写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:りゅうさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:男性
家族構成:妻と2人暮らし(子ども1人は独立)
仕事:一般社団法人代表(診断時は自営業)
がんの種類:大腸がん
診断時ステージ:ステージ3A
診断年:2015年
現在の居住地:埼玉県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2015年、りゅうさんは健康診断をきっかけに大腸がんと診断されました。手術を経て一度は社会復帰を目指すものの、術後の補助化学療法中に肺への遠隔転移が見つかりました。厳しい予後が予想される中、主治医との対話を通じて治療方針を自ら決定する「共同意思決定」を経験し、現在は患者の家族を支援する活動に尽力されています。これまでの歩みと、病との向き合い方についてお話しいただきました。
健康診断の3日後にかかってきた1本の電話
私のがんが発覚したのは2015年のことでした。自営業を営んでいた当時の私は、仕事一筋の生活を送っており、唯一の健康管理として健康診断を受けていました。忙しさから前年度だけは受診していませんでしたが、その年以外は毎年継続していました。
通常、健診の結果は1か月ほど経ってから郵送で届くものです。しかしその時は、検査からわずか3日後に、受診したクリニックから直接電話が入りました。医師の口調は切迫しており、「至急、精密検査を受けてほしい」という内容でした。
すぐにクリニックへ向かうと、開業して間もないそのクリニックの医師から「すぐに大腸内視鏡検査をしましょう」と提案されました。その際、私は一つのお願いをしました。当時19歳だった私の娘が、医療の道を志していることを伝えたのです。「娘と一緒にモニターを見ながら検査を受けられるならお願いしたい」と言ったところ、医師は快諾してくれました。
娘と共にモニターを見つめる中で、画面には素人の私が見ても異様だとわかる大きな腫瘍が映し出されました。医師は「大腸がん」という直接的な病名は口にしませんでしたが、「顔つきが悪いね、これは間違いないね」と語りました。モニターでその現実を直視した私は、動揺するよりも先に、妙に納得してしまったのを覚えています。
50cm以上の腸を切除した最初の手術
精密検査のため、自宅の近所にあったがん診療連携拠点病院である総合病院を紹介されました。そこであらためて大腸内視鏡検査、CT、MRIといった一通りの検査を受け、大腸がんと診断されました。
2015年9月、最初の手術を受けました。腫瘍があった部位は、上行結腸から横行結腸にかけての場所でした。実際に開腹してみると腫瘍の大きさは3cmを超えており、結果として、私の腸は50cm以上も切除されることになりました。幸いなことに人工肛門を造設せずに済みましたが、体への負担は想像以上に大きなものでした。
術後の病理検査の結果、リンパ節に1つ転移が見つかり、私の病期はステージ3Aと診断されました。再発のリスクを抑えるため、術後の補助化学療法が必要となりました。主治医からは、ゼローダを提案されましたが、私はある種の直感に突き動かされていました。
当時、私は「薬が効かずに苦しむ」という悪夢を何度も見ていたのです。医学的な根拠はありませんでしたが、私は主治医に対し、「今の時点で選べる最も強い治療をお願いしたい」と強く要望しました。こうして私は、ゼローダとオキサリプラチンを併用するXELOX療法を開始することになりました。
肺転移と余命1年の宣告
8クールの化学療法を予定し、私は仕事の合間を縫って通院を続けました。その間、血液検査のたびに確認する腫瘍マーカーは一度も上昇せず、基準値内に収まっていました。主治医も私も「順調に進んでいる」と確信していました。
しかし、2016年5月に受けたCT検査で、両肺に無数の小さな転移が見つかりました。それは播種状に広がっており、手術での切除が困難な状態だったのです。
診察室で画像を見せられたとき、私は持病の喘息が悪化したせいではないかと自分に言い聞かせようとしました。しかし、主治医の説明は残酷でした。画面上の白い影はすべて大腸がんの転移だと告げられたのです。
主治医からは2つの選択肢が提示されました。1つは、新しい抗がん剤を使って積極的な治療を継続すること。もう1つは、抗がん剤治療をあきらめて緩和ケアに専念することでした。「緩和ケアのみを選択した場合、余命は1年ほどでしょう」と主治医は淡々と語りました。積極的な治療を選んだとしても、前回の強い化学療法の最中に再発したことを考えれば、次の薬が効く保証はないという、絶望的な宣告でした。
医師との「共同意思決定」がもたらしたもの
主治医は私に、「1週間後の診察までに、積極的治療をするか緩和ケアに移るか決めてきてください」と言いました。もし治療を続けるなら、3種類の薬が候補に挙がっていましたが、主治医は「どの薬があなたに効くかは、私にもわかりません。ご自身で決めてください」と、それぞれの薬のパンフレットを私に手渡しました。
