写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:みぃなさん(ニックネーム)
年代:60代
性別:女性
家族構成:夫と2人暮らし
(診断当時は夫と子ども3人との5人暮らし)
仕事:障害者支援施設設立準備中(診断当時は専業主婦)
がんの種類:慢性骨髄性白血病
診断時ステージ:-
診断年:2005年
現在の居住地:岐阜県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2005年、3人の子どもを育てる専業主婦だったみぃなさんは、慢性骨髄性白血病と診断されました。経済的な困窮や副作用の苦しみに直面しながらも、自ら患者会の仲間と共に、高額療養費制度の改善を求める署名活動を行うなど、社会的な障壁にも立ち向かってきました。病と共に生きる道を選び、現在は新たな社会貢献の道を歩み始めているみぃなさんにお話しいただきました。
突然の異変と「お岩さん」のような顔
2004年12月、私は専業主婦として3人の子どもを育てながら、地域のスポーツチームの代表兼監督を務めていました。当時、市が行っていた健康診断を受けに行きましたが、そこで「要医療検査」という結果が届きました。しかし、2月に県大会を控えており、子どもたちが優勝を目指して練習に励んでいた時期だったため、自分の体のことは二の次にしていました。大会が終わるまでは病院へ行くまいと、検査結果を机の中に置いたままにしていました。
異変がはっきりと現れたのは、2005年の3月の中旬でした。前日の夜から、肘のあたりに激しいかゆみを感じ、見たこともないような大きなじんましんが広がっていました。翌朝、目が覚めると顔全体が激しく腫れ上がり、鏡の中の自分はまるで「お岩さん」のようになっていました。目はほとんど開かず、あまりの容貌の変貌ぶりに驚愕しました。その日の夕方にもスポーツチームの練習がありましたが、私の顔を見たメンバーの保護者から「すぐに病院へ行ってください」と強く促され、近所のクリニックを受診することにしました。
受診したのは皮膚科でしたが、医師は私の顔と症状を見るなり、ただの皮膚疾患ではないと直感したようでした。すぐに血液検査が行われ、医師からは「1週間後、必ず結果を聞きに来るように」と何度も念を押されました。これまでの人生で大きな病気をしたことがなかった私は、何か深刻なことが起きているのではないかと、胸騒ぎがしたことを覚えています。
「白血病かも」と気づき、初めて死を意識
1週間後、クリニックに行くと、医師からすぐに大学病院を紹介すると告げられました。紹介状には「CML」という3文字が記されていました。当時はその言葉の意味を知りませんでしたが、後からそれが慢性骨髄性白血病の略称であることを知りました。紹介された大学病院の血液内科を受診したその日、医師から「これから骨髄検査をします」と伝えられました。
骨髄穿刺、いわゆる「マルク」という検査です。その言葉を聞いた瞬間、私は自分の病名を確信しました。昔見ていたテレビドラマや、子どもたちに読み聞かせていた絵本の中に、白血病の少年少女が骨髄穿刺を受ける場面があったからです。「ああ、私は白血病かも」と、その時に初めて死を意識しました。
検査台に横たわる前に、私はすぐにスポーツチームのコーチに電話を入れました。「これから大変な検査をすることになりました。今後、皆に迷惑をかけるかもしれないけれど、練習をお願いします」と伝えました。検査には家族の同意が必要だと言われましたが、その日は1人で受診していたため、自ら署名して検査に臨みました。
検査後の診察室で、医師から正式に慢性骨髄性白血病である可能性が高いと告げられました。それまで、白血病といえば不治の病というイメージが強く、自分の人生が断絶されたような感覚に陥りました。帰宅してから2日間ほどは、今後のことを考えて夜も眠れず悩み続けました。持っていた何枚ものクレジットカードを1枚に絞るなど、万が一のことがあった時に家族が困らないよう、自分なりの「終活」に近い身辺整理を始めました。
