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希少な頭頸部がんとの共生、「病を生きる」のではなく「自分として生きる」という境地

[公開日] 2026.03.03[最終更新日] 2026.02.27

写真はイメージです。(AIによる生成)
プロフィール お名前:水野しづえさん(本名) 年代:70代 性別:女性 家族構成:夫と2人暮らし 仕事:支援サポート、カウンセリング がんの種類:頭頸部がん(腺様囊胞がん) 診断時ステージ:不明 診断年:2023年 現在の居住地:沖縄県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。 15年前、退職を機に暖かさを求めて沖縄県の宮古島に移住し穏やかな日々を過ごしていた水野しづえさんに、予期せぬ診断が下されたのは2023年のことでした。頭頸部がんの中でも希少な腺様囊胞(せんようのうほう)がんでした。離島という地理的な制約、再発、そして手術の後遺症。次々と訪れる困難を、水野さんは「病を生きているわけではない」という独自の死生観で受け止めてきました。あるがままを受け入れる、自分らしい生き方についてお話しいただきました。

「あずき大のしこり」から始まったがんとの生活

すべての始まりは、数年前から右顎のあたりに感じていた、あずき大ほどの小さなグリグリとしたしこりでした。痛みもなく、当初はさほど気にしていませんでしたが、2023年になって急にそのしこりが大きくなったように感じました。「これは一度診てもらったほうがいいかもしれない」と思い、近所の耳鼻科を受診したのがきっかけでした。 耳鼻科の医師はしこりに触れるなり、「すぐに大きな病院へ行ってください」と、地元の総合病院への紹介状を書いてくれました。その総合病院の医師からは、「おそらく良性だとは思いますが、放っておいていいことはありません。沖縄本島にある大学病院を受診してください」と告げられたのです。 宮古島から沖縄本島へ。飛行機を乗り継いで向かった大学病院で、細胞を採取して調べる「細胞診」を受けました。その結果、顎下腺(がっかせん)原発の「腺様囊胞がん」であるという診断が下りました。

「なぜ、がんはこの部位を選んで発生したのか」という問い

がんであると告げられた時、私は不思議と動揺しませんでした。70代という年齢もあり、「ああ、そういう時期が来たのか」という落ち着いた印象のほうが強かったのです。ただ、一点だけ深く考えたことがありました。それは「なぜ私のがんは、胃がんや乳がんではなく、この頭頸部という場所を選んだのだろう」ということです。 以前から、思想家・哲学者シュタイナーの考えに触れていたこともあり、病気は自分の内面や身体の偏りが具体物として現れたものではないかという認識がありました。だからこそ、がんを単なる「排除すべき嫌なもの」として捉えるのではなく、自分の一部として納得して受け止めることができたのかもしれません。 主治医からは「手術か、放射線治療か」という2択を提案されました。セカンドオピニオン先の医師は、「ほかにも治療可能な方法がないわけではありませんが、患者への負担やリスクを考えると放射線治療で緩和するのが現状では妥当だと思います」と言われていました。私は、手術を選択し、2023年、顎の下を約10cm切開する最初の手術を受けました。

離島住まいゆえの困難と、医師との温度差

最初の手術を終えた後、主治医からは放射線治療を勧められました。しかし、私はこの提案を保留にしました。ベルトコンベアに乗せられるように治療が進んでいくことに、強い抵抗感があったからです。 「自分の選択」が介在しないまま進められる治療提案に対して、私は納得がいきませんでした。主治医には「熟した柿の実がポトンと落ちるように死んでいきたい」と自分の理想を伝えましたが、その医師からは「沖縄には柿の木もなければ、熟した柿の実が落ちたところは見たことがないので、その例えはわかりません」と突き放されてしまいました。提案された術後の放射線治療は、確かに効果が期待できるのかもしれません。しかし、病気には個別性があり、自分にとってその治療がどういう意味を持つのか。それを大切にしたかった私と、主治医の考えには、埋められない溝がありました。 また、離島に住んでいることによる医療格差も、身をもって実感することとなりました。精密な検査や治療のたびに、宮古島から本島へ飛行機で通わなければなりません。移動費、宿泊費、そして時間の負担。行政の補助があるとはいえ上限があり、大きな病気を抱えて離島で暮らすことの厳しさを痛感しました。