その1週間は、私の人生で最も苦悩した時間でした。それぞれの薬が体にどう作用するかという説明は書いてあっても、それが「自分の体」に効くかどうかなど、わかるはずもありません。私は3日間ほど不眠不休で悩み抜きましたが、最後には思考が止まり、半ば自暴自棄になってサイコロを振って薬を決めました。
1週間後、私はアバスチンという薬を選んだと主治医に伝えました。すると、主治医の態度が一変しました。それまでの主治医は、パソコンの画面ばかりを見て私の顔をほとんど見ない、いわゆる「典型的な多忙な医師」という印象でした。しかしその日は違いました。
主治医は、私が選んだ薬について、最新の論文やデータを手元に用意して待っていてくれたのです。当時、大腸がんの発生部位によって薬の効果が異なるという新しい知見が発表されたばかりでした。主治医は、私の右側の大腸がんにはアバスチンが適しているという根拠を見つけ出し、私に熱意を持って説明してくれました。「私もこの1週間、あなたの治療のために必死で調べました。この薬で行きましょう」という言葉に、私は救われた思いがしました。
主治医が私のために時間を割き、共に悩んでくれた。その姿勢に触れたとき、私の中に強い信頼感が生まれました。これが「共同意思決定(シェアード・ディシジョン・メイキング:SDM)」であったと、後に知ることになります。
見えない副作用と深まる孤独感
アバスチンと抗がん剤を併用する治療を開始して半年後の検査で、肺転移が縮小していることが確認されました。私は叫びたいほど嬉しかったのですが、主治医からは「薬には耐性ができることもあります。一喜一憂しすぎないように」と諭されました。しかし、死の淵から一歩遠ざかった事実は、私に大きな希望を与えました。
一方で、治療の継続は確実に私の心身を蝕んでいきました。最初の手術後、XELOX療法を受けていたころから続いていた手足のしびれや味覚障害に加え、さらに私を苦しめたのが、新たに現れた平衡感覚の異常でした。
私はもともと車の運転に自信があり、一度も切り返さずに車庫入れができることを誇りにしていました。しかし、治療を続けるうちに、真っ直ぐに車を停めることができなくなっていったのです。ある日、バックで駐車しようとした際、そこに電柱があると分かっているのに、吸い込まれるように車をぶつけてしまいました。幸い怪我はありませんでしたが、自分の感覚が自分のものではなくなっていく不安とショックは、言葉にできないほどでした。
さらに、以前から続いていた味覚障害も深刻さを増し、大好きだったコーヒーの匂いさえ耐え難いものに変わっていきました。著しい記憶力の低下にも見舞われ、私は家族に対し、「自分の感覚がおかしくなっている」と真剣に悩みを打ち明けました。しかし、家族の反応はどこか他人事のように感じられました。
外見上は普通に生活できているため、内面の深刻さが伝わらないのです。がんそのものは小さくなっているのに、自分の心と体が壊れていく。この「わかってもらえない」という感覚は、私を深い孤独へと追いやっていきました。
「生きてるだけでいい」という言葉に救われて
再発後の苦しい治療が続く中、私の心の支えとなったのは、里子として迎えていた娘の存在でした。彼女は発達障害があり、当時8歳でしたが精神年齢は4歳ほどで、人の感情を察したり言葉の裏を読んだりすることは得意ではありませんでした。
私ががんであることを伝えても、最初は十分に理解できていない様子でした。しかし、転移発覚から半年ほど経ったある日のことです。副作用による激しい嘔吐に苦しんでいた私に対し、彼女はそっと歩み寄り、私の耳元で叫ぶようにこう言ったのです。
「大腸がんなんだよね。うつらないんだよね。誰のせいでもないんだよね」
それは、私が以前、彼女が不安にならないようにと言い聞かせていた言葉そのものでした。そして彼女は、私が教えてもいないのにこう続けました。
「お父さんは、生きてるだけでいいんだよ」
アスペルガー(自閉スペクトラム症)の傾向があり、他者の苦しみに共感することが難しいはずの彼女が、精一杯の知恵を絞り、必死に私のことを心配して掛けてくれた言葉でした。その瞬間、私は溢れる涙を止めることができませんでした。
「何かを成し遂げなければならない」「家族のために働かなければならない」という、自分を縛り付けていた義務感や焦燥感が、その一言ですべて溶けていくような感覚でした。「ただ存在しているだけでいい」という娘からの全肯定は、絶望の淵にいた私にとって、何よりの特効薬となりました。自分が生きることで、この子に何を残せるのか。その問いが、私の闘病の新たな原動力となったのです。
治療の中断という命懸けの決断
2018年3月、アバスチンの治療を2年弱続けたところで、私は限界を迎えました。がんが消えている状態であっても、いつ終わるともしれない治療を続けることに耐えられなくなったのです。私は主治医に「治療を止めたい、エンドレスなこの状況から一度抜け出したい」と申し出ました。
