写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:Nさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:男性
家族構成:母と2人暮らし
仕事:なし(障害年金受給)
がんの種類:脳腫瘍(若年性毛様細胞性星細胞腫)
診断時グレード:グレード1
診断年:1979年
現在の居住地:東京都
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
1979年、まだCTスキャンが普及し始めたばかりの時代に、わずか4歳で脳腫瘍と診断されたNさん。以来、幼少期から青年期、そして壮年期に至るまで、7回の手術と数度の再発、高額な放射線治療、そして抗がん剤治療を経験されてきました。運動機能の障害によるいじめ、痛みへのトラウマ、進学や就労の壁。多くの困難に直面し、「将来のために今を我慢する」という生き方を続けてきたと言います。発症から50年という半世紀の節目を前に、がんという病と共に生き、どのような境地に至ったのか。その葛藤と現在の活動についてお話しいただきました。
脳腫瘍、診断のきっかけは幼稚園の先生が気付いてくれた症状
脳腫瘍と診断される前、私の異変に最初に気付いたのは幼稚園の先生でした。4歳の時でした。自分ではよく覚えていませんが、母から聞いた話では、くつ箱にくつを入れる時、背伸びした足が震えていたと言うのです。私は、歩く時に手をつなぐことが多かったし、動作も遅かったため、当初は何か心因的な反応であると思われていたようです。そのため、小児科を受診したときに、最初は「発達」や「家庭環境」の問題だと思われ、療育教室のような所を紹介されたそうです。
その後、脳神経外科でCT検査の結果、小脳に腫瘍が見つかりました。
病名は「若年性毛様細胞性星細胞腫」。小脳や脳幹付近にできる腫瘍でした。これが私の長い闘病生活の始まりでした。4歳で2回の手術、6歳で水頭症の手術、8歳で腫瘍摘出のための大きな手術など、合計7回の開頭手術を受けました。
幼い私にとって、病院は「痛くて、怖い場所」でした。もちろん、看護師さんは優しく、先生方も親身になってくれましたが、処置の激痛や恐怖は、今でも鮮明なトラウマとして心に焼き付いています。
「運動はできないが勉強はできる」という呪縛
私には運動失調という後遺症が残りました。手足の動きがぎこちなく、動作も遅く、さらに頭とお腹には手術の大きな傷跡がありました。
学校生活では、「動きが変だ」「傷が気持ち悪い」とからかわれ、時にはいじめの対象になりました。自分は、クラスの中で一番劣った存在だと思うようになりました。
そんな私に、医師や親はこう言いました。「運動はできなくても、勉強はできるから、頭で勝負しなさい」。それは励ましの言葉でしたが、同時に私を縛り付ける呪いにもなりました。「自分は人よりも勉強しなければならない」と思い込みました。
病名を知ったのは20歳の時です。主治医に聞くと、メモ用紙に筆記体で「Juvenile Pilocytic Astrocytoma」と書いて渡されました。「もう大人だから言ってもいいだろう」ということでした。当時はインターネットも普及していなかったので、大学の図書館へ行き、医学事典でその病名を調べました。
夢の挫折と新たな研究という目標
「自分と同じ病気の子どもを治したい」。そんな思いから医師を目指しましたが、医学部の壁は厚く、願いは叶いませんでした。それでも医療に関わりたいという思いは消えず、生物学科へ進学し、その後、大学院へ進みました。
そこで私が選んだ研究テーマは「自閉症」でした。なぜなら、私の腫瘍がある「小脳」と自閉症には関連があると言われていたからです。自分の脳に起きていることの謎を解きたい、その一心で研究に没頭しました。
18歳、20歳、24歳と再発や手術を繰り返しました。20歳の時に受けた「ガンマナイフ」という放射線治療は、まだ保険適用外で、130万円もの費用がかかりました。
32歳での再発、手術を拒否し薬物療法を選択
32歳の時に激しい頭痛と嘔吐が続き、MRI検査を受けると、腫瘍が以前の2倍の大きさに再発していました。脳幹部付近に残っていた腫瘍が増大していたのです。
