり、抹茶ラテを飲んだりしてしのいでいました。あるとき、病室で主人公がサバに生まれ変わるテレビドラマを見ていると、その日の夕食のメインのおかずが偶然にもサバの塩焼きでした。「これは何かの縁だから食べなくちゃ」と不思議な勇気が湧き、がんばって口に運ぶことができました。死を覚悟していた夫の勘違いと退院後のサポート
入院中、私は夫と毎日Facetimeで顔を見て話をしていました。その際、私が入院前に干していった洗濯物が、数日経ってもそのまま部屋に干されたままになっていました。「どうして片付けないの?」と聞くと、夫はおどけて「入院前にねぼすけが最後に干していったものだから、形見だと思っている」と言いました。私もおどけて「片付けてください、私の遺言です」と返すと、夫は泣き出しました。夫は昔見たテレビドラマの記憶から「手術ができない=死」とイメージしており、一人で不安と緊張と闘っていたようでした。 私は放射線療法の副作用で胸と背中がやけど状態になりましたが、毎日入浴後に夫が薬を塗ってくれたおかげで痕も残らずに済みました。それまであまり家事をしなかった夫ですが、私の入院を機に炊事や洗濯、猫の世話を進んでやってくれるようになり、今でも変わらず続けてくれています。長引く副作用を越えて実感した2cmの腫瘍がもたらした気づき
同時化学放射線療法を終えた後も、私は1年間にわたってイミフィンジによる維持療法を受けました。私にとっては入院治療中よりもその後のほうが苦しく、イミフィンジの影響なのか放射線療法の影響かはわかりませんが、咳が2年ほど続きました。横になると咳が出るため、体を起こして寝ることもありました。 当時は自分の症状がどれほど深刻なのかわかっておらず、主治医からも大変な状況だとは言われませんでした。咳が出始めてから1年ほど経ったころ、ようやく多いときで1日に4〜5回飲んでいた咳止めを一度も飲まずに過ごせるようになりました。そのことを報告した際、主治医から「一時はどうなることかと思った」と言われ、自分が実はそれほど大変な状況だったのだと後から知りました。 その後、過酷な治療を乗り越えて経過観察に入り、これからがんと闘うため、自分がどんな状態だったのかを知っておこうと思い、ふと主治医に治療前の原発巣の大きさを尋ねたことがありました。「だいたい2cmくらいですね」と話す先生に、私は「先生は簡単に言いますけど、たった2cmで私の人生は大きく変わりましたよ。でも、そのおかげで先生にもお会いできました」と伝えました。 がんと診断されたときは不安でいっぱいで、治療も本当に大変でしたが、信頼できる主治医や看護師さんたちとの出会いもあり、決して悪いことばかりではなかったという思いがあったからです。先生は「私になんて、会わない方がいいんですよ」とおっしゃいました。がん専門医である自分と出会うということは、患者ががんになった現実を意味するからこそ、そう言われたのだと思います。 本当の意味で「病気になってよかった」とは決して思いません。それでも、自分や家族のことを深く見つめ直すきっかけになったのは、紛れもなくこの2cmの腫瘍があったからです。今は半年に1回のCT検査の際、がん封じのお守りを、待ち時間にずっと握っています。このお守りは、弟が神社授かってきてくれたお守りで、その後1年に1度、自分で新しいものを授かるようになりました。そのお守りを握りながら、これからも自分の体と心にしっかりと向き合い続けていこうと思います。今、がんと向き合っている方へのメッセージ
がんという病気と闘ってきた経験から、今治療を頑張っている皆さんにお伝えしたいことがあります。 治療の苦しさ以上に、たくさんの人の優しさに触れることもあります がんは怖い病気ですし、治療そのものや長引く副作用の苦しさは計り知れません。しかし、そのつらさに負けないくらい、医療スタッフの方々の細やかな配慮や、家族の支えなど、周囲の人の温かさや優しさに気づくことができるはずです。決して一人ではありません。 病気が自分や家族の人生を見つめ直す、大切なきっかけになります 「がんになってよかった」とは決して思いません。ですが、私の場合は小さな腫瘍が、自分の心や家族との絆を深く考え直す時間を与えてくれました。つらい治療期間も、振り返れば自分の人生において必要な時間だったのだと、今は思えます。どうかご自身のペースで、前を向いて進んでいってください。がん体験に関するインタビュー参加者募集中
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