写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:夏珠巳さん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:1人暮らし
仕事:事務員
がんの種類:乳がん
診断時ステージ:ステージ2
診断年:2005年
現在の居住地:大阪府(診断時は奈良県)
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2005年、30代で乳がんと診断された夏珠巳さん。当時は「がんと就労の両立」への理解が進んでおらず、がん告知直後から職場での激しい退職勧告という、病気そのもの以上に過酷な現実に直面しました。副作用に苦しみながら「いつ辞めるのか」と迫られる日々。夏珠巳さんはその理不尽な経験を糧に、自ら法律や制度を学び、再建手術を経て新たなキャリアを切り拓きました。診断から約20年、社会の変化を見つめてきた歩みをお話しいただきました。
「ただのゴミか何かだと思った」乳頭からの不正出血
2005年、当時私は奈良県で実家暮らしをしており、会社の経理事務として働いていました。体に異変を感じたのは、左乳頭からの不正出血でした。最初は下着に何かが付着している程度で、「ゴミか何かかな」と気にも留めていませんでした。しかし、1か月に1回程度だったものが次第に頻度を増し、量も増えていきました。
不安を感じてマンモグラフィ検査を受けました。検査で胸を圧迫した際、かなりの出血があり驚きましたが、その時の読影結果は「異常なし」。乳がん関連の専門医ではない医師の診断でしたが信じるしかなく、私はそのまま1年近く、不正出血を抱えたまま過ごすことになりました。
しかし、状況は悪化する一方でした。「やはり何かがおかしい」と確信し、産婦人科の門を叩きましたが、「乳腺はうちの専門ではない」と断られました。当時はまだ「乳腺科」という名称も一般的ではなく、外科の先生が片手間に乳がんの手術を行っているような時代でした。ようやく、乳腺の専門資格を持つ先生が総合病院で乳腺外来を始めたという情報を掴み、そこにたどり着いたときには、最初の異変から長い月日が流れていました。
その病院で受けた超音波(エコー)検査と生検の結果、下された診断は乳がんでした。その時は「やっぱりかぁ~」と思ったことを覚えています。
乳房温存手術で終わったと思ったのに全摘に
診断後、1週間後の乳房温存手術を提案されましたが、「そんなに急がなきゃいけないの?」という感じでした。しかし、仕事の調整もあったため、少し時間を調整して手術を受けました。当初は「乳房温存手術」で済む予定でしたが、手術後に切除した断面を調べたところ、断端陽性(切除面にがん細胞が認められる)が判明しました。
「もう一度全摘手術をする必要があります」
そう言われて、乳房温存手術からわずか2週間後、私は再び手術台に上り、左乳房を全摘しました。初回の手術時にセンチネルリンパ節生検でリンパ節への転移が見つかっていたため、すぐに抗がん剤による治療が開始されました。
労働基準監督署、弁護士……誰にも助けてもらえなかった時代
病状の深刻さ以上に私を打ちのめしたのは、職場の対応でした。2度の手術、そして半年間に及ぶ抗がん剤治療が必要だと会社に報告した瞬間、それまで良好だった関係は一変しました。経営陣からは「経理というお金を扱う責任ある仕事で、いつ死ぬかわからないような人間を雇っておく義務はない」「いつ辞めてくれるのか」と、毎日のように退職を迫られるようになったのです。
当時、私は30代前半。治療費を払うための貯金も十分ではなく、仕事を辞めることは治療の断念に直結しました。会社側の態度は執拗で、仕事を取り上げられるなどの嫌がらせも始まりました。私は精神的に追い詰められ、パニック障害を発症しました。抗がん剤の副作用による激しい吐き気やめまいに耐えながら、電車に乗り「今日休んだらクビになる」という恐怖の中で、必死にデスクにしがみつく日々が続きました。
私は藁をも掴む思いで、労働基準監督署や弁護士会が行っていた無料相談へと向かいました。しかし、20年前の日本には「パワーハラスメント」という概念さえ浸透していませんでした。労働基準監督署では、「相談に来たという記録は残せますが、行政として会社に指導はできません」と言われ、弁護士からは、「裁判をするなら手伝いますが、そんな気力がないなら早く辞めて楽になりなさい」と言われました。専門家から返ってきたのは、そんな冷ややかなアドバイスばかりでした。