東京の主治医からは、再手術の提案を受けました。しかし、幼少期からの度重なる手術で、痛みと恐怖に対する限界を迎えていた私は、「もう二度と手術は受けたくない」と思いました。
以前から関わっていた小児がんの患者会に相談しました。すると、当時住んでいた大阪に化学療法(抗がん剤)で治療を行っている先生がいると紹介されました。私は東京の医師に手紙を書き、半ば強引に転院を決めました。当時、私は大学院を出て非常勤講師として働いていましたが、仕事も住居も引き払い、大阪にある小児がん患者家族のための宿泊施設に身を寄せました。
そこでは、小児脳腫瘍に使われる抗がん剤治療を3年間続けました。副作用はありましたが、幸いにも薬は奏効し、腫瘍は元の大きさよりも小さくなりました。手術を回避できたことへの安堵感は計り知れませんでした。
認知機能の低下、そして障害年金での生活
2011年、経済的な事情もあり、実家のある東京に戻りました。化学療法は中断せざるを得ませんでした。
しかし、2015年に再び試練が訪れました。水頭症を防ぐためのシャント(髄液を流す管)が破損し、緊急手術を受けることになったのです。この手術を境に、明らかに認知機能の低下を感じるようになりました。
以前のように思考がまとまらない、準備に時間がかかる、人前で話すことへの極度の緊張。仕事はおろか、日常生活にも支障が出始めました。仕事を辞め、高次脳機能障害として障害年金を受給しながら生きる道を選びました。現在は母と2人、静かに暮らしています。
50年目の決意、「将来のために」をやめる
発症から46年。半世紀をこの病気と共に生きてきて、今、思うことがあります。
私はこれまで、常に「将来」のために「今」を犠牲にしてきました。「今はつらくても、頑張って勉強していれば、将来は良くなる」「今は我慢して治療すれば、明るい未来が待っている」そう自分に言い聞かせ、その場その場の楽しみや幸福を後回しにしてきました。「将来のため」という名目で制限してきました。
しかし、現実は再発を繰り返し、障害は残り、思い描いたような「将来」ではありませんでした。いつの時代も常に未来に備えるだけの人生でした。
最近、脳腫瘍患者のインタビュー研究に協力したことをきっかけに、自分でも研究意欲が湧いてきました。人前に出るのは苦手ですが、自分の体験や論文を執筆し、投稿しています。また、発症50周年に向けて、半世紀の闘病記録をまとめる準備もしています。
「将来」ではなく「今」できること、自分がやりたいことに、ようやく目を向けられるようになってきました。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
46年間の闘病経験を通じて、私が今、皆さんに伝えたいことは以下の通りです。
心の隙間に入り込む情報に注意してください
病気で不安な時、人は信じられないような情報にもすがってしまいます。特に再発した時などは心が弱り、「これだけで治る」といった詐欺的な情報や、高額な商品を売りつけようとする人たちに騙されやすくなります。今はSNSで闘病を発信するだけで、怪しい勧誘が来る時代です。自分の身を守るためにも、情報の取捨選択には十分に気をつけてください。
「今」を犠牲にしないでください
「将来のために」と、今の楽しみや幸せを我慢しすぎないでください。病気が進行すれば、やりたくてもできなくなることが増えます。好きなものから食べる。皆さんには、今日という一日を大切に、豊かに生きて欲しいと願っています。
追記
追記1
この体験談のインタビューを受けて1か月後に、再発が見つかりました。46年間で5回目の再発です。今かかっている東京の病院では手術しか選択肢がありません。私が大阪の病院で受けた抗がん剤は、小児にはできるが大人にはできないと言われました。この小児脳腫瘍を成人期まで持ち越す人もいるのに変な決まりがあるものです。この決まりを変えるにはどうすればよいのでしょうか・・・。今は毎日不安ですが、この化学療法を50歳の大人にもやってくれる病院を探すことから始めています。
追記2
10代の頃は、「この治療を乗り越えれば後は健康でいられる」と思っていました。その時再発を繰り返すと知ったら、たぶん自殺していたかもしれません。なので若い患者さんに強く伝えたいです。
同じpilocytic astrocytomaでも再発しない場合も多いです。私のように何度も再発を繰り返すのは、rare caseです。