写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:ミケさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:夫との2人暮らし
仕事:会社員(フルタイムから週3日勤務へ)
がんの種類:子宮体がん
診断時ステージ:ステージ2
診断年:2020年
現在の居住地:東京都
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2020年、世界が新型コロナウイルスの流行に直面していたさなか、ミケさんは人生の大きな転換期を迎えていました。きっかけは、人間ドックで受けた子宮頸がん検査でした。担当医から「一度子宮体がんの検査も受けたほうがいい」と助言を受けたミケさん。近所の婦人科クリニックを受診しようと考えていた矢先、身体を襲ったのは予期せぬ多量出血でした。それが、彼女のがんと向き合う日々の幕開けとなったのです。仕事、家庭、そして自分自身の身体。激しい痛みや社会的な壁に直面しながらも、常に自らの意思で道を選び取ってきたミケさんの歩みをお話しいただきました。
突然の異変と、突きつけられた現実
2020年の初め、私は人間ドックを受けました。その際、子宮頸がん検査を担当した医師から「年齢的なことも考えて、一度、子宮体がんの検査も受けておいた方がいいですよ」とアドバイスをいただいたのです。
その言葉をきっかけに、「近所の婦人科クリニックへ行ってみよう」と準備を進めていた矢先のことでした。自分でも驚くほどの多量出血に見舞われたのです。まるで身体が悲鳴を上げたかのような状況に、慌ててクリニックを受診し、精密検査を受けることになりました。
検査の結果、医師から告げられたのは「がん細胞が見つかった」という言葉でした。そのクリニックでは詳細な検査や治療が難しいとのことで、すぐに大きな病院への転院を勧められ、私は予期せぬ現実と向き合うことになったのです。
私は、過去に別件で受診した際の信頼感や通いやすさを考慮し、ある総合病院を選びました。そこでの画像検査を経て出された診断は「子宮体がん、ステージ2」というものでした。医師からは、手術をしてその後の病理検査の結果次第で、正確なステージが決まると説明を受けました。
告知を受けたとき、不思議と大きな動揺はありませんでした。転院を決めた時点で、自分の状況がかなり厳しいであろうことは覚悟していたからです。医師からは手術で子宮を全摘出し、リンパ節の郭清も行うこと、そして術後に抗がん剤治療を行う方針が示されました。
私の性格上、周囲に相談して決めるというよりは、自分で納得して道を選びたいという思いが強くありました。年齢を考えれば、子宮を残す選択肢に固執する理由もありません。将来的な転移のリスクを最小限にするため、迷わず「すべて摘出してください」と医師に伝えました。
「休むなら辞めて」と言われた職場
治療方針が決まり、次に直面したのは仕事との両立という高い壁でした。当時、私は正社員としてフルタイムで働いていましたが、職場は非常に少人数の環境でした。隠し通すことも難しいと考え、上司や同僚にはがんであることをすべて打ち明けました。
しかし、そこで返ってきた言葉は、耳を疑うようなものでした。会社には社内規定として傷病休暇の制度が存在していましたが、上層部は「うちの部署でその制度を使うのは無理だよね」と公然と言い放ったのです。
時はコロナ禍の真っ只中。多くの企業がテレワークを導入し始めていた時期でした。会社側からは「有給休暇とテレワークで何とか対応できないか」と迫られました。無理に権利を主張して傷病休暇を取ることもできましたが、そうすれば職場の雰囲気は悪化し、治療後に戻る場所がなくなることは目に見えていました。
「ここで争って職を失えば、治療後の再就職はもっと難しくなる」。そう判断した私は、会社側の条件を飲み、治療中もテレワークを織り交ぜながら働き続ける道を選びました。
想像を絶した抗がん剤の痛み
手術は無事に終わりましたが、本当の地獄はそこから始まった抗がん剤治療でした。
私は3週間に1回のペースで、2泊3日の入院を繰り返しながら全6回の投与を受けました。投与直後は何も起こらないのですが、退院して自宅に戻った2日目の夕方ごろから、身体に異変が起こったのです。
それは、経験したことのないような全身の激痛でした。特に関節の痛みがひどく、身体中の節々を万力で締め付けられているような感覚です。あまりの痛みに、夜も眠ることができません。痛みで意識が遠のき、限界が来て1、2時間ほど失神するように眠るのですが、またすぐに激痛で目が覚めてしまう。そんな日々が数日間続きました。
