写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:イソイソさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:子どもと2人暮らし
仕事:無職(診断時は会社員)
がんの種類:慢性リンパ性白血病、リンパ腫様肉芽腫症
診断時リスク分類:不明
診断年:2016年(慢性リンパ性白血病)、
2025年(リンパ腫様肉芽腫症)
現在の居住地:東京都
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2016年1月、40代で慢性リンパ性白血病と診断されたイソイソさん。仕事、子育て、そして夫の単身赴任という状況の中、慢性リンパ性白血病との長い闘いが始まりました。化学療法、分子標的薬、そして実の妹からの造血幹細胞移植。次々と起こった合併症や、新たに判明した希少疾患。10年近くに及ぶを経て、今なお病と向き合い続ける彼女に、これまでの軌跡と生きるための備えの大切さについてお話しいただきました。
久しぶりに受けた人間ドックで見つかった異変
私の人生が動き出したのは、2015年の年末でした。結婚を機にワークライフバランスを考えようと、敢えて正社員ではない職種に就いていましたが、子どもも小学生になったのと、自分も40代に入り転職も難しくなってくるだろうということから、勤務先と交渉して契約社員から正社員に転換してもらえることになりました。正社員になったのを機に、久しぶりに会社補助が出る人間ドックを受けてみようという軽い気持ちでしたが、それが運命の分かれ道となりました。
超音波(エコー)検査で、思った以上に時間をかけているという印象はありました。人間ドック終了後、1~2日で要精密検査という封書が届きました。「再検査は聞いたことがあったけど、要精密検査は聞いたことがなかったな」とちょっと驚きました。その後、追加検査を受け、最後の問診の際、担当医師に2015年の秋に帯状疱疹になったことを話すと、それらを総合的に判断した医師は、「すぐにでも大きな病院で診てもらってください」と大学病院への紹介状を書いてくださいました。
当時は、自分が白血病だとは夢にも思っていませんでした。紹介状を持って大学病院を訪れたときも、受付で「血液内科ですね」と言われて初めて、「私は血液の病気なのか」と自覚した程度でした。しかし、各種データを事前提出したにもかかわらず、改めてものすごい数の追加検査を受けるよう指示され、事態の深刻さがわかってきました。医師に「今日は午前の半休しか取ってないのですが、お昼までに検査は終わるんですか?」と聞いてみたところ、「ちょっと今日の出社は難しいですね。というのも、検査数値は白血病の疑いがかなり高いので、さらに細かく調べる必要があります」と告げられました。当時、夫は単身赴任中で、自分のことよりも「私が長期入院することになったら子どもはどうしよう」と目の前が真っ暗になりました。
注意深い経過観察という名の先の見えない不安を抱えた生活
検査の結果、下された診断名は慢性リンパ性白血病でした。診断時のリスク分類については明確な説明はありませんでしたが、脾臓の腫れや貧血、盗汗、著しい倦怠感などといった自分の症状をインターネットで調べると、おそらく高リスクだったのではないかと思います。
医師からは「治療を始めるタイミングは患者さんの状況次第です。今の生活が維持できているなら、しばらくは様子を見ましょう」と言われました。いわゆる「ウォッチ・アンド・ウェイト(注意深い経過観察)」の期間に入ったのです。このところの疲労感は、加齢や更年期のせいではなく病気が進行していたからだということは明確になりましたが、今後のことを考えると不安しかありませんでした。
子どもが生後6か月の頃から、夫は単身赴任しており、私は小学生の子どもと8年ほど2人暮らしでした。もし自分が入院することになったら、この子の日常を誰が守るのか。それが何よりも大きな不安でした。私は最悪の事態を想定し、自分の実家に預けた場合、子どもの学校はどうなるのかを当時の担任の先生に問い合わせました。また、勤務先の人事担当者から産業医に連携してもらい、会社の療養休暇制度などの説明もしてもらいました。自分の治療のことを調べるよりも、まずは現状の生活を維持するためのシミュレーションに多くの時間を割きました。
