写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:まりりんさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:1人暮らし
仕事:助産師
がんの種類:乳がん
診断時ステージ:ステージ3A
診断年:2019年
現在の居住地:愛知県(診断時は長野県)
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2019年、助産師として勤務していたまりりんさんは、右乳房の大きな腫れに気づきました。診断の結果は乳がんステージ3A。標準治療である手術、抗がん剤、放射線、そしてホルモン療法に臨むことになりました。医療者としての知識があるからこそ、治療への不安や職場での心ない言葉に深く傷つきましたが、それらを乗り越え、現在はピアサポート活動や趣味の歌を楽しみながら、再び助産師として活躍しています。がんという経験を「生き方を変える転機」と捉え、力強く歩み続けるまりりんさんにお話しいただきました。
異変の始まりと診断までの経緯
2019年の4月29日、夜勤明けに右胸が大きく腫れていることに気づきました。何かおかしいと感じ、まずは近くの救急病院を受診しました。しかし、そこでは超音波(エコー)検査も行われず「年齢によるホルモンの乱れだろう」という言葉で片付けられてしまいました。叔母が乳がんで亡くなっているので気になり、納得がいかなかった私は、職場の上司に相談し、乳腺外科のクリニックを紹介していただき受診しました。
エコー検査の結果、検査技師さんに「あるね」と言われ、死が頭をよぎりました。医師からは「右乳房にがんが散りばめられたように広がっていて、リンパ節も腫れているから、遠隔転移がないかすぐに調べる必要があります」と告げられました。
すぐに、地域の総合病院でCTやMRI検査を受けました。精密検査の結果、主要な臓器や骨への遠隔転移は見られなかったものの、ステージ3Aという進行した状態であることが判明しました。漠然とした不安がありましたが、治療するなら大好きなお産の現場で働きながら治療をしようと決めました。また、助産師という職業柄もあり、乳房ケアの際に、しこりが乳がんなのか、生理的な乳腺の張りなのかの鑑別に役立つと思い、同僚に乳房を触らせました。
また、家族の強い勧めもあり、東京の大学病院でセカンドオピニオンを受診しましたが、治療方針は同じでした。治療しながら働くと決めていたので、県内の大学病院での治療を希望し、そこでの治療が始まりました。
大学病院での治療方針と手術の決断
大学病院で改めて示された治療方針は、いわゆる“フルコース”でした。まず手術で病巣を取り除き、その後に抗がん剤、放射線、ホルモン療法を行うというものです。私の乳がんのサブタイプは、ホルモン受容体陽性のルミナルAでした。がんは、一部に塊はありましたが、散らばって広がっていたため、右乳房の全摘出と大胸筋切除、リンパ節郭清が必要であると診断されました。
当時、私は公立病院に勤務する公務員の助産師でした。上司に状況を報告し、手術するための休暇願いと病状について話しました。手術は、3か月後の6月末に決まりました。手術までの期間は、不安な気持ちもありましたが、今まで通りの生活や仕事を続ける方が、がんや命のことを考える時間が少なくなり、気分が落ち着いたため、入院前日まで通常通り勤務をこなしました。
手術では右乳房を全摘し、大胸筋と脇のリンパ節も切除しました。術後の病理結果でも、当初の診断通りステージ3Aであることが確定しました。ただ手術を受けたことで、不思議なことにそれまで慢性疲労のような疲れが、すーっと取れた感覚がありました。しかし、これから始まる抗がん剤治療で、髪が抜けたりさまざまな副作用があることを承知していましたが、長い髪を切る決断はなかなかできず、勇気がいりました。
壮絶な抗がん剤治療とその副作用
術後の回復を待って、抗がん剤治療が始まりました。まずは、G-CSF製剤を併用しながらFEC療法という3種類の薬を組み合わせた治療を4クール行いました。この治療が、私にとって最も過酷な経験となりました。吐き気自体は薬で抑えることができましたが、投与から数日経つと全身を激しい痛みが襲いました。
のけ反るくらいしんどくて、起き上がることさえできず、トイレに行くのも床を這っていくような状態でした。筋肉の緊張がおかしくなったのか、全身がつるような感覚があり、消化管の動きも止まって腹痛にも苦しみました。生理も止まりました。