当時住んでいた家は2階建てのテラスハウスでしたが、階段の上り下りなど到底不可能な状態でした。1階のリビングに布団を敷き、這うようにしてトイレに行くのが精一杯でした。
主治医に相談して鎮痛剤を変えてもらいましたが、回数を重ねるごとに副作用は重くなり、痛みが続く期間も長くなっていきました。それでも「途中でやめたらどうなるか」を医師に確認した上で、最短で治療を終わらせるために、一度も休止することなく予定通りのスケジュールを完走しました。
家族との温度差、そして心の孤独
肉体的な苦痛と同じくらい私を苦しめたのは、最も身近な存在である夫との温度差でした。
夫は家事が嫌いな人ではありません。自分の食事や洗濯は自分でするタイプでしたので、その点では助けられた部分もあります。しかし、彼は病気に対する想像力に欠けていました。
私が1階のリビングで、痛みと闘いながら必死に横になっているとき、夫は事もなげにこう言ったのです。 「いい加減、2階で寝たら?」
その瞬間、言葉にできない絶望感が私を襲いました。行けるものなら、とっくに行っている。階段を上る気力も体力も、今の私には1ミリも残っていない。それを説明する元気すらなく、私はただ黙って耐えるしかありませんでした。
後からブログを通じて知ったことですが、同じように子宮がんを患う同世代の女性たちの中にも、家族から同様の無理解な言葉をかけられている人が少なくありませんでした。入院中に出会った患者さんは、抗がん剤治療の合間に「家に帰ったら家族のご飯を作らなきゃ」と漏らしていました。
なぜ、病んでいる本人がここまで気を遣わなければならないのか。なぜ、せめて自分たちのことくらい自分でやってくれないのか。そんな理不尽な思いを抱えている女性たちが、世の中にはたくさんいるのだとわかったのです。
5年目の節目に思うこと
治療が終わって体力が回復したころ、私は夫にしっかりと思いを伝えました。 「あのとき言われたことは一生忘れない。理解できないなら、せめて黙っていて欲しい」と。
夫は「わからないんだから仕方ないじゃないか」と反論してきましたが、私はあえて釘を刺しました。今後、もし再発したり別の病気になったりしたときに、同じことを繰り返させないためです。家庭は本来、最も安らげる場所であるべきです。そこでストレスを感じることは、再発防止の観点からも決して良くないと考えたからです。
仕事についても、治療後に大きな変化がありました。会社側は「コロナ禍による業務形態の変化」を理由に、私の仕事の一部を外注化し、週5日のフルタイムから週3日の勤務へと契約を変更したのです。事実上の戦力外通告のようにも感じましたが、当時の私は転職する体力が残っておらず、その条件を飲むしかありませんでした。現在は週3日のペースで、無理のない範囲で仕事を続けています。
2026年1月現在、私は抗がん剤治療を終えてから丸5年を迎えようとしています。明日の検査で問題がなければ、ひとつの大きな区切りとなります。
この5年間、私は自分ですべての治療方針を決め、仕事の理不尽にも耐え、家族との関係も立て直してきました。がんという病気は、身体だけでなく、それまでの人間関係や社会的な立場をも浮き彫りにします。
もし今、暗闇の中にいる方がいるなら、伝えたいことがあります。周りの言葉に傷つく必要はありません。自分の身体を守れるのは自分だけです。辛いときは辛いと言っていい。そして、理解してくれない場所からは、心が壊れる前に距離を置いてもいいのだということを。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今まさに、がんと向き合っている方に伝えたいことがあります。
自分の意思を最優先にしてください
周囲の意見や家族の都合に振り回されず、自分が納得できる治療法や生き方を選択してください。後悔しないための最大の防衛策は、自分自身で決断することです。
職場や家族に期待しすぎない勇気を持ってください
残念ながら、すべての人が病気の辛さを理解してくれるわけではありません。無理解な言葉に心を痛めるよりも「この人はこういう人だ」と割り切り、自分のエネルギーを回復のために温存してください。
辛いときは「沈黙」を求めてもいいのです
励ましの言葉すら負担に感じるときがあります。理解されないのであれば、せめて「そっとしておいて欲しい」と明確に伝えることも、自分を守るための大切な手段です。
外部のコミュニティを頼ってください
家族や職場に理解者がいない場合でも、ブログや患者会など、同じ痛みを分かち合える仲間が必ずどこかにいます。1人で抱え込まず、外の世界に目を向けてみてください。