写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:日下部 和宏(本名)
年代:60代
性別:男性
家族構成:妻と2人暮らし(子どもは独立)
仕事:キャリア教育施設職員(診断時は中学校校長)
がんの種類:びまん性大細胞型B細胞リンパ腫
診断時ステージ:ステージ4
診断年:2018年
現在の居住地:京都府
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2018年、中学校の校長職にあった日下部和宏さんは、人間ドックで肺の影を指摘されました。精密検査の結果、告げられた病名はびまん性大細胞型B細胞リンパ腫ステージ4でした。標準的な化学療法から始まり、放射線治療、自家造血幹細胞移植、そして当時最新の治療であったCAR-T細胞療法。最新の医学を頼りに一進一退の闘病を続けてきた日下部さんは、現在、標準治療の選択肢が尽きた状態にあります。ホスピスへの準備を進めながらも、子どもたちの教育現場に立ち続ける日下部さんに、がんとともに生きる今の心境をお話しいただきました。
人間ドックで見つかった握り拳大の影
私の闘病生活は、2018年に受けた人間ドックから始まりました。当初、胸部レントゲン検査で肺に映った小さな影について、医師は「汚れかもしれない」と言い、3か月間経過を見ることになりました。しかし、3か月後に再び受けたレントゲン検査では、その影はすでに握り拳ほどの大きさにまで成長していました。
すぐに総合病院の呼吸器内科で精密検査を受けました。生検の結果、肺がんではなく、びまん性大細胞型B細胞リンパ腫ということがわかりました。さらに全身の状態を調べるためにPET-CT検査を受けたところ、がんは肺だけでなく、胆のうや脊髄、全身のリンパ節に広がっていました。診断は、最も進行した状態であるステージ4でした。
当時、私は中学校の校長を務めていました。学校の運営責任を負う立場で、長期間職場を離れるわけにはいかないという思いが強くありました。しかし、医師からは早急な治療が必要であると告げられました。私は教育委員会へ報告し、職員や生徒たちにも正直に現状を伝え、まずは1か月間の休みをもらって入院治療に入ることにしました。
校長職と治療の両立
最初の治療は、悪性リンパ腫の標準的な化学療法であるR-CHOP療法でした。第1クールは入院して副作用の出方を見ましたが、第2クール以降は通院での治療に切り替えました。仕事と治療を両立させるため、点滴を受ける日は半日休みを取り、それ以外の日は学校へ出勤するという生活を続けました。
抗がん剤の副作用は決して軽いものではありませんでした。髪の毛は抜け落ち、食欲は極端に減退しました。点滴を受けて数日が経過すると、全身を激しい倦怠感が襲います。それでも校長としての公務をこなさなければなりませんでした。どうしても体がしんどいときは、校長室で横になって休み、体力を回復させてからまた仕事に戻る。そんな日々を繰り返しながら、全6クールの治療を完遂しました。
学校現場では現在、がん教育が保健体育の授業の一環として取り入れられています。私は校長として、自分自身の闘病体験を生徒たちの前で直接語る機会を設けました。かつてのがんのイメージは、死と直結する恐ろしいものでしたが、実際に治療を続けながら仕事をこなす私の姿を通じて、がんと共存しながら社会で生きる道があることを伝えたかったのです。教育者として、自らの命の記録を生徒たちに共有することは、言葉以上に重みのある生きた教材になると確信していました。
治療終了後の検査では、まだ肺に病変が残っていることが判明しました。医師からはすぐに造血幹細胞移植を勧められましたが、当時の私は「これ以上仕事は休めない」と移植を拒みました。代わりに放射線治療を選択し、約2週間かけて計8回の照射を受けました。その結果、幸いにも腫瘍は一度消失し、そこから約2年間は平穏な経過観察の期間を過ごすことができました。
繰り返される再発と最新治療への期待
しかし、がんは再び動き出しました。2020年から2021年にかけての頃だったと記憶しています。定期検査で再発が確認されました。私は校長職を定年退職し、教育委員会での再雇用という形に変わっていたため、治療のためにまとまった休みを取る決断をしました。
大量の抗がん剤投与と、自分の細胞をあらかじめ採取して戻す自家造血幹細胞移植を行いました。クリーンルームでの孤独な入院生活は1か月以上に及び、食事も喉を通らないほどの副作用に苦しみましたが、「これで治るはずだ」という一心で耐えました。ところが、退院からわずか3か月後の検査で再発が判明したのです。
