写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:大島直也さん(本名)
年代:40代
性別:男性
家族構成:妻と子ども3人との5人暮らし
仕事:自営業(鍼灸師)
がんの種類:肺がん
診断時ステージ:ステージ4B
診断年:2023年
現在の居住地:愛知県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2023年、鍼灸師として多忙な日々を送っていた大島直也さんを襲ったのは、止まることのない咳でした。複数のクリニックを転々としながらも原因が特定できず、不安の中で月日が流れます。最終的に大学病院で下された診断は、肺がんのステージ4B。すでに全身に転移が広がっているという過酷な現実でした。3人の幼い子どもたちを抱え、一家の柱として大島さんは、がんと向き合っています。診断までの迷走、仕事への信念、そして家族との絆についてお話しいただきました。
止まらない咳から始まった、半年に及ぶ肺がん診断までの迷走
私の闘病は、2023年の初め頃に始まった小さく、しかししつこい咳からでした。その時期は新型コロナウイルスやインフルエンザが流行しており、さらに花粉症などのアレルギー症状も疑われる時期でした。最初は「ただの風邪だろう」と軽く考えていましたが、咳は一向に治まりません。近所のクリニックをいくつか回りましたが、どこへ行っても明確な答えは得られませんでした。
PCR検査やインフルエンザの検査はすべて陰性。血液検査でアレルギー反応を調べても異常なし。レントゲンを撮っても「異常は認められません」と言われるばかりでした。処方された抗生物質や咳止めを飲み続けましたが、症状は良くなるどころか、次第に悪化していきました。声がかすれ、いわゆる「嗄声(しゃがれ声)」の状態になり、さらには食事の際に激しくむせる誤嚥のような症状まで出始めたのです。
ようやく事態が動き出したのは、耳鼻咽喉科を受診したときでした。喉頭ファイバースコープで喉の奥を確認した医師から「声帯が半分、動いていません」と告げられました。診断名は「反回神経麻痺」。この麻痺が起きるということは、神経を圧迫している別の疾患がどこかに隠れていることを意味します。すぐに紹介状を書いてもらい、大学病院へと向かいました。
大学病院での検査は迅速かつ広範囲に及びました。血液検査、胸部CT、X線、そして確実な診断を得るための生検。その結果、ようやく判明したのが「肺がん」でした。それも、原発である肺だけでなく、首のリンパ節、脳、副腎、さらに骨盤にまで転移が広がっているステージ4Bという状態でした。最初の咳が出てから、すでに半年が経過していました。
がん告知の衝撃と専門用語という壁
肺がんであることがわかった際、組織検査の結果、私には「ALK融合遺伝子」という遺伝子の変化があることがわかりました。進行がんで手術は不可能な状態でしたが、この遺伝子変化に合わせた分子標的薬による治療が可能であるという説明を受けました。
主治医からは、現在のステージの状態や、これから使用する薬剤について、専門用語を交えた詳細な説明がありました。しかし、告知を受けたばかりの衝撃の中にいた私にとって、その言葉の半分も理解できていたかどうか怪しいものです。「ALK融合遺伝子」や「分子標的薬」といった言葉が何を意味するのか、自分の体の中で何が起きているのか。頭の中は靄がかかったようで、記憶も曖昧でした。
そんな私を助けてくれたのは、以前から関わりのあった地元の患者支援団体でした。私は鍼灸師という仕事柄、訪問鍼灸でがん患者さんと接する機会が多く、「もっと患者さんのことを知りたい」という思いから、診断前からその団体の活動に参加していたのです。
思いがけず、今度は自分が助けられる側になりました。患者仲間の皆さんに、「ネットで調べるならこのサイトがいいよ」「こんな患者会があるよ」といった具体的な情報を教えていただきました。医療従事者からの説明だけでは埋まらない「患者としての視点」を、仲間のアドバイスによって補うことができたのです。
妻への報告と子どもたちへの伝え方
診断を受けた際、告知の場に妻は同席していませんでした。1人で重い事実を背負って帰宅し、妻に伝えたときのことは忘れられません。妻の反応は意外なものでした。妻はどこか覚悟を決めたような、落ち着いた表情で受け止めてくれたのです。その冷静さに、私の方が救われたような気がしました。
問題は子どもたちへの伝え方でした。12歳の長男、6歳の次男、3歳の長女。まだ幼い彼らに、父親が重い病気であることをどう伝えるべきか。ここでも、支援団体の存在が大きな助けとなりました。私は以前から長男を団体の交流会に連れて行ったことがあったのです。
図書館などで定期的に開催されていたその会には、がん患者さんだけでなく、医師やケースワーカー、そして多くの家族が集まっていました。そこで明るく、力強く生きる患者さんたちの姿を目の当たりにしていた長男にとって、「がん」という病気は、得体の知れない死の象徴ではありませんでした。
長男には少し落ち着いてから、「以前、会で見ていたような、あのがんという病気に、お父さんもなったんだよ」と伝えました。彼はしっかりと私の言葉を受け止めてくれました。次男にはもう少し時間をかけてから話し、一番下の娘には、まだ状況の理解が難しいだろうということで、現時点ではあえて明確な病名は伝えていません。しかし、無理に隠すこともしません。毎日家で薬を飲み、定期的に病院へ行く私の姿を見せながら、それが当たり前の日常として流れるようにしています。
鍼灸師としての仕事と治療をどのように両立させるか
私は自営業の鍼灸師です。自分が働かなければ収入は途絶えます。告知を受けた当初、真っ先に頭をよぎったのは経済的な不安でした。一家を支える責任、そしてこれからかかる莫大な治療費。その不安を打ち消してくれたのも妻でした。妻は「お金のことは私がなんとかするから、心配しなくていいよ」と言ってくれたのです。
