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乳がんステージ4、子どもたちのために「生きるための治療」を続けた22年間の覚悟

[公開日] 2026.04.23[最終更新日] 2026.04.21

写真はイメージです。(AIによる生成)
プロフィール お名前:荻原卯月さん(本名) 年代:50代 性別:女性 家族構成:夫と2人暮らし(子ども2人は独立) 仕事:歯科衛生士 がんの種類:乳がん 診断時ステージ:不明(手術後ステージ4と診断) 診断年:2004年 現在の居住地:宮城県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。 2004年、当時30代だった荻原卯月さんは、乳がんのステージ4と診断されました。2人の子どもを育てながら、1年近くに及ぶ術前化学療法、手術、放射線治療、そして術後の抗がん剤治療を乗り越えました。その後、2011年の東日本大震災で被災し、夫が経営する歯科医院が津波被害にあうという困難に直面しながらも、歯科衛生士として再起を果たします。10年以上の歳月を経て乳房再建手術を決意した直後、卵巣や腹膜、胸膜への転移が判明しますが、荻原さんの心は折れることはありませんでした。医学の進歩を信じ、がんと共に生きる道を選んだ22年間の歩みをお話しいただきました。

乳がんが見つかったきっかけは、娘の一言

私が自身の体に最初の異変を感じたのは、2001年のことでした。ちょうど下の娘を出産した直後で、胸にしこりのようなものを自覚しました。当時は授乳中であったこともあり、医療機関で相談したところ「乳腺炎でしょう」という診断を受けました。私自身もその言葉に安心し、特に精密検査などは受けずにそのまま過ごしていました。 しかし、そのしこりは消えることなく、数年をかけて徐々に大きくなっていきました。触れるとゴツゴツとした質感に変わり、自分でも以前とは明らかに違うと感じるようになりましたが、日々の忙しさもあり、再受診を先延ばしにしていました。最終的に病院へ行く決意を固めたのは、2004年のことです。当時4歳になっていた娘から「ママのおっぱい、変だよ」と言われたことが決定打となりました。小さな子どもが指摘するほど外見が変化している事実に、私は事態の深刻さを認識しました。

専門医による即時診断と大学病院への迅速な連携

受診先については、主人が調べてくれた隣県にある乳がん治療の権威とされる先生のもとを選びました。非常に多忙な先生でしたが、状況が深刻だったためか、すぐに診察の機会をいただくことができました。先生は私の状態を診ると、「かなり大きい。乳がんだよ」とはっきりと診断を下されました。 さらに、私が隣県から受診に来ていることを確認すると、先生は「これから始まる治療は、これほど遠くまで通いながら受けられるような負担の軽いものではない。地元の大学病院へ行きなさい」と言われました。 実は、この受診の数日前に乳がんに関する学会が開催されており、先生はそこで大学病院の医師と会われていました。私の予約情報を事前に把握していた先生は、学会の場で「近々、そちらの地域から私のところへ受診に来る患者がいるが、実際の治療は君たちのところで引き受けてほしい」という旨を、あらかじめ申し送りしてくださっていたのです。この専門医同士の機先を制した連携により、私は滞りなく地元の大学病院へ紹介され、本格的な治療を開始することができました。

術前化学療法によるがんの縮小と副作用への耐性

大学病院での検査の結果、乳がんと診断されました。腫瘍が非常に大きかったこともあり、まずは化学療法で腫瘍を小さくしてから手術を行うという方針が決まりました。 治療は、1年弱に及ぶ術前化学療法から始まりました。薬剤はパクリタキセルを使用しました。手のひら全体でつかめるほど大きかったがんが、投与を重ねるごとに目に見えて縮小していくのが自分でもわかりました。薬の効果を実感できたことは、過酷な治療を継続する上での支えとなりました。抗がん剤の副作用は強く、激しい吐き気や嘔吐、全身の脱毛、倦怠感が生じました。しかし私は、「これを乗り越えれば手術を受けられる」という一心で耐えました。深く悩みすぎず、治療の過程をありのままに受け止めるよう努めました。

