写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:粒餡さん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:両親と同居(自身の持ち家と行き来する生活)
仕事:会社員
がんの種類:乳がん
診断時ステージ:ステージ0、ステージ2
診断年:2007年、2011年
現在の居住地:愛知県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2007年にステージ0の乳がんと診断された粒餡さんは、仕事への早期復帰とQOL(生活の質)を重視し、自ら情報を集めて専門のクリニックでの同時再建手術を選択されました。その4年後には反対側の胸にもがんが見つかり、骨転移の判明や15年にわたるホルモン療法など、決して平坦ではない道のりを歩んできました。周囲の情報に振り回されることなく、常に自らの意思で治療を選択してきた闘病生活についてお話しいただきました。
始まりは「なんとなくの違和感」と会社の健診
最初のがんが見つかったのは2007年のことでした。以前から胸に「なんとなくの違和感」を覚えてはいたのですが、ちょうど会社の健康診断が近づいていたので、そこで診てもらえばいいだろうと考えていました。運が良いことに、その年から会社の健診項目に乳がん検診が追加されたばかりでした。もしこの健診がなければ、発見はもっと遅れていたかもしれません。
健診の結果が出るのを待っていたある日、病院から直接連絡が入りました。「乳がんの疑いが見つかりましたので、健診結果の郵送を待たずにすぐに来てください」との連絡でした。その時の緊張感は今でも覚えています。紹介された総合病院でさらに詳しい精密検査を受けた結果、下された診断はステージ0の「非浸潤がん」でした。
担当した医師からは、乳房の全摘手術を勧められました。しかし、そこで提示された治療方針に、私は強い疑問を抱きました。その総合病院では、全摘後の再建手術について「まずは病気を治してから、落ち着いて考えればいい」との考えだったのです。再建するにしても、手術を2回に分ける必要があるという説明でした。
当時の私は、仕事で大きな転換期を迎えていました。会社の合併話が進んでおり、職場は非常に慌ただしい状況にありました。私は「一度の手術ですべてを終わらせ、1日でも早く仕事に復帰したい」と強く願っていました。また、ステージ0という早い段階で見つかったからこそ、体への負担や見た目の変化を最小限に留めたいという思いもありました。
自分で情報を探し見つけた「1泊2日の同時再建」
提示された治療方針に納得がいかなかった私は、自ら情報を探し始めました。当時は今ほどインターネット上の医療情報が整理されておらず、信頼できる公的な情報に辿り着くのも一苦労でした。本やネットで必死に調べた結果、東京にある乳がん専門のクリニックに辿り着きました。そこは、1泊2日の入院で全摘とインプラントを入れる同時再建が可能なクリニックでした。
転院には勇気がいりましたが、そのクリニックは私の要望を的確に汲み取ってくれました。2007年当時は、インプラントによる再建に保険が適用されない自費診療の時代です。費用は決して安くありませんでしたが、自分の納得感を優先しました。
手術は予定通り1泊2日で終わりました。驚かれるかもしれませんが、私は手術からわずか3日後には職場に復帰しました。職場の人たちには、がんであることも手術のことも一切伝えていませんでした。ステージ0で術後の化学療法もなかったため、数日間の休みだけで、私は何事もなかったかのように日常に戻ることができたのです。
手術直後は起き上がる時に痛みがありましたが、それも1週間ほどで落ち着きました。傷口の痛みは切り傷と同じ程度の感覚でした。「がん=長期入院」というイメージとはかけ離れた、スピード感のある治療を選択できたことに、私は確かな手応えを感じていました。
4年後に反対側の乳房に2度目のがん
平穏な日々が続いていた2011年、再びあの「違和感」が私を襲いました。今度は反対側の胸でした。定期検査の時期を待たず、自分からクリニックへ向かいました。「またか」という思いはありましたが、一度経験していたこともあり、パニックにはなりませんでした。乳がんを経験した人はもう片方の胸にもがんができやすいという知識を持っていたため、どこかで覚悟していたのかもしれません。