妻は、パートタイムで働いていましたが、私の状況を受けて、さらに仕事量を増やして支えると申し出てくれました。その言葉にどれほど救われたかわかりません。しかし、私は仕事を辞めるつもりはありませんでした。もちろん収入のためという側面もありますが、それ以上に「鍼灸師として働き続けること」が、私自身の生きる活力になっていたからです。
最初の分子標的薬を服用していた時期は、幸いにも目立った副作用がなく、仕事への影響も最小限で済みました。しかし、約1年後に薬剤耐性が現れ、薬を変更せざるを得なくなりました。2つ目の薬剤では下痢などの副作用に悩まされました。訪問鍼灸で患者さんの家を回る仕事ですから、途中で体調を崩すわけにはいきません。事前に訪問ルート上のトイレの場所をすべて把握しておくなど、細心の注意を払って仕事を継続しました。
さらに、脳への転移に対して放射線治療を行った際、私は大きな決断を迫られました。放射線治療を受けることで、以前のように車の運転をすることができなくなったのです。車での移動が不可欠だった訪問鍼灸において、これは致命的とも言える変化でした。しかし、私は迷わず「仕事を続けるために、運転を諦める」ことを選びました。
現在は、重い荷物を持って公共交通機関を乗り継ぎ、患者さんのもとへ通っています。以前に比べれば体力的な負担は増え、こなせる仕事量も減りました。収入も減少しましたが、それでも「誰かの役に立っている」という実感が、がんという病を一時的に忘れさせてくれるのです。
3つ目の分子標的薬に変更、薬が効いている時間の大切さ
がんとの闘いは、決して平坦なものではありません。2つ目の分子標的薬もやがて効果が薄れ、リンパ節などの転移巣が悪化しました。
次に提案された3つ目の分子標的薬には、中枢神経への影響という副作用のリスクがありました。仕事を続けたい私にとって、それは非常に大きな懸念事項でした。主治医と何度も話し合い、一度は別の抗がん剤を試しましたが、効果が見られず腫瘍が増大。ついに意を決して、現在の3つ目の分子標的薬に切り替えました。
幸いなことに、心配していた深刻な副作用は今のところ現れていません。腫瘍も緩やかではありますが縮小傾向にあります。この「薬が効いている時間」がいかに貴重であるか、私は身をもって知っています。いつかまた耐性ができる日が来るかもしれないという不安は常に隣り合わせですが、今は目の前の動ける時間を精一杯生きることに集中しています。
バスケットボールへの復帰という希望
病気になる前、私の生活の一部だったのがバスケットボールでした。しかし、診断当時は息切れがひどく、肺静脈に血栓ができたり心膜に水が溜まるなど、運動ができるような状態ではありませんでした。何より、「ステージ4B」という言葉が、私からスポーツを楽しむ心を奪っていました。
しかし、治療を続け、体調が安定してくるにつれ、少しずつ「またコートに立ちたい」という欲求が芽生えてきました。主治医に相談したところ、無理のない範囲であればという条件で許可が出たのです。
先日、ずっと一緒にプレーしてきたチームの仲間たちに復帰の意思を伝えました。彼らは私ががんであることを知った際、私以上にショックを受け、言葉を失っていました。しかし、私が戻りたいと言うと、皆が手放しで喜んでくれました。私がいない間も、彼らはいつでも戻ってこられるような雰囲気を作って待っていてくれたのです。
「また集まろうぜ」という仲間の言葉が、今の私にとっての大きな目標です。競技として激しくプレーすることは難しいかもしれませんが、再び仲間とボールを追いかけられる日が来ることが、何よりの希望となっています。
「日常の中にがんがある」ということを受け止め今を生きる
がんと診断されてから、2年半が経ちました。病気になったことで、諦めたことも、失ったものも少なくありません。しかし、それ以上に得たものもあります。家族の深い愛情、仲間の温かさ、そして一日一日を丁寧に生きることの尊さです。
私の病気は、完治を目指すのが難しい段階にあります。しかし、だからといって人生を諦める理由にはなりません。「日常の中にがんがある」という状態を、いかに自分らしく、穏やかに過ごしていくか。それが今の私のテーマです。
子どもたちの成長を少しでも長く見守り、妻への感謝を形にし、そして鍼灸師として1人でも多くの患者さんの苦痛を和らげたい。そのために、私はこれからもがんと共に歩んでいきます。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
がんという告知を受けた直後は、誰しもが冷静ではいられません。まずは自分の今の状況を、ご自身が納得できるまで、無理に受け入れようとせずに過ごしてほしいと思います。
焦らずに今の自分の状態を受け止めてください
すぐに前を向く必要はありません。悲しいときは悲しみ、不安なときはその不安を誰かに話してください。心が少しずつ落ち着いてきてから、これからのことを考えても決して遅くはありません。
子どもとの向き合い方は、その子に合わせてください
お子さんの年齢や性格によって、伝え方は千差万別です。大切なのは隠し通すことではなく、今の状況を「共有」することだと思います。日常の中で自然に病気と向き合う姿を見せることで、子どもたちなりに理解し支えてくれるようになります。
「大丈夫」というメッセージを届けてください
家族、特に子どもに対しては「お父さんは病気だけど、君たちのことは変わらず愛しているし、心配ないよ」というメッセージを、言葉や態度で伝え続けてあげてください。それが家族の安心につながります。
1人で抱えこまず、周囲の人に頼ってください
1人で抱え込まず、患者会や支援団体、そして医療従事者に積極的に相談してください。同じ境遇の仲間の言葉は、時にどんな薬よりも心を癒やし、前へ進む勇気をくれます。