絶望から「生きるための治療」へ変えた愛・地球博での体験

過酷な初期治療を続けていた時期、私の心境は非常に沈んでいました。当時は「3年は頑張ろう。でも5年後はもう生きていないだろう。それなら残された時間を家族のためにどう使うか」ということだけを考えていました。そんな時、主人が私を愛・地球博へ連れて行ってくれました。 会場内に昭和の暮らしを再現した「サツキとメイの家」という施設があり、そこを訪れたことが私の意識を大きく変えるきっかけとなりました。懐かしい家屋の中を探索している際、1つの浅田飴の缶を見つけました。私の祖父母は生前、浅田飴の缶の中に黒飴を入れていました。ふとその当時を思い出し、その浅田飴の缶を開けると黒飴が入っていました。 この光景を目にした瞬間、私の意識に大きな変化が起きました。祖父母の温かな記憶に触れたことで、「私は死ぬために闘っているのではなく、元気に生きるために治療を受けているのだ」と心から確信できました。それ以来、私は自分の免疫細胞ががん細胞を攻撃する姿をイメージし、自身の体にエールを送るようになりました。医療をただ受動的に受け入れるのではなく、自らの意志で治療に参画する。この意識の転換が、その後の長い闘病生活を支える大きな原動力となりました。

全摘手術と放射線治療、そして復職

約1年の化学療法を経てがんが縮小した段階で、乳房の全摘手術を行いました。手術の結果、リンパ節転移が肝臓近くまで広がっており、全身に転移の可能性があるためステージ4と診断されました。手術後は、放射線治療を行い、さらに術後の抗がん剤治療としてドセタキセルによる術後化学療法を行い、その後はホルモン療法を受けることになりました。 一連の初期治療が落ち着いた後、私は歯科衛生士としての仕事に復職しました。がんという病を抱えながらも、歯科衛生士として現場に立ち、社会的な役割を果たすことは、病気のことばかり考えてしまう生活に良い変化をもたらしました。

子どもたちへの病状説明と母親としての役割

治療中、当時10歳の息子と4歳の娘にどう伝えるかは大きな課題でした。しかし、家の中で私が常に吐き気に苦しみ、寝込んでばかりいる姿を理由もなく見せるのは、子どもたちを余計に不安にさせると判断しました。私は子どもたちを前に、「お母さんは病気になったけれど、これは誰のせいでもないんだよ。治療の副作用で具合が悪いときもあるけれど、お母さんは大丈夫だからね」と正直に伝えました。 理由を説明することで、子どもたちが私の体調不良を自分のせいだと思い込まないように配慮しました。当時の私の最大の目標は、子どもたちの入学式や卒業式といった節目に立ち会うことでした。中学の運動会の直前に退院した際は、傷口の痛みに耐えながら、息子の走る姿を見届けました。そうした一つひとつの喜びが、私を治療に向かわせる糧となりました。

東日本大震災による被災と歯科医院の再建

2011年、東日本大震災が発生しました。宮城県に住んでいた私たちは被災し、主人が経営する歯科医院も津波の被害を受けました。家族に人的な被害はありませんでしたが、医院を立て直すこととなりました。当時は乳がんの術後経過観察中で、ホルモン療法を継続していました。 通院の間隔が3か月であったため、がん治療そのものに大きな支障は生じませんでした。主人は医院の再建を決意し、私も歯科衛生士として仕事に復帰しました。以前のように働くことは、病気のことばかり考えてしまう生活において、精神的な安定につながりました。大きな災厄を経験したことで、改めて「生かされている」という実感が強まり、前向きに生きる意欲が湧いてきました。