主治医は驚き、強く反対しました。医学的な常識に照らせば、効果が出ている治療を中止することは再発のリスクを飛躍的に高めるからです。しかし、私の決意は揺るぎませんでした。「もし再発しても、それは自分の決断の結果として受け入れます。今の自分を取り戻したい」と訴え、最終的には私のわがままを聞き入れてもらう形で、治療を卒業しました。
この決断を下すことができた背景には、がんと診断され死を覚悟した際に作成したエンディングノートの存在がありました。当初、私はノートに家族への思いや、過去の悔しい出来事を書きなぐっていました。しかし、心の中にあるドロドロとした感情をすべて吐き出すと、不思議なことに書くことがなくなっていったのです。
その後、次第に自分の人生を肯定する気持ちが湧いてきました。「いろいろあったけれど、自分なりに一生懸命生きてきたじゃないか」と思えるようになったとき、死への恐怖よりも「今、この時間をどう生きるか」という思いが上回りました。残された時間を、病院のベッドの上ではなく、家族と共に過ごしたい。その願いが、治療を止めるという決断を後押ししました。
誰かのために生きることが自身の救いとなる
治療を中断した後、私は新たな使命を見出しました。里親として子どもを預かっていた経験から、がんなどの重い病気で入院が必要になった親の代わりに、その子どもを一時的に預かる活動を始めたのです。
私が手術を受けた際、子どもの預け先を見つけるのに非常に苦労しました。行政の窓口は対応が遅く、緊急時には間に合いません。特に血液がんの患者さんのように、診断当日に即入院という状況では、子どものことは後回しにせざるを得ません。「安心して子どもを預けられる場所があれば、親は治療に専念できる」。そう確信した私は、2025年4月に一般社団法人を立ち上げました。
活動を始めるにあたっては、多くの壁がありました。行政からは「余計なことをするな」と非難され、周囲からは「何かあったらどう責任を取るのか」と冷ややかな目で見られたこともあります。しかし、私は議論を重ね、子どもを預かるための独自の保険も開拓しました。
現在は近隣の病院の相談窓口にリーフレットを置かせてもらい、多くの問い合わせをいただいています。子どもを預かるだけでなく、親御さんの不安に耳を傾けることも、私の大切な役割となりました。かつて私自身が感じた孤独や不安を、今の活動を通じて誰かの希望に変えていく。そのプロセスが、結果として私自身の心を癒やし、生きる力となって戻ってきているのを感じています。
名前の読み方を変え、新たな人生を歩む決意
2023年3月、手術から7年以上、治療中断から5年が経過した診察日、私は主治医から「もう一般の人と同じように検診を受けていってください」と、正式に卒業を告げられました。余命1年と言われた日から、奇跡のような歳月が流れていました。
現在、私は自身の名前を、漢字はそのままに読み方だけ変更しました。これは、かつての仕事人間だった自分、がんの恐怖に怯えていた自分に別れを告げ、新たな人生を歩むという決意の象徴です。
がんを経験し、一度はすべてをあきらめたことで、私は逆に「本当に大切なもの」が見えるようになりました。かつては10年後の貯蓄を心配していましたが、今は「今日、どう笑って過ごすか」が、私にとっての最優先事項です。
再発の不安が完全に消えたわけではありません。しかし、私はエンディングノートを何度も書き直し、そのたびに「今、何をしたいか」を明確にしています。死ぬまでどう生きるか。その問いに対する答えを、私は日々の活動と家族との時間の中に見出し続けています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がん治療をしている方にお伝えしたいことがあります。
医療チームを信頼できるパートナーに変えてください
あなたが自分の思いや生活の質(QOL)の重要性を根気強く伝えれば、医師もそれに応えてくれることがあります。一歩踏み込んで対話を重ねることで、医学的な正解だけでなく、あなたにとっての納得のいく選択が見えてくるはずです。
自分の感情を「外」に出す時間を大切にしてください
不安や不満、孤独感を無理に閉じ込める必要はありません。ノートに書きなぐったり、信頼できる誰かに話したりして、心の中にあるものを可視化してみてください。負の感情を出し切った先に、自分がこれからの時間を誰と、どのように過ごしたいのかという本当の願いが浮かび上がってきます。
生きているだけでいいという感覚を忘れないでください
病気になれば、仕事ができなくなったり、以前のようには動けなくなったりすることがあるかもしれません。しかし、あなたがそこに存在していること自体が、誰かの救いになっていることもあります。何かを成し遂げること以上に、今この瞬間を生きている自分自身を、どうか認めてあげてください。