夫も大きなショックを受けていましたが、当時高校生、中学生、小学生だった子どもたちの反応が、私を奮い立たせるきっかけとなりました。長女はショックを隠せない様子でしたが、末の子にはまだ伝えない方が良いのではないかと、私のことを思いやって相談に乗ってくれました。私は家族全員とスポーツチームのメンバーに対し、「私は絶対に負けない。頑張るから」と宣言しました。その言葉が、自分自身を崖っぷちで支える力になりました。
患者会の仲間と共に高額療養費制度の改善を求める署名活動
治療方針について、医師からは2つの選択肢が提示されました。1つは骨髄移植です。私の3人のきょうだい(私、妹、弟)のうち、弟の白血球の型(HLA)が一致していたため、移植は可能でした。もう1つは、グリベックを服用し続ける治療です。高額ではあるけれど薬でコントロールする方が、1か月後も元気な姿でいられる確率が高いと言われ、私は薬物療法を選びました。
しかし、ここからが本当の苦難の始まりでした。グリベックの価格は非常に高く、この金額を払い続けることは家計の破綻を意味していました。住宅ローンもあり、子どもたちの学費もかさむ時期です。
当時の高額療養費制度は、一度窓口で全額を支払い、4か月後に差額が還付されるという仕組みでした。入院した年には医療費の支払額が180万円を超え、還付金が届くまでの4か月の間、常に収入以上の額を支払わなければならない生活が続きました。あまりの負担に、1年後に「やはり骨髄移植をしたい」と医師に泣きついたこともありました。主治医からは、40歳を過ぎてからの移植には高いリスクが伴い、合併症などで命を落とす可能性や、社会復帰が困難になるケースが少なくないという説明を受けました。
私は、自分と同じように治療費に苦しんでいる仲間がいるのではないかと考え、患者会を探し始めました。しかし、地方では同じ病気の人に会うことすら困難でした。医師からは「うちの病院では、慢性骨髄性白血病は1年に数人しか診断されません」と言われ絶望感に襲われましたが、私は新幹線に乗って東京の患者会へ向かいました。そこで出会った仲間に、名古屋でも慢性骨髄性白血病患者のつどいを開いてほしいと要望しました。
そうした活動をしていた時、新聞社から取材を受けたことをきっかけに、高額療養費制度の改善を求める署名活動を始めることになりました。スポーツチームの記念大会で全国から集まったメンバーや保護者にも協力を仰ぎ、多くの署名を集めて患者会を通し厚生労働省へ届けてもらいました。その後、2012年4月から制度が変わり、窓口での支払いが最初から自己負担限度額までで済むようになりました。
副作用の軽減により、薬代を稼ぐための就職活動
薬物療法を始めてからも、副作用との闘いが続きました。グリベックを服用していた際は、強い倦怠感や吐き気で1日の大半を横になって過ごすような状態でした。家事も母親に来てもらわなければ回らず、元気だった時の自分とのギャップに苦しみました。
私は医師に、薬の量を減らしてほしいと訴えました。「もし何かあっても先生のせいにしない」と必死に頼み込み、4錠から3錠へ減量したことで、ようやく少し動けるようになりました。その後、グリベックの次に承認された「スプリセル」の存在を患者会の仲間から聞きました。スプリセルを飲んでいる仲間が元気に活動している姿を見て、2012年に私は主治医に薬の変更を申し出ました。
医師は当初、今の状態で安定しているのだから変える必要はないと言いましたが、私は「もっと元気になりたい、次のステージに進みたい」と説得しました。スプリセルに変えてからは副作用が軽減し、驚くほど体が動くようになりました。
45歳を過ぎた頃、いつまでも治療費を家族の負担にするわけにはいかないと思い、仕事を始める決心をしました。ハローワークへ行くと、最初は立ち仕事仕事を勧められましたが、面接に行き白血病であることを伝えると、「責任が持てない」と難色を示す場面に何度も遭遇しました。警察の事務職や会計事務所の面接でも、病名を言った瞬間に場の空気が変わり、不採用となることが続きました。
