写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:黒須 章子さん(本名)
年代:60代
性別:女性
家族構成:1人暮らし
仕事:紅茶専門カフェ経営(元小学校教員)
がんの種類:子宮体がん
診断時ステージ:ステージ3C
診断年:2012年
現在の居住地:千葉県
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
紅茶専門カフェを営む黒須章子さん。現在は赤い髪がトレードマークの快活な女性ですが、かつては小学校の教員として多忙な日々を送っていました。2012年、自身を襲ったのは「子宮体がん」。進行したステージ3Cでした。教壇を降りる決断、過酷な治療、そして「がんになっても楽しく生きる」という信念。絶望することなく、第二の人生を切り拓いた黒須章子さんにお話しいただきました。
忙殺される日々の中で見過ごした子宮体がんサイン
小学校の教員をしていた2012年のことです。当時、私は仕事に忙殺されていました。半年ほど前から不正出血が続いていたのですが、病院に行く時間さえ惜しいほどの毎日。自分の体のことは二の次で、気になりつつもそのまま過ごしてしまっていたのです。
ようやく時間が取れたのは、夏休みに入ってからでした。自宅近くにある地域の拠点病院の婦人科を受診しました。
初診を担当してくれたのは、まだ若い研修医のような先生でした。超音波(エコー)検査の画像を見た瞬間、先生の顔色が変わったのを今でも覚えています。「わあ、できものができている」。その驚きようと、画像に映った大きな影を見て、私は直感的に「ああ、これはだめだ」と悟りました。先生からは「次の診療からは別の医師に代わります」と告げられました。半年間も出血を放置していたのですから、ただ事ではないと覚悟はしていました。
セカンドオピニオンで信頼できる医師と出会い、転院を決意
お盆休みを挟んだため、詳しい検査結果が出るまでに3週間ほどかかりました。再び病院を訪れ、今度はベテランの医師の診察を受けました。そこで告げられたのは「前回の検査で失敗があったため、もう一度検査をやり直させてください」という驚くべき言葉でした。さらに、がんの転移を調べるPET検査を受けた際も、スタッフが一人で対応しており、注射の失敗で薬剤が漏れ、その後2日間も腕が動かなくなるというトラブルがありました。
「ここにいたら死んでしまうかもしれない」。私の直感がそう警鐘を鳴らしました。「今度は失敗のないように手術形式で検査します」と言ってくれましたが、命を預けるには不安が大きすぎました。私はその場でセカンドオピニオンを受けることを決意し、以前から調べていた都内のがん専門病院へ行くことにしました。
幸運なことに、その専門病院の予約が2週間後に取れました。地元の先生も私の決断を尊重し、「もし向こうで治療できなくても、戻ってきても構いませんから」と背中を押してくれました。
ステージ3Cの宣告、そして過酷な治療の幕開け
都内のがん専門病院での診断は、非常にシビアなものでした。「命をつなぎたい人が全国から来る場所です。あなたにどのくらいの覚悟があるか示してください」そう問われ、私は「ここで治療したいです」と即答しました。
診断結果は「子宮体がん、ステージ3C」。がんはリンパ節にまで転移しており、「もう少し遅ければ全身に転移していたかもしれません」と言われました。腫瘍があまりに大きいため、すぐに手術をすることはできず、まずは抗がん剤治療でがんを小さくしてから手術を目指すことになりました。
治療計画は、術前の抗がん剤治療を2クール、その後手術を行い、術後にさらに4クールの抗がん剤治療を行うというものでした。
しかし、私は薬が効きやすい体質であると同時に、アレルギー体質でもありました。最初の抗がん剤治療からダメージは甚大で、入院期間は予定よりも大幅に長引きました。
教壇を去る日、生徒についた「嘘」
治療を開始したのは9月末のことでした。運動会の準備などで学校は猫の手も借りたいほどの忙しさです。私は管理職にだけがんのことを伝え、担任を持っていた3年生のクラスの子どもたちには、休む前日まで何も伝えませんでした。「明日から先生は入院して手術をするから、もう学校には来られません」そう伝えたのです。子どもたちは驚いていたようですが、私はあえて「がん」という言葉は使いませんでした。まだ9歳や10歳の子どもたちに、余計なショックを与えたくなかったからです。
「長くかかる病気だから」とだけ伝え、私は教壇を去りました。志半ばで子どもたちと別れるのはつらいことでしたが、自分の命を守るためには仕方のない選択でした。
敗血症性ショック、命の危険と治療の中断