移植という大きな壁を乗り越えた直後の再発に、言葉を失いました。次なる手段として提示されたのが、当時、保険適用されて間もなかったCAR-T細胞療法でした。この治療を行うためには大学病院へ転院する必要がありましたが、迷わず転院を決めました。
大学病院での治療は、学生が見学に来るような最先端の現場でした。ここでも事前の抗がん剤投与が体にこたえましたが、CAR-T細胞の輸注自体は大きな副作用なく終わりました。その後、約2年間は症状が安定し、バイクに乗って仕事へ復帰できるほど体調は回復していました。
脳への転移、そして治療の限界
安定した日々は長くは続きませんでした。ある日、歩いていると足元がふらつく感覚を覚え、バイクを止めたときにもバランスを崩すことが増えました。さらに、自分の書いた文字が後から読めないほど乱れ、言葉が詰まる症状が出始めました。嫌な予感がしてMRI検査を受けたところ、脳に腫瘍ができていることがわかりました。
このとき、私は初めて医師から余命についての示唆を受けました。脳への転移は非常に深刻な状況でした。それでも諦めきれず、当時承認されたばかりの新しい治療薬である二特異性抗体エプキンリを試すことにしました。私がその病院で最初の投与患者になるという状況でしたが、わらをも掴む思いで治療を受けました。
しかし、その後のPET検査で、がんは骨にも広がっていることが確認されました。がんは小さすぎて生検はできませんが、光っている箇所は明らかに病変でした。ついに医師から「これ以上の標準治療はありません」と告げられました。これまでの7年間、ありとあらゆる最新治療に挑んできましたが、その時点で利用可能な標準治療の選択肢が尽きた状況でした。
ホスピスを回り、今を生きる
現在は、積極的な抗がん剤治療は行っていません。月に1回、免疫力を維持するためのグロブリン製剤の点滴や、ウイルス感染を防ぐための内服薬を続けるのみとなっています。足のふらつきなどの症状は続いていますが、幸いにも急激な悪化は見られず、今も子どもたちのキャリア教育を支援する施設で働いています。
医師から「ホスピスを考えてみてください」と言われたときは、自分でも「いよいよか」と感じました。私はすぐに3か所のホスピスを見学し、医師との面談を済ませました。自分で歩けなくなったときは、家族に迷惑をかけないようホスピスへ入ろうと、心の準備を整えています。
かつては「がんになったらすぐに死んでしまう」というイメージを持っていましたが、実際になってみると、がんと共存しながら生きている人は世の中にたくさんいることを知りました。通院で抗がん剤治療を受けに来ている人を病院で多く見かけます。帽子を被りながら治療と仕事を両立している方々の姿で、病院は溢れています。私自身もその1人として、動けるうちは今の役割を果たしたいと考えています。
死を見据える時間が増えたことは事実ですが、今は「その時が来たら仕方がない」という、ある種の諦念に近い冷静な気持ちでいます。それでも、子どもたちが将来の夢を探す手助けをすることは、私にとって今を生きる大きな糧となっています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
長年にわたる治療と再発の繰り返しの中で、私が感じてきたことをお伝えします。
自分が受けている治療を信じてください
私の場合、多くの最新治療に挑戦しましたが、結果的に再発を繰り返しました。それでも、その時々の主治医の言葉を信じ、納得して治療を受けたことに後悔はありません。情報に惑わされるのではなく、目の前の治療に集中することが、心の安定に繋がると私は考えています。
正しい情報を自ら見極める姿勢を持ってください
病気になると、健康食品や宗教など、周囲からさまざまな情報が寄せられます。中には善意からのものもありますが、大切なのは自分の立ち位置をしっかり持ち、正しい情報に基づいて選択することです。SNSなどの雑音に惑わされず、冷静な判断を心がけてください。
社会とのつながりや役割を持ち続けてください
体が許す範囲であれば、仕事や役割を続けることをお勧めします。ベッドの上で横になっているだけでは、どうしてもがんのことばかり考えてしまいます。社会の中に自分の居場所があることは、病気という現実から少しだけ離れ、自分自身を取り戻すための大きな力になります。