その後、ドセタキセルを4クール行う予定でしたが、初回投与後、足の裏の皮がめくれて歩行が困難になるという副作用が強く出てしまい、1クールで中止になりました。休薬後、残り3クールは、パクリタキセルに変更し、3週連続投与して1週休薬するというスケジュールで行うことができました。
パクリタキセルは、手足のしびれといった末梢神経の症状も強く現れました。また、息が上がり、階段を登ることさえ満足にできませんでした。FEC療法の2クール目には、生かされているのか生きているのかわからないくらいの苦しさに、「もう治療をやめたい」と涙が溢れ、苦しかったことを覚えています。ただ、生きがいである助産師の仕事(良いお産がしたい気持ち)があったことで、なんとか抗がん剤治療を乗り越えられたのだと思います。その時に、支えてくれた同僚の助産師やコメディカルの仲間には感謝しています。
職場での偏見と心の葛藤
肉体的な苦痛以上に私を深く傷つけたのは、職場でのある言葉でした。抗がん剤治療後、短時間勤務で復職した際に、産科の責任者から「あなたの汗から抗がん剤の成分が出ているかもしれないから、汚い。赤ちゃんに触らないでほしい」と言われたのです。
医療従事者であれば、患者が受けている治療の性質や感染のリスクについて、冷静な判断ができるはずだと信じていました。しかし、医学的根拠の乏しい偏見の言葉をぶつけられたことで、私は強いショックを受けました。それも、自分の上司からです。自分はがんという病気だけでなく、社会的な偏見とも闘わなければならないのかと、深い悲しみと理不尽さを感じ、人間不信に陥りました。
当時は、自分ががんになったから何を言われても仕方がない、がんになんかなった私が悪いと自分を責めました。こんな酷いことを言われるなら、治療をせずがんで死んでしまった方が良かったとも思ったこともありました。情けなく、悔しかったです。なんでがんになんかなったんだろうと、自分に対する怒りと深い悲しみがあり、大粒の涙が溢れて止まらなかったことを思い出します。
放射線治療と仕事の両立
抗がん剤治療を終えた後、復職にあたり、医師の診断書が必要でした。医師からは、「普通に働いていいですよ」と診断書をいただき、職場に提出して、面談後に時短勤務で少しずつ職場復帰しました。
昼の休憩時間を利用して、大学病院の敷地内にある医療センターで25回の放射線治療を受けました。放射線は目に見えないので緊張しました。当初は、疲れやすさはありましたが目立った副作用はなかったと思います。ただ、回数を重ねるうちに、照射部位の皮膚がずるんとめくれてしまい、大学病院で軟膏処置を受けました。
少しずつ仕事の量を増やしていき、最終的にはフルタイムの勤務に戻ることができました。抗がん剤治療の副作用で落ち込んだ体力が戻るまで、3年以上かかりました。一気に失われた力を取り戻すには、やはりそれだけの時間が必要なのだと痛感しています。今もまだ足先の感覚がないという症状は残っていますが、日常生活を支障なく送れるほどには回復しました。自分の生きがいがあること、そして私を必要としてくださる方がいることが励みになり、今の元気な私がいるのだと思います。
ホルモン療法とリンパ浮腫への対応
一連の治療が一段落した後、現在はホルモン療法を継続しています。当初はタモキシフェンを服用していましたが、重い更年期障害の症状に悩まされました。冬場でも大量の汗が止まらず、厚手のニットを一度も着ることができないほどのホットフラッシュが数年続きました。
落ち着き始めたころ、完全に閉経しているので薬を変更することになり、レトロゾールになりました。3か月継続したくらいで、今度はペットボトルのキャップが開けられないほどの関節痛が現れ、座ると膝ががくんとなり立つことが難しくなったため、再び元の薬に戻して現在に至ります。また、右脇のリンパ節を取り除いたことで、右腕にリンパ浮腫を発症しました。
腕の重だるさやしびれ、全身の疲労感がありました。リンパ外来を受診し、弾性スリーブを着用することで、リンパの流れがよくなり、体が楽になりました。また、太るのは乳がんの予後によくないので、適正体重を維持するために、休日は1時間のウォーキングを取り入れるようにしたところ、体力もつきましたし、今では、健康な人と変わらないほど動けるようになっています。食事も酵素玄米にしたり、新鮮な野菜中心の食事に変え、体に優しいものをとるようになりました。
治療後の体調変化と新たな病の発症
がんの治療が一段落したころ、さらなる試練がありました。バセドウ病(甲状腺機能亢進症)を発症したのです。抗がん剤や手術による体への大きな負荷、そして職場でのストレスが引き金になったのかもしれません。