2度目のがんは、前回のステージ0とは異なり、ステージ2の「浸潤がん」と診断されました。1度目の経験から「全摘の方が後の管理が楽だ」とわかっていたので、迷わず全摘と同時再建を選びました。この頃には、東京のクリニックの分院が私の地元である愛知県にもできており、利便性はさらに向上していました。
しかし、2度目の治療は前回ほど単純ではありませんでした。手術後にホルモン受容体が陽性であることがわかり、長期間のホルモン療法が必要になったのです。さらに、術後の詳細な検査で、単発の骨転移が見つかりました。遠隔転移という厳しい現実に直面しましたが、幸いにも病変は限定的でした。
この時はさすがに「どうしてまた」という思いが頭をよぎりました。骨転移の治療として大学病院で放射線治療を受け、同時に15年間に及ぶ長いホルモン療法が始まりました。
医療者と対等に向き合うための「自己学習」
治療を進める中で、私は患者としてのスタンスを明確にしていきました。それは「自分でも徹底的に勉強し、医師の提案を鵜呑みにせず納得するまで対話する」ということです。
例えば、術後の化学療法を行うかどうかの判断では、医療雑誌や学会の情報で知っていたので主治医にオンコタイプDXを受けてみたいと希望しました。
その結果は「抗がん剤をやるかやらないか、非常に境界線上にある」という数値でした。非常に悩みましたが、さまざまな情報を総合的に判断し、私は抗がん剤治療を行わないという選択をしました。こうした決断ができたのは、自分から情報を取りに行き、知識を蓄えていたからだと思います。
大学病院で放射線治療を受けていた際、あまりに細かく質問を繰り返す私に、医療スタッフから「医療関係の方ですか?」と尋ねられたこともありました。それは私にとって、自分の体と命に責任を持っているという誇りでもありました。
15年のホルモン療法と社会との繋がり
ホルモン療法の副作用であるホットフラッシュ(ほてり)には長年悩まされました。会議中や人と話しているときに突然汗だくになったりで心配されてしまったりしました。仕事への影響を最小限にするため、通院は主に土曜日を利用し、会社を休むことなく治療を続けました。
2度目のがんの際、直属の上司にだけは病状を伝えました。その上司は偶然にも悪性リンパ腫の経験者で、「仕事のストレスが一番良くない。無理はしないでほしい」と、深い理解を持って接してくれました。その存在が、働きながら治療を続ける上で大きな心の支えになりました。
最近になって、同じ職場に乳がんを公表して化学療法を受ける同僚が現れました。彼女の相談に乗る中で、私が20年近くがんと付き合ってきたことが周囲に知られることになりましたが、15年経っても元気に働いている私の姿が、彼女にとっての希望になっているようです。
がんは「日常の一部」として、共に生きていくもの
2026年1月、15年間にわたったホルモン療法がいよいよ終了します。2007年から始まった私のがん体験は、これで大きな一区切りを迎えました。
振り返ってみると、がんは私の人生に大きな影響を与えましたが、決して「人生のすべて」を奪い去るものではありませんでした。10年、20年と元気に過ごしている方々もいらっしゃいます。
私にとっての情報収集は、不安を解消するための最大の武器でした。知らないからこそ怖くなる。だからこそ学び、自分で選択する。その繰り返しが、私をここまで運んでくれたのだと感じています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
今、がんと向き合っている方に私の経験から伝えたいことがあります。
「なぜその治療が必要か」をよく考えてください
医師の言葉を鵜呑みにせず、自分が納得できるまで質問してください。納得感こそが治療を続ける力になります。主治医や医療関係者は一緒に病気を乗り越えるための最大の味方になる人たちです。
「知ること」で不安をコントロールすることができます
ネットにはさまざまな情報が溢れていますが、公的なガイドラインや、医師が参加している勉強会など、根拠のある情報に触れてください。
「なぜ私だけが」と思わないでください
今やがんは、多くの人がかかる可能性のある病気です。自分を責めたり、運命を呪ったりする時間はもったいないです。
自分の「こうありたい」という気持ちを大切にしてください
仕事を続けたい、見た目を保ちたいなど、自分の気持ちや希望を隠さず医師に伝えてください。医療はその希望を叶えるための手段です。