「社会のどこにも、私の味方はいない」そう痛感した私は、独学で労働契約法や社会保障制度を学び始めました。自分が無知であれば、病気という弱みに付け込まれ、権利さえ奪われてしまう。その悔しさが、私の新しい原動力となりました。
主治医からは「胸の再建は術後3年経って状態が落ち着いてから考えなさい。その間に、自分が納得できる再建術を勉強して病院を探してきなさい」と言われていました。私はその言葉を「希望」として握りしめ、3年間の地獄のような勤務を耐え抜きました。そして、大阪の病院で当時、インプラント再建が保険適用されるかどうかの段階(治験)にあり、その貴重な公的枠を自力で見つけ出したとき、私はようやく会社に辞表を出すことができたのです。
法律事務所への転職と、再発という試練
会社を辞めた私は、自らの経験から「法律が生きている場所の近くで働きたい」という強い思いを抱き、大阪の法律事務所へ事務職として転職しました。再出発にあたり、私はがんの経験をあえて伏せました。「がん経験者はリスクだ」という偏見がまだ根強い時代だったからです。
しかし、再出発から数年後、再び試練が訪れます。全摘の際に残していた左側の乳頭付近に「パジェット病」という新たながんが見つかったのです。再建手術までして手に入れた胸でしたが、医師からは「インプラントも切除する必要がある」と告げられました。
乳房温存手術、全摘手術、再建手術と度重なる手術のため、皮膚は硬くなり、再度の再建は困難だと言われ、私は胸を失ったまま生きることを受け入れました。しかし、以前と違ったのは職場の環境でした。法律のプロである今の職場は、私の状況を真摯に受け止め、休暇と復職を温かく支えてくれたのです。20年前、暗闇の中で1人震えていた私に、「環境が変われば、病気を抱えても働き続けられる」ということを教えてくれました。
孤独を解き放つ「夜のご飯会」
診断から約20年。現在私は50代になり、大阪で1人暮らしをしています。長時間の電車移動が難しいなどの制約はありますが、今の自分にできる「恩返し」を始めています。
それが、「がん患者の夜のご飯会」です。働きながら治療をしているがん患者さんが、平日の仕事帰りに立ち寄り、温かいご飯を食べながら職場の愚痴や悩みをこぼせる集まりです。コロナ禍前に、古民家で開催していましたが、コロナ禍で中断。昨年(2025年)ようやく、大阪のビジネス街・北浜で再開しました。
かつての私がそうだったように、告知を受けて「周囲に迷惑をかけるから」と、誰にも相談できずに仕事を辞めてしまう人がいます。でも、どうか1人で決めないでほしいと思います。私が身につけた知識や、20年かけて見てきた社会の変化を、今苦しんでいる人たちに手渡したい。その思いが、今の私の生きがいです。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今がんと闘っている方、特に働きながら治療を続けている方に私の経験から伝えたいことがあります。
「3つのハナス(話す・放す・離す)」を実践してください
心の中に溜まった思いを誰かに言葉で「話す」。抱え込んだ悩みを自分から外へ「放す」。そして、今置かれている過酷な状況から一歩離れて自分を「離す(俯瞰する)」。この3つを行う場所を見つけてください。
感情的にならず、知識という武器を持ってください
理不尽な対応を受けたとき、ただ泣き寝入りするのではなく、がん対策基本法や社内規定、社会保障制度を調べてみてください。知識はあなたの心を守る強力な盾になります。会社と交渉する際は、冷静に自分の権利を知ることが大切です。
自分の気持ちを「可視化」して整理しましょう
不安でパニックになりそうなときは、今思っていることをノートに書き出してみてください。文字にすることで、自分の状況を客観的に見られるようになり、主治医や相談員へ正確に思いを伝える助けになります。
「辞める」決断の前に、深呼吸をしてください
告知直後は誰しもパニックになりますが、治療には継続的な収入が必要です。制度は20年前より確実に進化しています。まずは、信頼できる職場の友人、人事部、産業医など職場で味方を見つけ、相談や連携を考えてください。そのうえで、活用できる制度がないかを探し、冷静に今後のプランを考えられるようになるまで、退職届を出すのは待ってください。