10年目の乳房再建と直後の転移判明

診断から10年が経過した2014年、私は乳房再建手術を受けることができました。実は、娘が「ママのおっぱいがなくなったのは、自分のせい」と思い込んでいると知り、すぐに再建を希望しましたが、当時の私の病態では再建の許可がでませんでした。10年後、娘は中学生になっていますが、自分自身のこだわりよりも、子どもの安心のために外見を元に戻したいという思いで、やっと自家組織再建を行うことができました。 しかし、再建手術から約2年後、体調に新たな変化が現れました。お腹に水が溜まるような感覚があり、再検査を受けた結果、卵巣への転移、ならびに胸膜と腹膜への播種が判明しました。診断から12年目での再発でした。一般的な感覚では大きなショックを受ける場面かもしれませんが、私は「いつか来るべき時が来たのだな」と、どこか冷静に受け止めていました。初期診断がステージ4であったことから、完治ではなくがんと共に生きるという覚悟があったからかもしれません。

最新医学の進歩に対する実感と信頼

2004年の診断から現在に至るまでの22年間、がん治療は驚くべき進歩を遂げました。私自身、その恩恵を強く実感しています。初期の治療では限られた薬剤しかありませんでしたが、現在は遺伝子検査の結果に基づき、自分の型に合った効果的な新しい薬を選択することができます。 私は現在、ベージニオとフルベストラントによる治療を続けています。以前使用していたフェスゴについても、再発後の検査で主治医から「若干HER2の反応が出ているから、まずはこれを使用してみましょう」という提案があり、その時々の細胞の性質や病状に合わせた効果的な薬を選択してきました。一部の薬に耐性ができ、腫瘍マーカーが上昇することもありますが、主治医からは「次はこの薬があるから大丈夫」という提案を常にいただいています。「来年にはまた新しい薬が承認されるかもしれない」という希望を持てることは、非常に心強いです。医学の進歩を信じ、最新情報を共有してくれる医療チームへの信頼が、私の治療継続の支えになっています。

チーム医療と患者としての主体性

これまでの闘病生活を通じて、私は大学病院の先生方をはじめとする医療チームを深く信頼してきました。医師、看護師、医療チーム全員が本気で「治したい」と思ってくれています。 世の中には根拠の不確かな民間療法や高額なサプリメントの情報も溢れていますが、私はそれらに惑わされることはありませんでした。標準治療こそが最も信頼できる道であると確信しています。 医療従事者が諦めていないのに、患者である自分が諦める必要はありません。ステージ4であっても日常生活を送り、家族との時間を大切に過ごすことが可能です。2人の子どもも無事に独立し、社会人として自分の道を歩んでいます。私はこれからも医療の進歩と共に歩み、一日一日を大切に積み重ねていくつもりです。

これからがんと向き合う方へのメッセージ

今、がん治療をしている方にお伝えしたいことがあります。 ステージという数字で人生を判断しないでください ステージ4という診断は、あくまで現在の病状を分類した数字にすぎません。それは決して、あなたの余命や人生の価値を決定づけるものではありません。私は診断を受けた20年以上前、「子どもの卒業式は見られないかもしれない」と泣いていましたが、医学の進歩に支えられ、子どもたちの独立まで見届けることができました。数字に怯えるのではなく、目の前の生活をどう豊かにするかを大切にしてください。 医学的根拠に基づいた医療を信頼してください がんと向き合う上で、主治医や看護師との信頼関係を築き、医学的根拠に基づいた治療を選択することは非常に重要です。不安な時に甘い言葉で誘う民間療法に頼りたくなる気持ちはわかりますが、それが本来受けるべき治療を妨げてしまうこともあります。医療のプロがあなたを助けようと懸命に考えてくれていることを信じ、疑問があれば素直に相談して、納得できる治療を続けてください。 生きることを自分から楽しむ姿勢を持ってください がんは人生の一部ではありますが、すべてではありません。病気であっても、美味しいものを食べること、家族と笑い合うこと、仕事に打ち込むことの価値は変わりません。「病気を治すために生きる」のではなく、「生きるために治療を受ける」という意識を持つことで、心は確実に軽くなります。楽しいことは日々の生活の中に必ず見つかります。明日という日に希望を持って、一緒に歩んでいきましょう。
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