そんな中、夫の会社が事情を考慮してくれ、4月から東京の部署に戻れることになりました。子どもが転校せずに済む環境が整い、ようやく腰を据えて治療に専念できると思えるようになりました。
副作用による治療変更、治療は短期戦ではなかった
夫の帰任で少し気が緩んだせいか、2016年4月以降から倦怠感が急激に増すようになってきました。ゴールデンウィーク頃には台所に立って夕飯の準備をすることさえままならず、通勤電車で立っていることも辛くなりました。偶然、目の前の席が空き、座れて安心した瞬間に「ああ、もう限界だ」と悟り、その次の予約外来受診時に、主治医に状況を伝えました。各種検査数値も既に治療開始基準を満たしていたので、病棟と調整のうえ、5月末に大学病院へ入院、6月から治療を開始することになりました。
最初に行われたのは、点滴で抗がん剤を入れる化学療法(FCR)でした。予定通り化学療法は終了したのですが、それによって免疫が極限まで低下した私の体に、新たな敵が襲いかかりました。サイトメガロウイルスへの感染です。血液検査では各種ウィルスの陽性反応が出ない割に熱がなかなか下がらないので、原因を突き止めるためにさまざまな検査を繰り返しました。最終的に大腸内視鏡検査でサイトメガロウイルスへの感染が判明し、抗ウイルス薬を出してもらって熱は治まりました。やっと体調が落ち着いたのは2016年初冬の頃です。そこから、寛解の状況をキープする維持療法として、数週間おきに外来での化学療法(リツキサンを点滴)が開始されました。しかし、この維持療法を開始してからしばらくすると、肝機能数値がじわじわ悪化してきました。半年ほどすると肝機能数値悪化は看過できないレベルに達しました。
肝機能数値悪化の原因を調べてもすぐにはわかりませんでしたが、最終的に、維持療法に使われているリツキサンのアレルギーと判明し、これ以上維持療法は続けられなくなりました。維持療法をストップした2017年秋以降は外来による経過観察を続けていましたが、血液検査結果は徐々に悪化、ついに再発という診断が下されました。もうリツキサンを含む化学療法は使えないので、2019年当時はまだ新しい選択肢だった分子標的薬による治療を開始することになりました。
妹からのギフトとコロナ禍での禍福
分子標的薬のおかげで一時的に状態は安定しましたが、副作用によるむくみや爪の変形に悩まされました。そんな中、主治医から「根本的な治癒を目指すなら、造血幹細胞移植を検討してはどうか」という提案がありました。幸いなことに、2人いる妹のうち1人が、白血球の型(HLA)が完全に一致するフルマッチであることが既にわかっていたからです。ただし、フルマッチだったのは海外在住の妹の方でした。
「親族でフルマッチが見つかるのは、とても幸運なことです」
医師のその言葉は大変ありがたかったですが、移植には高いリスクが伴います。迷っていた私に、主治医のチームから「妹さんが次回来日するタイミングで骨髄採取させてもらい、それを凍結保存しておいて、いざという時のためのお守りにするのはどうか」という提案を受けました。フルマッチの妹も同意してくれ、スケジュール調整の上ドナー提供してもらえたのは2019年秋でした。その半年後にはコロナ禍で海外との往来が断たれたことを考えると、まさに間一髪のタイミングでした。
職場の産業医のサポートもあって何度も療養休暇を取っていましたが、まさにコロナ禍で職場復帰は、感染リスクもあって難しいだろうとあきらめかけていました。しかし、「全員が、慣れない自宅からのリモート勤務になるから、あなたの状況はみんなと変わらないよ」と産業医に励まされたおかげで、幸運にも仕事が続けられました。人事担当者からのバックアップも非常にありがたかったです。
子どもも中学生になるし、自分に万が一のことがあっても大丈夫そうだから、状況によっては骨髄移植をしてもよいかもと考え始めました。そして2022年、ようやくコロナ禍での入院制限がなくなり、自分の体調も含め世の中の状況が落ち着き、満を持して造血幹細胞移植に臨むことになりました。
一難去ってまた一難、GVHDとの闘い中に見つかった新たな病