初めは、眼球が突出する症状が現れました。しかし、内服治療だけでは改善しなかったため、東京の眼科の専門病院へ1か月ほど入院しました。ステロイドパルス療法という強い治療を受けました。
乳がんとバセドウ病という大変な経験をしたことから感じたことがあります。それは、体と心はつながっているから、自分自身の内なる心の声に耳を傾けて立ち止まることは大切だなということです。また、言葉は選ばないと人を傷つけてしまうので、私の体験談を読まれた方は同じような言葉で人を傷つけないでください。
沖縄での生活と生きがいの再発見
がん治療から数年が経ち、私は大きな決断をしました。一度きりの人生、やりたいことをやろうと考え、長野を離れて以前から憧れていた沖縄へ移住したのです。1人で沖縄に渡り、再び助産師として働き始めました。
温暖な沖縄での生活は、私の心身を大きく癒してくれました。現地の助産師仲間との出会いがあり、仕事を通じて多くの人とつながることができました。また、大好きなよいお産ができました。良い仲間に出会えて感謝しかありません。プライベートでは、沖縄県のライブハウスで毎月の模合(もあい:沖縄に深く根付いている独自の相互扶助システム)参加やウクライナ支援ライブなどの活動です。
すごく楽しく、歌や音楽でつながるって素敵だと思いました。数年前の闘病中は、こんな元気な私に戻れるなんて想像してなかったですが、沖縄の皆さんのおかげで回復できたと思います。そして、がん治療していても自立して生きることは、私の人生に大きな自信を与えてくれました。現在は両親のサポートをするために愛知県に住んでいますが、月に一度は沖縄を訪れ、友人たちと楽しい時間を過ごすことを習慣にしています。
現在の生活とこれからの活動
現在はクリニックで助産師として勤務しながら、乳がんのピアサポート活動にも力を入れています。がんサバイバーであり、かつ医療従事者でもあるという自分の立場を活かして、同じ病に苦しむ人たちの相談に乗っています。
最近では、リンパ浮腫に悩む方のアドバイスも積極的に行っています。理学療法士や作業療法士の中でもリンパ浮腫の専門家はまだ少なく、患者さんがどこに相談すればよいか迷っている現状があるからです。私自身も今後、リンパケアの資格取得にチャレンジしたいと考えています。最近ではインド政府公認のアーユルヴェーダのセラピストの資格をとりました。インドのケララのクリニックでは、予防医学を取り入れていて東洋医学と似ていると感じました。
がんになったことは決して喜ばしいことではありませんが、そのおかげで私は「ストレスをためない」「無理な仕事は断る」「よく笑う」「よく寝る」「好きなことを後回しにしない」という、自分軸での生き方を手に入れることができました。これからも、助産師としての仕事を誇りに思いながら、1日1日を丁寧に、そして明るく生きていきたいと思っています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がんの治療をされている方にお伝えしたいことがあります。
1人で抱え込まず、早めに誰かに相談してください
私は、職場で言われた心ない言葉を7年間も自分の中にため込んでしまいました。つらい気持ちや理不尽な思いを1人で抱え続けると、心も体も疲弊してしまいます。信頼できる友人、家族、あるいは患者会の仲間など、誰でも構いません。早めに言葉にして吐き出すことで、気持ちは必ず軽くなります。
自分の「生きがい」や「夢」をあきらめないでください
治療中は体がきつく、将来に対して悲観的になりがちです。しかし、今の苦しみが一生続くわけではありません。私は治療後に沖縄へ行き、大好きなお産や支援ライブのステージで歌うという夢を叶えました。前を向くのは、容易ではありませんが、「元気に歩けるようになる」「仕事に戻る」「どこかへ旅行に行く」など、自分のやりたいことの希望を持ち続けてください。やってみなければわからない、治療中は苦しいことばかりだけど、なんとかなる(沖縄ではナンクルナイサの精神)で前向きに治療に向き合ってほしいと思います。
正しい情報を手に入れ、納得のいく選択をしてください
医療者であっても、自分の病気については不安になるものです。主治医の言葉を大切にしながらも、必要であればセカンドオピニオンを活用し、自分で納得して治療を選ぶことが大切です。不確かな情報に惑わされず、同じ体験をした仲間の声も参考にしながら、あなたにとって最善の道を見つけてください。遠くから応援してます。そして、苦しい時、つらい時は、私がいつも大切にしている言葉「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と呟いてください。