写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:るうさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:夫と2人暮らし
仕事:ミュージシャン
がんの種類:乳がん
診断時ステージ:2A
診断年:2015年
現在の居住地:千葉県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2015年に乳がんと診断されたるうさん。当初はステージ2Aでしたが、3年後に肺への転移が判明し、ステージ4として余命半年の宣告を受けました。しかし、彼女はそこで立ち止まることはありませんでした。持病である自己免疫疾患を抱え、抗がん剤治療が困難という制約の中で、自ら納得できる医師と治療法を諦めることなく探し求めてきました。現在、るうさんは車椅子での生活を余儀なくされながらも、バンドのボーカルとしてステージに立ち続けています。幾度もの転移と手術、医師との衝突、そして死を見据えた準備を経てなお、彼女がなぜこれほどまでに前を向けるのか。その歩みをお話しいただきました。
「いつものしこり」に潜んでいた乳がんの影
2015年のことでした。右胸にしこりがあることに気づきましたが、私には焦りはありませんでした。もともと嚢胞ができやすい体質で、これまでも似たような経験があったからです。「またいつものだろう」と思い、2か月後に予定されていた乳がん検診で見てもらえばいいと、普段通りの生活を送っていました。
しかし、その検診が私の人生を一変させました。再検査を経て、地元の総合病院で下された診断は乳がんのステージ2A、ホルモン受容体陽性のルミナールAというタイプでした。私はもともと関節リウマチという持病を抱えており、長年その病院に通っていたため、持病の管理を含めて信頼できる環境で治療を始められることに安堵していました。
右乳房の全摘手術を受け、リンパ節転移もなかったため、術後はホルモン療法を継続しました。このときはまだ、がんという病をどこか「10年ほど耐えれば終わるもの」と捉えていました。しかし、がんは静かに、そして確実に私の身体を蝕んでいました。
余命半年宣告と、忘れられない医師の言葉
異変が起きたのは術後3年が経過した2018年でした。私は腫瘍マーカーに反応が出ない体質だったため、画像診断を重視していました。ある日の検査で、肺に大きな影が見つかりました。「肺転移です。余命は半年くらいかな」。主治医は淡々と宣告しました。
さらに追い打ちをかけたのが、その医師の態度でした。「転移したがんはどこへ転移しても乳がんだから、手術をしても無駄です」と突き放されたのです。私は納得がいかず、自ら調べた「転移巣切除」の可能性を必死に訴えました。しかし、返ってきたのは「私が初期の手術をしたわけでもないし、転移巣を切除するような手術はできません」という冷ややかな言葉でした。この医師は、最初に手術をしてくれた医師ではなく2人目の主治医でした。
私は猛烈に怒りを感じ、同時に「この人に命を預けることはできない」と確信しました。病院の事務の方やがん認定看護師さんに相談し、主治医を変えてもらうようにお願いしました。次の診察時に、長年私を担当してくれているがん認定看護師さんが立ち会ってくれたことで、医師の対応に問題があることが認められ、主治医を交代してもらうことができました。
薬が使えないという絶望的な制約
肺転移巣の切除手術は、同じ病院の呼吸器外科の医師が行ってくれました。摘出した組織を調べると、がんの性質が「トリプルネガティブ」に変化していることがわかりました。
トリプルネガティブ乳がんとして行った抗がん剤治療後、重篤な副作用である間質性肺炎を発症してしまいました。私は過去に関節リウマチの治療薬メトレキサートでも肺を痛めた経験があり、医師からは「持病の影響もあり、これ以上の抗がん剤は、がんよりも先に間質性肺炎で命を落とすことになる可能性があるので、抗がん剤治療の継続は難しいと思います」と言われました。このことは、乳がんと闘うための武器をすべて奪われたような感覚でした。
さらに卵巣への転移も見つかりました。「薬が使えない以上、物理的に取り除くしかない」そう決意した私は、手術してくれる医師を見つけようと思いました。また、余命宣告も受けていた私は、右胸がないまま死にたくないという思いで、再建手術をしたいと考えていました。そのため、卵巣への転移切除と同時に、お腹の自家組織を使った再建手術ができる病院を探しました。しかし、関節リウマチのほかシェーグレンなどの自己免疫疾患の治療のため、ステロイド投与歴があり、さらに間質性肺炎のリスクを抱える私を引き受けてくれる病院は、簡単には見つかりませんでした。
