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子宮頸がん・急性骨髄性白血病、一日一日を大切に生きることで得られた孫との時間

[公開日] 2026.05.07[最終更新日] 2026.04.28

写真はイメージです。(AIによる生成)
プロフィール お名前:はまりんさん(ニックネーム) 年代:60代 性別:女性 家族構成:夫と子どもとの3人暮らし(子ども1人は独立) 仕事:看護師 がんの種類:子宮頸がん、急性骨髄性白血病 診断時ステージ:ステージ1B(子宮頸がん) 診断年:2002年(子宮頸がん)、2010年(急性骨髄性白血病) 現在の居住地:神奈川県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。 2002年、37歳の若さで子宮頸がんの告知を受けたはまりんさんは、2人の幼い子どもを抱えながら、実家に戻り近くの病院での手術を選択しました。その後、1年をかけて看護師の仕事に復帰しましたが、8年が経過した2010年、今度は急性骨髄性白血病という新たな苦難が彼女を襲いました。化学療法の副作用や、さい帯血移植に伴う壮絶な闘病を経験しながらも、彼女は「今という時間」を積み重ねることで、24年という歳月を生き抜いてきました。2度の大きな病を経て、現在は孫の成長を見守る日々を送るはまりんさんにお話しいただきました。

37歳、不正出血から始まった予期せぬがん告知

2002年のことでした。当時37歳だった私は、長引く不正出血に不安を感じていました。近所の産婦人科クリニックに通っていましたが、なかなか症状が改善しませんでした。看護師として働いていたこともあり、自分の体に起きている異変が単なる体調不良ではないのではないかという疑念が拭えませんでした。思い切って受診する病院を変えたところ、医師から「少し怪しいので詳しく検査をしましょう」と告げられました。 検査の結果、わかったのは子宮頸がんでした。当時の診断では、子宮頸がんの中でも比較的珍しいとされる腺がんの疑いがあるとのことでした。幸いにも、転院先の医師がその腺がんを疑って精密検査を行ってくれたことが、早期発見につながりました。

子どもたちのために選んだ実家近くの病院

がんの告知を受けたとき、私には8歳の長男と5歳の次男がいました。長男は小学校低学年、次男は幼稚園に通っていました。自宅の近くで治療を受けることも考えましたが、夫が仕事で忙しく、私が入院している間の子どもたちの面倒を誰が見るのかという問題がありました。そこで、実家の近くの病院で手術を受ける決断をしました。 妹の友人がその病院に勤務しており、腕の良い先生がいるという評判を聞いたことも決め手のひとつでした。子どもたちを連れて実家へ戻り、長男は現地の小学校へ転校、次男も幼稚園に預けることにしました。母親として、子どもたちに寂しい思いをさせているという申し訳なさはありましたが、まずは自分の体を治すことが最優先だと考え、治療に専念できる環境を整えました。

卵巣温存と抗がん剤治療による術後治療

手術を担当してくれたのは、非常に経験豊富なベテランの先生でした。当初、年齢を考慮して卵巣を摘出するかどうかという議論がありましたが、先生は「できるだけ負担を減らすために、開腹した際に状態を見て判断しましょう」と言ってくれました。結果として、卵巣は残すことができました。37歳という若さで卵巣をすべて失うことの身体的・精神的ダメージを最小限に抑えてくれた先生の判断には、今でも感謝しています。 手術は、広汎子宮全摘術が行われました。しかし、術後の病理検査の結果、脈管侵襲が見つかったため、念のために抗がん剤治療を追加することになりました。プラチナ系の薬剤を使用した化学療法を3回から4回ほど受けましたが、その副作用は想像を絶するものでした。当時は現在ほど優れた制吐剤が普及していなかったため、猛烈な吐き気に襲われました。

社会とのつながりのための仕事復帰

実家近くの病院での治療を終え、自宅に戻ったのは退院から4か月ほど経ったころでした。体力は著しく低下しており、すぐに仕事を再開できる状態ではありませんでした。子宮頸がんの告知から1年が経過したころ、ようやく「外に出て働きたい」という意欲が湧いてきました。入院していた病院の看護師長から「家に閉じこもっていると悪いことばかり考えてしまうから、社会とつながっていた方がいいですよ」とアドバイスを受けたことも背中を押しました。 近所に老人保健施設がオープンすることを知り、パートタイムの看護師として応募しました。採用担当者には、子宮頸がんの治療後であり、現在は経過観察中であることを正直に伝えました。他のスタッフには詳細は伏せていましたが、理解のある職場で働くことができたのは幸いでした。仕事を通じて人と接し、誰かの役に立っているという実感が、再発の不安に怯えがちな私の心を支えてくれました。

完治を信じていた8年後に現れた異変

仕事も家庭も落ち着きを取り戻し、子宮頸がんの告知から8年が経過した2010年のことでした。風邪のような症状がなかなか治らず、異常な体のだるさを感じるようになりました。坂道を登るだけで息が切れ、次第に足にむくみも現れ始めました。まさか自分が白血病になるとは夢にも思わず、単なる心臓の不調や過労ではないかと考えていました。 近所のクリニックを受診して血液検査を受けたところ、すぐに電話がかかってきました。「白血球の数が2万/μLを超えています。大きな病院ですぐに精密検査を受けてください」と言われ、以前から子宮頸がんの経過観察で通っていたがんセンターを急いで受診しました。そこでの検査の結果、告げられたのは急性骨髄性白血病という、思いもよらない診断名でした。