移植は成功しましたが、さらなる敵が現れます。まず、コロナ禍で夫と子どもの折り合いが非常に悪くなり、2022年末に夫と別居することになりました。そこで精神的に少し落ち着けたのもつかの間、GVHD(移植片対宿主病)が起こり、2023年の春、肝機能数値がかなり急激に悪化してきました。鏡を見ると白目の部分まで黄色くなるくらいの黄疸が出て、肝機能数値は産業医が「生きている人間でこのレベルの数字は見たことがない」と驚くほど、悪化していきました。
このため、私は再び療養休暇を取得せざるを得なくなりました。それまで会社の制度をうまく使いながら、なんとか正社員として続けてこられましたが、ついに産業医から「無理に職場復帰して体調を崩すよりは、療養休暇満了のタイミングで一度退職し、治療に専念する方が良いのでは」とアドバイスされました。勤務先の団体所得補償保険に加入していることも確認した上での産業医からのこの提案は、非常にありがたかったです。2024年1月、療養休暇満了をもって退職となりましたが、別途申請した障害年金もあり、生活を続けられています。
しかし、また新たな敵が現れました。2025年の夏、定期的に受けていたPET検査で、肝臓付近に「もやもやとしてものが映っている」と指摘されたのです。「結節性病変ではないか」という疑いが浮上し、再び消化器内科で診てもらうことになりました。消化器内科でも画像診断専門の先生、消化器担当の外科の先生に順々に診てもらい、最終的に2025年10月、該当箇所を摘出してもらえました。
摘出した腫瘍を病理検査に出した結果、驚くべき事実が判明しました。それは結節性病変ではなく、リンパ腫様肉芽腫症(LYG)という、極めて希少な疾患だったそうです。
闘病生活を支えてくれたのは、子ども、信頼できる医師、周囲の理解
現在は、このLYGの経過観察と、依然として続くGVHDの治療を並行して行っています。免疫を抑えれば白血病の再発リスクが上がり、免疫を上げればGVHDが悪化するという、非常に難しいバランス調整の真っ只中にいます。
気づけば子どもはもう高校生になりました。私が長年病気と闘う姿をそばで見てきたせいか、多くを語らなくても私の状況を理解し、見守ってくれています。
私の歩んできた道は、常に想定外の連続でした。けれど、その都度、信頼できる医師や子ども、そして周囲の理解者たちに助けられてきました。今その日その時を大事にしながら、上手に病気と付き合っていくつもりです。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
これからがん治療を始める方に伝えたいことがあります。
気力・体力があるうちに「生活のシミュレーション」をしてください
がんと診断されると、病気そのもののことばかりを考えてしまいがちですが、実際には「病気と共にどう生きるか」という生活面での課題が次々と押し寄せてきます。仕事の制度、保険の内容、そして家族のサポート体制。これらを自分の体がまだ自由に動けるうちに整理しておくことを強くお勧めします。自分が動けなくなってからでは、面倒な手続きや家族との話し合いは困難を極めます。最低限の環境を確立しておくことが、結果的に自分自身の治療に専念できる余裕を生み出してくれます。
自分の意見を医療スタッフに伝えてください
大学病院などの大きな病院では、いくつもの診療科をまたいで治療を受けることが多く、時には、科によって全く異なる見解を示されることもあります。しかし、医師や看護師に自分の意見や希望を伝えることを諦めないでください。根気強くコミュニケーションを取ることで、若手の熱意ある医師が希望を聞いてくれたり、専門外の視点から解決策が見つかったりすることもあります。あなたの身体のことはあなたにしかわからないのですから、遠慮せず声を上げ続けてください。
仲間との繋がりを心の支えにしてください
希少ながんであったり、治療が長期化したりすると、孤独感にさいなまれることがあります。そんな時は、ぜひ患者会を探してみてください。その際は「がん情報サービス」、「オンコロ」、「キャンサーネットジャパン」といった正しい知識を伝えてくれるサイトから探してみるのがよいと思います。慢性リンパ性白血病は患者数が少ないですが、それでも患者会はあります。私が患者会の存在を知ったのは2023年以降でしたが、まさに今注意深い経過観察の方々にとって少しでも参考になるよう、自体験を極力シェアしようと努力しています。あなたの体験は誰かの希望になり、誰かの言葉があなたの支えになります。一人で頑張りすぎず、知恵を出し合って歩んでいきましょう。