写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:ばぁばさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:夫と子ども二人と母親との五人暮らし
仕事:無職(診断時は会社員)
がんの種類:乳がん、子宮頸がん
診断時ステージ:乳がん ステージ2B、子宮頸がん ステージ2A2
居住地:三重県
診断年:乳がん(2017年)、子宮頸がん(2022年)
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
2017年に乳がん(トリプルネガティブ)ステージ2B、その5年後の2022年に子宮頸がんステージ2A2と診断されたばぁばさん。2度のがんともに、治療と仕事の両立を模索してきましたが、子宮頸がんの再発を機に退職を決意されました。2度のがん告知、つらい治療、信頼できる医師との出会い、家族の支え、そして今、思うことについてお話しいただきました。
始まりは「良性」と言われたしこり
私が最初に異変に気づいたのは、2016年の8月でした。右胸にしこりがあることに気がつき、近くの女性医師がいるクリニックを受診しました。マンモグラフィーと超音波(エコー)検査を受け、「良性です」と言われ、その時は安心して帰宅しました。
しかし、2017年の1月か2月ごろ、そのしこりがなんとなく大きくなった気がしました。不安になって同じクリニックで検査を受けたところ、乳がんの疑いがあるため生検をすることになりました。
結果は「おそらく乳がん」とのことでしたが、そこでは治療ができないため、治療できる病院を紹介してもらうことになりました。がんセンターも考えましたが、予約が取れるのは3~4か月先とのことで、すぐに診てもらえる大学病院を紹介してもらいました。
3月に入ってすぐに、大学病院で改めて一通りの検査を受け、そこで「トリプルネガティブ乳がん」のステージ2Bであると確定診断を受けました。
乳がん治療で余儀なくされた退職から、同じ会社への復職を実現
大学病院では、標準治療である術前化学療法、手術、放射線治療という治療方針が示されました。当時は会社員として働いており、診断がついた後も、抗がん剤治療が始まるまでは仕事を続けていました。その頃は、抗がん剤治療が始まっても仕事は続けられるだろうと軽く考えていたのです。
2017年4月から抗がん剤治療が始まりました。初回は入院でしたが、1回目の治療を受けてみると、体が想像以上につらく、とても仕事に行ける状態ではありませんでした。
私が勤めていた会社は、休職は3か月までという規定があり、4か月目に入ると退職しなくてはなりませんでした。抗がん剤は4週間に1回を4クール。体調が良くなったと思ったら次の治療が始まるという繰り返しで、結局3か月間に1日も出勤することができず、その年の8月に一旦退職することになりました。
その後、手術と放射線治療を終え、2018年の5月ごろには体調も落ち着いたので、元の会社に復帰させてもらいました。さすがにフルタイムの勤務は難しかったので、時間を短縮してもらい、夫の扶養に入る形で復職しました。その後、徐々に体調も回復し、再びフルタイムで働けるようになりました。
乳がん診断後5年目の「まさか」
乳がんの治療後は経過観察となり、5年間、再発もなく無事に過ごしていました。トリプルネガティブ乳がんは予後が悪いと自分で調べて知っていたので不安もありましたが、主治医からは「抗がん剤でがんがほとんどなくなったので、再発しないとは言わないけれど大丈夫だよ」と言われ、ちょうど、ひと区切りついた矢先のことでした。
2022年、仕事中に経験したことのないような大量出血がありました。血の塊のようなものも出て驚きました。実は、乳がんの抗がん剤治療の影響で、この5年間ずっと生理が止まっていたのです。そのため、「止まっていたのが、まとまって来たのかな」と、その時は思ってしまいました。
しかし、2~3日経っても出血が続いたため、近くの婦人科クリニックを受診しました。その結果、「おそらく子宮頸がんですが、ここでは手術できません」と言われ、その日のうちに地元の総合病院を紹介されました。