手術は無事に終わりましたが、本当の試練は術後の抗がん剤治療でした。
予定されていた術後の4クールのうち、3回目を終えたところで私の体は悲鳴を上げました。薬が強すぎて腸が激しい拒否反応を起こし、敗血症性ショックに陥ってしまったのです。意識不明となり、一時は両親が呼び出されるほどの重篤な状態でした。
なんとか一命を取り留め、意識が戻った時、私は医師に「あと1クール残っています。頑張ります」と伝えました。しかし、医師の判断は違いました。「もう画像上では病変は確認できないので、残り1クールの治療はやめましょう。これ以上やったらがんではなく、抗がん剤で死んでしまいます」こうして、予定より早い段階で抗がん剤治療は終了しました。
「泣いて暮らすのはもったいない」紅茶カフェという新たな目標
がんが見つかった時、私は不思議と取り乱すことはありませんでした。「やっぱりか」という納得と、高齢の両親を悲しませてはいけないという思いが先に立ちました。
「泣いて暮らしても、笑って暮らしても、時間は同じように過ぎていく。だったら、一分一秒でも楽しく過ごさなければもったいない」。それが私の闘病のテーマでした。抗がん剤で髪が抜けるのが嫌なら、抜ける前に自分から丸刈りにしてしまおう。治療後に生えてきた髪が白髪だったので、いっそ派手な色に染めてしまおう。そうやって、常に自分を楽しませる工夫をしました。
治療が一段落し、月に一度の通院だけになった頃、私は「通院のついでに何か楽しいことをしよう」と思いつきました。千葉から東京までの長い道のり、ただ病院に行くだけではつまらない。そこで見つけたのが都内の紅茶教室でした。
元々お菓子作りやハーブが好きだったこともあり、紅茶の世界にのめり込みました。「これなら、カフェができるかもしれない」。がんという病気は、私に「命には限りがある」という当たり前の事実を突きつけました。だからこそ、残された時間を本当にやりたいことに使おうと決心できたのです。
教員の仕事は、休職制度を使えば復帰の道も残されていました。しかし、激務に戻ればまた体を壊すかもしれない。何より、中途半端な気持ちで子どもたちと向き合うのは失礼です。私は退職を選び、カフェの開業に向けて準備を始めました。
後遺症と向き合いながら、赤髪で生きる今
治療から10年以上が経ちましたが、今でも後遺症は残っています。腸のダメージにより、魚介類やイモ類、フルーツなどは体が受け付けず、食べることができません。それでも「お肉は食べられるから大丈夫」と、できることに目を向けています。
私の髪は今、鮮やかな赤色です。治療後に生えてきた髪が白髪ばかりで、そのままでは「病人」に見えてしまうのが嫌でした。「どうせ染めるなら、テンションが上がる色がいい」。そう思って選んだのが、パンクロッカーのような赤色でした。
がんになったからといって、人生が真っ暗になるわけではありません。私はがんとともに、以前よりも自分らしく楽しく暮らしています。カフェを訪れるお客さまとの会話、香り高い紅茶、そして自分自身で決めた人生。再発への不安がないわけではありませんが、もしそうなったらその時考えればいい。今は、この瞬間を精一杯楽しむことだけを考えています。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
がんの告知を受けると、目の前が真っ暗になったように感じるかもしれません。しかし、心の持ち方ひとつで、闘病生活の景色は変えられます。私の経験から、大切だと思うことをお伝えします。
時間を「泣くこと」に使わないでください
悲観して泣いていても、がんは良くなりません。それならば、その時間を少しでも「楽しいこと」や「やりたいこと」に使ってください。一瞬一瞬を大切にし、自分の機嫌を自分で取ることが大切です。
標準治療と主治医を信じてください
インターネットにはさまざまな情報が溢れていますが、基本となるのは標準治療です。そして、何より大切なのは主治医との信頼関係です。疑問や不安があれば、納得できるまで相談してください。自分に合った医療チームを見つけることが、納得のいく治療への第一歩です。
保険は必ず備えておいてください
私は祖母の勧めもあり、がん保険に手厚く入っていました。おかげで治療費の心配はありませんでした。経済的な不安がないことは、闘病中の心の安定に直結します。若いうちからの備えをお勧めします。
「がん」になっても人生は終わりではありません
病気は人生の一部ですが、全てではありません。私はがんになったことで、教員という枠を飛び出し、カフェ経営という新しい夢を叶えることができました。「がんと闘う」のではなく、「がんと楽しく暮らす」。そんな気持ちで、今日という一日を大切に過ごしてください。