私は諦めず、職業訓練校に通ってワードやエクセル、パワーポイントなどのスキルを身につけました。そして、ハローワークからの紹介で、若者の就労を支援する「地域若者サポートステーション」のパート職に応募しました。面接ではあえて健康状態を聞かれるまで病名のことは言わず、採用が決まりかけた段階で、「就労に問題なし」という診断書を提出しました。結果、そこでは11年以上も働かせていただくことができました。最終的にはフルタイムの8時間勤務をこなし、自らの手で薬代を稼げるようになったことは、大きな自信につながりました。
主治医の患者の中で第1号の休薬成功者に
白血病と診断されてから21年。私は、主治医が薬物療法を勧めてくれたおかげで、無事に還暦を迎えることができました。あの時、薬物療法を選ばなければ、孫を抱くことも、おばあちゃんと呼ばれることもなかったかもしれません。20年目の検診の際、主治医と固い握手を交わしました。
現在、私は長年勤めた就労支援の仕事を離れ、自ら障害者支援施設を立ち上げる準備をしています。地域若者サポートステーションで働いてきた経験を生かし、障害を持つ方々が自立できる場所を作りたいと考えています。21年間、多額の医療費を支払ってきましたが、それを無駄だったとは思いません。その経験があったからこそ、今、困難な状況にある人に寄り添える自分がいるのだと感じています。
そして今、私は新たな目標に向かっています。それは、長年続けてきた薬からの卒業です。最近では、特定の条件を満たした患者が休薬に挑戦する「TFR(無治療寛解維持)」という選択肢が広がっています。私は主治医に「先生の患者の中で第1号の休薬成功者になる」と宣言しました。薬をやめることで、また体調が変化する不安はありますが、挑戦せずに後悔はしたくありません。
また、還暦の記念旅行として、来月にはブラジルへ行く予定です。かつて岐阜で出会い、帰国したブラジル人の友人が「いつでも遊びに来て」と言い続けてくれていた約束を、ようやく果たしに行けます。3か月先の予定を立てることは、体調の急変を経験してきた私にとって今でも少し怖いことですが、それでも「今を生きる」という決心は揺らぎません。
病気は、私から多くの時間を奪ったかもしれませんが、それ以上に、家族の絆やかけがえのない仲間、そして「未来を変える力」を与えてくれました。長女は私の闘病を間近で見て、血液内科の看護師という道を選びました。私がかつて入院していた大学病院で、娘が働きました。人生はどこでどのようにつながっているかわかりません。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がん治療をしている方にお伝えしたいことがあります。
過去に囚われず、今できることに集中してください
がんと診断されると、多くの人が「なぜ自分が」「何が悪かったのか」と過去を振り返り、自分を責めてしまいます。しかし、過去はどれだけ悔やんでも変えることはできません。大切なのは「今」何ができるかを考えることです。今日できることを一つずつ積み重ねることが、明日を変える力になります。過去は変えられませんが、未来は自分の手で変えることができます。
孤独を恐れず、仲間を見つけてください
病気の苦しみは本人にしかわからない部分がありますが、同じ経験をした仲間とつながることで、心の重荷は確実に軽くなります。私は患者会を通じて、自分だけではないことを知り、制度を変える力をもらいました。今はSNSやオンラインでも仲間を見つけることができます。1人で抱え込まず、外につながる勇気を持ってください。
自分の意志を大切にし、希望を捨てないでください
治療法や生活のあり方について、迷うことがたくさんあると思います。そんな時は、自分がどう生きたいかを最優先に考えてください。医療は日々進歩しています。21年前には考えられなかった「薬からの卒業」が、今の私には現実のものとして見えています。諦めずに治療を続けていれば、必ず新しい光が見えてきます。一歩を踏み出すことを恐れないでください。