その足で総合病院へ行き、さまざまな検査を受けて、その日のうちに「子宮頸がんです」と告知されました。あまりに急な展開で、治療方針の説明もありましたが、私はショックで頭が真っ白になっていました。
私の気持ちを救った医師の言葉
その日は夫も一緒に話を聞いてくれましたが、帰宅してから、子どもに「お母さん、乳がんで大学病院に行っているんだから、そっちで治療してもらったら?」と言われ、はっとしました。乳がんの経過観察で、大学病院には通い続けていたのです。
翌日、再び総合病院を訪れた際、担当の医師に「実は今、乳がんで大学病院に通っています」と話しました。すると、その先生はこうおっしゃいました。
「大学病院は確かに施設も整っているし、研究もすごく進んでいます。でも、予約がなかなか取れず、何かあった時にすぐ診てもらえないこともあります。その点、ここのような地域の総合病院は、何かあったらすぐに診られるのが強みです」と。
実は、乳がんの時に通っていた大学病院の主治医は、とても親身になってくれる信頼できる先生でした。予約していても2~3時間待つのは当たり前でしたが、それは一人ひとりの患者さんに20分も30分もかけて丁寧に話を聞いてくれていたからでした。その先生のことを信頼していました。
しかし、目の前にいる総合病院の先生も、主治医と同じように、私の話をじっくり聞いてくれました。私が「乳がんで5年経って、やっと1年に1回の検診になったところだったのに、またがんになって…。私、死にますか?」と泣きながら尋ねると、先生は「そんなことありません。乳がんを経験されていることも踏まえて、私たちがしっかり診ます。一緒に頑張りましょう」と力強く言ってくれました。
その言葉と、遅い時間まで親身になって話を聞いてくれた姿勢に、私は「この先生にお願いしたい」と強く思いました。
乳がんの時は、自宅から大学病院まで高速道路を使って30分、自分で車を運転して抗がん剤や放射線治療に通っていました。当時は気力で頑張っていましたが、正直、またあの距離を通う元気は残っていませんでした。
それに、ちょうど5年目のタイミングで、あれほど信頼していた大学病院の乳がんの主治医が別の病院に転勤になってしまっていたのです。後任は女性の先生でしたが、年に1回しか会わない関係性もあり、以前のような強い信頼関係を築けていませんでした。もし、あの時の先生がまだ大学病院にいてくれたら、また頑張って通っていたかもしれません。でも、さまざまな状況が重なり、私は地元の総合病院での治療を決意しました。
子宮頸がんの手術から1年10か月で再発
総合病院で広汎子宮全摘出術を受け、手術は無事に終わりました。術後の病理検査の結果、ステージは2A2と確定。その後、術後の化学療法は行わず、放射線治療のみを受けました。
治療後は3か月ごとに検査を受けていました。「何か異常があれば電話します。電話がなければ大丈夫です」という流れでした。
しかし、手術から1年10か月経った2023年10月、検査後に病院から電話がかかってきました。「疑わしいところがあるので、ご主人と一緒に来てください」とのことでした。
検査の結果は、局所再発でした。再発治療として、まず腔内照射を勧められました。ただ、その治療は総合病院ではできないとのことで、別の大学病院を紹介されました。
2024年1月に紹介された大学病院で腔内照射を受ける予定でしたが、その年の正月から高熱が続き、首や肩がひどく痛み、腕が上がらない状態になってしまいました。
治療の直前、大学病院でPET検査を受けたところ、なんと頸部にがんの疑いが見つかりました。「遠隔転移の可能性があるため、その場合は放射線治療はできません」と告げられ、私は治療を受けられないまま、元の総合病院に戻されることになりました。
総合病院では、この首の腫瘍が一体何なのか、特定するための検査が始まりました。乳がんの転移か、子宮頸がんの転移か、あるいは多発性骨髄腫のような血液のがんか。乳腺外科や血液内科で、骨の検査や生検(組織を採って調べる検査)など、さまざまな検査を1か月半ほど受けました。
しかし結果は、乳がんの転移でも骨髄腫でもありませんでした。原因がわからないままでしたが「まずは子宮頸がんの再発治療を最優先すべき」と医師に判断していただき、2024年の3月から、ようやく抗がん剤治療が始まりました。
がんの再発を機に退職、自分の体を第一に考えて決意