初期治療後1か月で再発、造血幹細胞移植を決断

がんセンターの血液内科で精査を受けた際、先生からは「二次性」、つまり過去の治療の影響による白血病の可能性についても触れられました。しかし、先生は同時に「二次性であると断定できる明確な根拠が見つからない」ともおっしゃっていました。以前の子宮頸がんの抗がん剤治療との因果関係について、病院から正式な説明があったわけではなく、結局のところはっきりしたことはわからないままでした。 初期治療で一旦は寛解状態となり、半年ほどで退院することができました。しかし、自宅に戻ってわずか1か月後の検査で、再発が確認されました。医師からは「これ以上、抗がん剤治療だけでは限界があります。造血幹細胞移植をしましょう」と告げられました。

震災の影響により、さい帯血移植へ切り替え

造血幹細胞移植に向けてドナーを探しましたが、私の型は非常に珍しく、適合する方がなかなか見つかりませんでした。ようやく候補の方が見つかった矢先、2011年3月11日の東日本大震災が発生しました。その影響でドナーの方との連絡や調整が困難になり、移植のスケジュールが白紙に戻ってしまったのです。病状は進行しており、猶予はありませんでした。 そこで医師から提案されたのが、さい帯血移植でした。一刻を争う状況だった私にとって、それは命をつなぐための確実な選択肢でした。2011年の初夏、私はさい帯血移植を受けることになりました。

想像を絶する移植後の副作用と孤独な闘い

移植後の反応は、これまで経験したがん治療とは比較にならないほど激しいものでした。移植片対宿主病(GVHD)と呼ばれる拒絶反応により、全身の粘膜が激しく炎症を起こしました。口の中はただれ、食事をすることはおろか、水を飲むことさえ困難になりました。1か月間、点滴だけで栄養を補給する日々が続きました。 また、手の皮膚が剥がれ落ち、医療用麻薬による幻覚や幻聴に襲われることもありました。痛みと苦しみの中で、「もう頑張れない」と何度も思いました。当時、長男は高校生、次男は中学生になっていました。子どもたちには白血病であることは伝えていましたが、家族に心配をかけたくないという思いだけが、私を辛うじてつなぎ止めていました。

看護師としての経験がもたらした絶望と希望

私はかつて大学病院の血液内科で勤務していた経験がありました。白血病の患者さんも多く見てきましたが、当時は治療法も限られており、亡くなっていく方を数多く見届けてきました。そのため、自分が白血病だとわかった瞬間、これまでの経験から「自分も助からないのではないか」という絶望感に襲われました。 しかし、がんセンターの主治医は私の不安を汲み取り、こう言ってくれました。「あなたがかつて見てきた医療と、今の医療は全く違うといっていいほど進歩しています。必ず道はあります」。その言葉は、白血病患者さんを見てきた経験があるがゆえに悲観的になっていた私の心に、一筋の光を灯してくれました。自分が見てきた過去の経験に縛られるのではなく、目の前の新しい治療と向き合おうと決心することができました。

患者と看護師、両方の経験で気づいたこと

闘病中、私はベッドの中から看護師さんたちの動きをじっと観察していました。彼女たちがどれほど忙しく動き回っているか、些細な所作や表情から、その時の心の余裕まで手に取るようにわかりました。自分が看護師として働いていた時、患者さんからこのように見られていたのだと改めて痛感しました。 「患者さんは、何も言わなくてもすべてを見抜いている」。この気づきは、私にとって大きな収穫でした。患者の立場になって初めて、適切なタイミングで声をかけてくれることの心強さや、無機質な処置の中に宿る優しさの価値を知りました。

すべてを整理して臨んだ入院

白血病の治療に入る前、私はある覚悟を決めました。もしものことがあっても家族が困らないように、身の回りのものを整理する終活を行ったのです。子どもたちの思い出の品や、自分の持ち物を整理し、引き出しを空っぽにしてから入院しました。死を過度に恐れるのではなく、最悪の事態を想定しておくことで、逆に「あとは治療に集中するだけだ」という覚悟が定まりました。 移植後、少しずつ体調が回復し、1年後には再び以前と同じ老人保健施設のパート職に復帰することができました。体力的な不安はありましたが、デイサービスなどの負担の少ない業務から少しずつ慣らしていきました。2026年現在、移植から15年近くが経過しましたが、大きな再発もなく、定期的な検査を受けながら看護師としての仕事を続けています。

24年の歳月を経て実現した、孫との対面という幸せ

2002年の最初のがん告知から、24年が経ちました。あの時、8歳と5歳だった息子たちは、今や立派な大人になりました。次男は結婚して独立し、私に初孫を見せてくれました。主治医に「孫を抱くことができました」と報告した際、先生が自分のことのように喜んでくれた顔は一生忘れません。 かつては「長男が小学校を卒業するまで」「次男が20歳になるまで」と、小さな目標を立てては、それを更新し続ける日々でした。一日一日の積み重ねが、結果として24年という長い月日になりました。今日という日を無事に過ごせたことに感謝し、明日が来ることを当たり前だと思わずに生きる。それが、2度のがんを経験した私が行き着いた答えです。

これからがんと向き合う方へのメッセージ

今、がん治療をしている方にお伝えしたいことがあります。 がんのことを忘れていられる時間を作ってください 入院生活や治療の苦しさは、精神を削り取っていきます。そんな時は、「がんを忘れることができる時間」を作ってください。本を読む、音楽を聴く、あるいは将来やりたいことを妄想するだけでも構いません。病気のことだけを考える時間を1秒でも減らすことが、心を健やかに保つ秘訣です。 今日という一日を大切にしてください 治療が長引くと、先の見えない不安を感じることもあります。しかし、私たちが向き合えるのは、常に今という時間だけです。まずは目の前の時間を無事に過ごすことに集中してください。その一日一日の積み重ねが、結果として10年、20年という月日へつながっていきます。
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