1年後の転移、そして1か月半の入院生活

2024年、最初の手術から1年が経過した定期検査のCTで、耳の下にある「耳下腺(じかせん)」への転移が見つかりました。再手術は避けられない状況でした。 2回目の手術は、最初の手術痕をさらに広げる形で約18cmにわたって切開が行われました。がんが神経やリンパ節にまで食い込んでいたため、やむを得ず神経の一部を切断することになりました。その結果、術後は右手が上がりにくくなり、舌の動きが制限されるため、話しづらさや口の乾きといった後遺症が残りました。 この時ばかりは、私も「今回は仕方ないか」と覚悟を決め、主治医の勧めに従って放射線治療を受けることにしました。 宮古島に放射線治療を受けられる施設があれば、通院でも可能な治療ですが、本島まで飛行機で通うわけにもいかず、かといって病院の近くには適当な宿泊施設もありませんでした。そのため、1か月半、計33回の照射を受けるための入院生活が始まりました。 放射線の照射時間はわずか4分ほどです。それ以外の23時間56分を、外出もままならない病院の中で過ごすのは、私のような性分には非常に退屈な時間でした。思想系や心理系の専門書を読んだり、パソコンで韓流ドラマを見て過ごすのが唯一の楽しみでしたが、もっと患者が時間を有効に使えるような設備があればいいのに、と病院に提案したほどです。

「病を生きる」のではなく「自分を生きる」

現在は手術と放射線治療を終え、3か月に1度、本島へ通いながら経過を観察しています。右手の不自由さや喋りづらさは残っていますが、日常生活に支障はありません。毎日3食を作り、洗濯をし、ごく普通の暮らしを営んでいます。 がんを経験し、転移も経験しましたが、不思議と将来への不安はありません。心配して状況が良くなるのであればいくらでも心配しますが、そうではありません。今の自分をまるごと受け入れ、あるがままに生きる。その覚悟ができていれば、病気に心を支配されることはないのです。 私は長年、福祉や支援の仕事に携わってきました。現在は、生きづらさを抱える若い方々のカウンセリングやサポートを細々と続けています。喋りづらいなど多少の不自由があっても、誰かの支えになれる。この活動を自分なりの形として完成させ、より質の高いサービスとして提供していきたいと考えており、今の私の大きな楽しみでもあります。 がんは私の人生の一部ではありますが、すべてではありません。不自由な部分も含めて、これが今の私なのだと笑って過ごせる毎日を、これからも大切にしていきたいと思っています。

これからがんと向き合う方へのメッセージ

今がんと向き合っている方に私の経験から伝えたいことがあります。 「自分がどう生きたいか」を考えてください がんと診断されると、生活のすべてが病気中心になってしまいがちです。しかし、私たちは「病気を生きている」のではありません。病気はあくまで自分の一部。自分がどう生きたいか、何を大切にしたいかを常に中心に置いてください。 納得感を大切にしてください 医師から提示される治療方針に違和感がある時は、立ち止まってもいいのです。自分の価値観とどう折り合いをつけるか、納得いくまで考えることは、その後の療養生活において大きな力になります。そのために、セカンドオピニオンも有用な手段のひとつです。ただし、同レベルの病院ではなく、よりランクの高い医療機関の意見を聞いてみてください。 「あるがままを引き受ける」気持ちの余裕を持ってください 病を得るということは、それを受け止める「器」が自分に備わったということかもしれません。必要以上にがんに圧倒されず、不自由さも含めて「今の自分」として引き受けていく。そんなしなやかな強さを持って、日々の小さな楽しみを見つけてほしいと思います。
体験談 頭頸部がん

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