写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:ノリさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:-
仕事:-
がんの種類:骨肉腫
診断時ステージ:不明
診断年:2001年
現在の居住地:静岡県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2001年、右膝の異変から始まったノリさんの闘病生活。当時、小学校に上がる直前の息子を抱えるシングルマザーだった彼女を襲ったのは骨肉腫でした。医師からは「肺や脳に転移すれば、余命半年」と告げられ、一時は足の切断も覚悟する過酷な状況に置かれました。228日間におよぶ長期入院、連日の24時間連続抗がん剤投与、そして18時間を超える大手術。絶望の淵に立たされながらも、彼女を支え続けたのは「息子の成長を最後まで見届けたい」という母としての強い意志でした。診断から25年が経過した今、当時の記憶をたどりながら、標準治療への信頼と命の尊さについてお話しいただきました。
10円玉ほどの腫れから始まった異変
すべては2001年のことでした。右膝に10円玉くらいのポコッとした腫れがあることに気づきました。ほんのり盛り上がっている程度でしたが、押すと少し痛みを感じるような気がしました。半年ほど放置していましたが、友人から「いらないものなら取ってしまったほうがいい」と勧められ、軽い気持ちで近所の病院の整形外科を受診しました。
レントゲン検査では「何も異常は見つかりませんでした」と言われ、痛み止めのロキソニンを処方されただけでした。しかし、1か月経っても違和感が消えません。「脂肪の塊やガングリオンのような良性腫瘍なら切れば治るだろう」と考え、別の外科クリニックを受診しました。
そこで事態は一変しました。先生が注射器で中身を抜こうとしたのですが、何も抜けません。「切ってみよう」と言われ、切開した直後、先生の口から信じられない言葉が飛び出しました。
「これは、骨まで広がっています」
細胞を採取して検査に出した数日後、病院から電話が入りました。「結果が悪かったので、すぐに大きな病院へ行ってください」という緊迫した連絡でした。
「手に負えない」と断られた絶望の果てに
紹介状を持って最初に行った病院に戻りましたが、「うちでは見られない」と断られました。市内の大きな病院へも行きましたが、そこでも「ここでは手に負えません。東京の病院へ行ってください」と告げられたのです。
当時、私には小学校に上がる直前の息子がいました。東京へ入院してしまえば、まだ幼い息子を誰が守るのか。途方に暮れながら病院の帰りに本屋に立ち寄りました。そこで偶然手にとったのが「日本の名医」という本でした。ページをめくると、がんの部位ごとに専門の医師が紹介されており、そこに県内の病院で骨肉腫を専門とする先生の名前を見つけたのです。
その病院は、「何も異常は見つかりませんでした」と言った病院でした。しかし、私は再びその病院を訪ねました。「以前、異常はないと言われましたが、この本に骨肉腫専門の医師がいると書いてあったので来ました」と正直に伝えました。
ようやく出会えた専門医の診断は、非常に厳しいものでした。右膝下の骨の半分までがんが進んでいること、悪性度の高いがんであること、そして「もし肺や脳に転移すれば、余命は半年」という衝撃的な告知でした。
228日間の入院と18時間半の手術
2001年7月16日、私は228日間にわたる長い入院生活に入りました。治療計画は、まず強力な抗がん剤で腫瘍を小さくし、その後に手術を行うというものでした。
抗がん剤治療は想像を絶する過酷さでした。5日間24時間投与を行いました。投与中は、ただベッドで部屋を真っ暗にして横たわるしかありませんでした。食事もできず、目を開けていることすらだるい日々。1回目が終わる頃には、髪の毛がばっさりと抜け落ちたので、自ら坊主にしました。
幸い薬の効きが良く、9月6日に手術が行われることになりました。医師からは「足の切断」の可能性も説明されていました。しかし、看護師だった母が「命が短くなってもいいから、足を残して欲しい」と先生に必死に願い出てくれていたことを、後で知りました。
18時間半におよぶ大手術でした。自分の太ももの筋肉を膝に移植し、骨を削って再建するという極めて難易度の高い手術でしたが、目が覚めたとき、私の右足は残っていました。手術室から出た瞬間、朦朧とする意識の中で母に「足、ついてる?」と確認したのを覚えています。「ついてるよ」という言葉を聞いて、心から安堵しました。
術後もさらに5回の抗がん剤治療が続きました。体力は限界に達し、おにぎりを持つ力も、スプーンを口に運ぶ力もないほど衰弱していましたが、「息子が成人するまでは、せめて高校を卒業するまでは死ねない」という思いだけが私を支えていました。
息子が書いてくれた作文と25年後の日常
入院中、母がときどき息子を連れてお見舞いに来てくれました。車椅子に乗る私を見て、息子は「ママは毛のないクララだね」と無邪気に笑いながら、車椅子を押してくれました。息子には「がん」だとは伝えず、単に「足の手術で入院している」とだけ話していました。
退院後のある日、小学1年生になった息子が学校で書いた作文を目にする機会がありました。「たからもの」という題の作文に、息子は「入院しているママが早く帰ってきてほしい。ママが僕の宝物だ」という趣旨の内容を書いていました。それを読んだとき、言葉が出ませんでした。今でもその作文は大切に保管しています。
退院後もしばらくは再発の恐怖との闘いでした。最初の数か月は毎週のように病院へ通い、肺に転移していないかレントゲン検査を受けていました。被ばくが心配になるほどの頻度でしたが、それだけ転移のリスクが高い状態だったのだと思います。
年月が経つにつれ、通院の間隔は1か月から3か月、半年と延び、いつしかがんに怯える時間は日常の忙しさに上書きされていきました。
足があることの喜びを噛み締めて
診断から25年が経ち、現在は再発もなく元気に過ごしています。右足には大きな手術痕が残り、今も少し足を引きずるように歩いています。急いでいても小走りはできませんし、階段を一段ずつ交互に昇り降りすることも叶いません。しかし、自分の足で歩けること、杖がないとあるけないと言われたけれど杖なしで歩けていること、それはあのとき足を残す選択をしてくれた先生と母のおかげです。
振り返れば、あの過酷な治療を乗り越えられたのは、標準治療を信じて専門医にすべてを委ねたこと、そして何より守るべき存在がいたからでした。かつてのように走ることはできませんが、不自由さと共にある今の生活を、私はとても愛おしく感じています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がんと向き合っている方々に伝えたいことがいくつかあります。
何があっても諦めないでください
どんなに過酷な状況でも、自分自身が生きることを諦めてしまったら、そこですべてが終わってしまいます。医学は日々進歩しています。「絶対に負けない」という強い意志を持って、治療に向き合ってほしいと思います。
標準治療と専門医を信頼してください
私は書籍を通じて専門医を見つけ出し、その先生の提案する治療を信じました。情報が溢れる時代ですが、エビデンスに基づいた標準治療こそが命をつなぐ道だと信じて欲しいと思います。
生きるための「支え」を見つけてください
私にとって、それは幼い息子の存在でした。誰かのため、あるいは何かをやり遂げるため。自分を支える強い目的意識が、副作用や痛みという荒波を乗り越える大きな力になります。
今の自分を受け入れ、感謝することを忘れないでください
治療後に後遺症や不自由が残るかもしれません。それでも、今生きていること、自分の足があることなど、小さな幸せに目を向けてください。失ったものではなく、残ったものに感謝する心が、その後の人生を豊かにしてくれます。