子宮頸がんの初回治療(手術・放射線)の時は、手術後3か月ほど休職し、その年の6月には仕事に復帰していました。
しかし、再発がわかった時、私は退職を決意しました。乳がんの時も家族から「仕事をやめたらどうか」と言われていましたが、私には「がんであることをあまり人に知られたくない」「新しい会社で、また病気のことを一から説明するのは嫌だ」という思いがありました。また、元の会社は事情を理解してくれていたので、同じ会社に戻ることを選びました。
子宮頸がんで復帰した際は時短勤務にしていましたが、それでも体はつらく、さらに上の子どもが出産で里帰りしてくるなど、家事も増え、体力的にも精神的にも余裕がなくなっていました。
乳がんの時も感じていましたが、職場の環境はストレスがたまりやすい面もありました。会社の人たちは本当に良い人たちで、私の事情も全て理解してくれていました。ただ、会社の制度として「4か月以上休むと退職」というルールは変わっていませんでした。
がんの再発を機に「もうやめよう」と決め、2023年12月から休職し、2024年2月付で正式に退職しました。
仕事をしている間は病気のことを考えずに済むため、私にとって大切な時間でした。でも、私は自分のことを後回しにし、やらなくてもいいことまで抱え込んでしまう性格でした。まずは自分の体を第一に考えなければいけないと、ようやく思えるようになりました。
つらいがん治療の一番の支えは娘が生んでくれた孫の存在
現在は治療に専念しています。最近まで受けていた抗がん剤治療は、7時間もかかる点滴を6回行うというもので、副作用が本当につらく、何もできない日々が続きました。
乳がんになった時、私は「トリプルネガティブ乳がん」と聞いて、怖くてスマホで検索ばかりしていました。怖い情報ばかりが目に入り、家族にスマホを取り上げられるほどでした。同じがんの方のブログを読み漁り、元気になった話、亡くなった話に一喜一憂していました。
子宮頸がんになった時も最初はいろいろ調べましたが、途中からあまり調べなくなりました。調べても怖いことばかり書いてありますし、再発も経験し、情報を見るのが怖くなったのです。
もちろん、気になることがあれば調べますが、自らネガティブな情報を探すのはやめました。「調べて落ち込むくらいなら、楽しいことを考えた方がいい」と、家族にも言われましたし、自分でもそう思うようになりました。
直近の定期検査では、「また何か見つかるのではないか」と不安でいっぱいでしたが、結果は「画像上、がんは消えています。治療が効いている証拠だから、このまま続けましょう」と言われました。本当にうれしかったです。
今は抗がん剤が2種類になり、体調も少し落ち着いてきました。社会とのつながりは欲しいので、もう少し元気になったら来年あたり、夫の扶養の範囲内でアルバイトでもしようかなと考えています。
振り返れば、私を支えてくれたのは、親身になってくれた医師の先生方、そして夫や子どもたちでした。そしてなにより私にとって一番の力になったのは、娘が産んでくれた孫の存在でした。子宮頸がんの再発がわかった時、孫はまだ1歳でした。「この子が私のことを覚えてくれる年齢になるまで、せめて10歳になるまでは頑張って生きよう」と強く思いました。その思いが、私を前向きにしてくれました。今は、趣味の縫い物で、孫のおもちゃを作っている時が一番楽しい時間です。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
私の経験から、今がんと闘っている方へ伝えたいことがあります。
落ち込んでばかりではなく、楽しいことを考えるようにしてください。
私はがんがわかった時、髪が抜けたこともあり、外に出たくない、人に会いたくないと、引きこもりがちになりました。落ち込む時は必ずありますが、外に出たり、仕事をしたり、何か楽しいことを考えたりする方が、心にも体にも良い影響があると実感しています。
ネガティブな情報は見ないようにしましょう。
私は診断された当初、生存率など怖い情報ばかり見てしまっていましたが、ネガティブな情報に振り回されるのはよくないと思います。つらい治療の中にあっても、自分なりの楽しみや「このために頑張る」という生きがいを見つけることが、前へ進む力になると思います。