私は全国の病院にメールを送り、実績を調べ、ようやく1人の形成外科医にたどり着きました。その先生は「全身の血管の状態を専門の病院で詳しく調べてきてください。血管の状態に問題がなければ再建手術をしましょう」と言ってくださいました。血管がボロボロだったら諦めるしかない……。祈るような気持ちで受けた検査の結果、奇跡的に私の血管はまだ健康な状態を保っていました。こうして2020年、私は卵巣摘出と自家組織による乳房再建を同時に完遂したのです。
死を見据えて交わした「献体」の約束
肺への転移で「余命半年」と言われたとき、夫と私はある大きな決断をしました。それは、大学病院への「献体」の申し込みです。
私には子どもがおらず、夫も母一人子一人の環境でした。もし私がいなくなった後、夫に何かあれば、誰も弔う人がいなくなるかもしれない。それならば、医学の発展のために身体を捧げ、大学病院に供養を委ねることが、私たち夫婦にとって最も安心できる「終わりの準備」だと思ったのです。
不謹慎に聞こえるかもしれませんが、この準備をしたことで、私たちは逆に死への恐怖から解放されました。死後の心配をクリアしたことで、残された時間をいかに「生き切るか」に集中できるようになったのです。夫は家事が得意ではありませんが、私の治療費を稼ぐために必死に働いてくれています。小学校時代からの親友は、体調が悪いときの病院への送迎をずっと支えてくれています。周りの人々に恵まれていることこそが、私の財産です。
ミュージシャンとしてステージへ
現在の私は、乳がん、関節リウマチ、シェーグレン症候群に加え、神経の難病である重症筋無力症も抱えています。日常的には車椅子が欠かせず、同じ動作を長く続けることも困難です。
それでも、私はバンドのボーカルとして歌い続けています。バンドの仲間たちは、私の病気に過剰に触れることはありません。不便があればさりげなく助けてくれ、それ以外は1人のミュージシャンとして接してくれます。いくつもの難病を抱え、乳がんで転移もあるのに、生きている私を見て「死ぬ死ぬ詐欺だね」と笑い合えるような、変わらない関係が何よりの救いです。
かつて私を突き放した主治医に代わり、今は緩和ケアも担当する素晴らしい医師が主治医として私のことを診てくれています。その医師は、私の主体性を尊重してくれます。薬が使えないのなら、別の道を探せばいい。そう思わせてくれる環境に、今は身を置いています。
メンタルこそが、最期の瞬間まで私を支える
先日、10年来の友人が亡くなりました。彼女も乳がんのステージ4で、肝臓や脳への転移、腹水に苦しみながらも、死の3日前までカフェに行って私と遊んでいました。彼女のSNSのハンドルネームには「日に日に元気になっている」という言葉が添えられていました。
彼女は最後まで悲劇の主人公になりませんでした。その姿を見て、私は確信しました。ステージ4という診断は、決して「今すぐ死ぬ」ことを意味するのではないのだと。
私は今、遠い将来の目標は持っていません。その代わり、「来週のあの映画を見に行く」「今月あるライブに行く」といった、手の届く小さな目標を常に作り続けています。その小さな「楽しいこと」を積み重ねてきた結果が、余命宣告から数えた8年という歳月になりました。
病気は身体を不自由にするかもしれませんが、心までは支配できません。自分のやりたいことを諦めない。メンタルを高く保ち、前を向いて歩き続けることこそが、私にとっての最強の治療なのです。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今がんと向き合っている方、特にステージ4と診断された方に、私の経験から伝えたいことがあります。
セカンドオピニオン・サードオピニオンを躊躇しないでください
1人の医師の言葉がすべてではありません。納得できるまで、色々な医師の意見を聞いてください。
悲劇の主人公にならないでください
「自分は可哀想だ」と思った瞬間、病状は悪化すると私は思っています。メンタルを上げることが、どんな薬よりも効果的だと思います。どんな状況でも笑い飛ばせるくらいの強さを持って、日々の生活を楽しんでください。
小さな目標を絶やさないでください
1年後のことは考えず、まずは来週、再来週の楽しい予定をカレンダーに書き込んでみてください。その予定をクリアしていくうちに、いつの間にか時間は積み重なっていきます。
医療従事者の「人」を見てください
主治医との相性は命に関わります。もし今の先生に疑問を感じたら、病院の相談窓口や看護師さんなど、自分が信頼できる人に相談してください。自分を「1人の人間」として見てくれる人を探すことは、決してわがままではありません。