写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:でんちゃんさん(ニックネーム)
年代:30代
性別:男性
家族構成:妻と二人暮らし(診断時は両親、兄姉との五人家族)
仕事:看護師
がんの種類:急性骨髄性白血病
居住地:神奈川県(診断時は北海道)
診断年:1995年
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
でんちゃんさんは、約30年前の8歳時、風邪だといわれ続けた病気が実は急性骨髄性白血病でした。しかし、ご両親の意向で、でんちゃんさん自身は3~4年間、知らされずにいました。当時のつらい体験と、それを乗り越えて看護師になった現在についてお話していただきました。
急性骨髄性白血病診断のきっかけは長引く「風邪」のような症状
私ががんを発症したのは、8歳の時でした。最初の症状は、発熱、吐き気、そして頭痛でした。これまでも風邪を引いたことはありましたが、その時の症状は全く別物で、今までにないほど耐えがたい吐き気や頭痛が続き、どんどん悪化していきました。
近所のクリニックにずっと通っていましたが、1週間、10日経っても一向に良くなりません。私自身は「いつもと違う」と必死に親に訴えましたが、当時は「医者の言うことは絶対」という雰囲気の時代でした。「治らないのは、根性がないからだ」と言われるだけで、なかなか聞いてくれませんでした。
結局、2週間ほど同じような状態が続きましたが、あまりにも治らないため、ようやく別のクリニックを受診することになりました。そこではじめて血液検査をしてもらい、すぐに結果が出ました。白血球の数値が3万/μL(正常値は4,000~10,000/μL)という異常値で、医師からは「すぐに大きな病院で診てもらってください」と言われたそうです。
本当の病名を知らされないまま、急性骨髄性白血病との闘病
その言葉通り、私はすぐに地元の総合病院に入院しました。そこで骨髄穿刺といった、子供にとっては負担の大きな検査も受けました。今思えば、この時点で急性骨髄性白血病という診断は確定していたのだと思います。
しかし、私には本当の病名は知らされませんでした。入院から2~3日後には、地元から300kmも離れた大学病院へ転院することになりました。
8歳とはいえ、風邪で骨髄の検査をしたり、無菌室に入ったり、こんなに遠くの病院へ行かなければならなかったりすることには、強い違和感を覚えていました。親に「なんで?」と聞いても、「重い風邪だから」と正当化するばかりで、納得のいく答えは返ってきませんでした。
大学病院では、まず抗がん剤治療が始まりました。それと並行して、骨髄移植のためのドナーを探すことになりました。家族の白血球の型(HLA)を調べたところ、幸いにも姉と一致することがわかり、姉から骨髄移植を受けることが決まりました。
移植治療が始まると、抗がん剤の副作用ももちろんありました。無菌室での生活も続きましたが、今振り返れば、同じ病棟の他の子供たちと比べると、副作用は比較的少なく済んだ方だったかもしれません。
入院生活は、約1年間に及びました。外出も外泊も一切できず、病院のベッドの上が私の世界の全てでした。院内学級もありましたが、当時の院内学級は勉強を教えるというよりも、けん玉で遊んだり、児童館のような雰囲気だったりする場所でした。そのため、勉強の遅れは深刻でした。
退院後の苦悩、いじめと知らされた真実
1年間の入院生活を終え、私は地元の小学校の3年生として復学しました。しかし、久しぶりに戻った学校生活は、想像以上に過酷なものでした。
まず、体力が落ちており全校集会でただ立っていることさえつらく、目まいがするほどでした。1年間、同年代の子供たちと離れていたため、集団生活になじめず、もともと私がいじめっ子だったという側面もあってか、復学しても誰も喜んでくれませんでした。
そして、最も衝撃的だったのは、友人から浴びせられた言葉でした。 「お前、白血病なんだろう。うつるからあっち行け」
私はその時、自分が「白血病」だということを初めて他人から聞かされたのです。白血病という病名自体は、テレビドラマなどで見聞きしており、漠然としたイメージを持っていました。
「なぜ親は私に嘘をつくんだろう」その時から、両親に対して強烈な不信感とモヤモヤした感情を抱えるようになりました。
退院してからも、3~4年の間、両親は私に「風邪だった」と言い続けていました。周りの友人はみんな知っているのに、なぜ私だけが知らないのか。
ある日、私は親がいない隙を見て、タンスの中を調べました。そこで診療明細書か何かを見つけ、自分の病名が「急性骨髄性白血病」であることを、自分の目で確認しました。すぐに親を問い詰めると、二人とも非常にばつが悪そうな顔をしていました。
親としては、子供に「死ぬかもしれない病気」と告知することでショックを与えたくなかった、という思いがあったのでしょう。当時の主治医も、後に「30年前は、患者本人への告知や、学校側への説明(治療で髪が抜けることなどへの配慮のお願いなど)が、今のように十分に行き届いていなかった。本当に申し訳なかった」と、土下座する勢いで謝ってくれました。
時代背景を考えれば仕方がなかった部分もあるかもしれません。しかし、病名を隠されたことで、私は自分の病気への理解が著しく遅れました。これは、患者に対して絶対にしてはいけないことだったと、今でも強く思っています。
孤独だった小・中学校時代と二つの救い
復学後の学校生活は、まさに地獄でした。 体力は落ち、勉強には全くついていけません。免疫抑制剤を飲んでいた影響もあり、風邪を引くと1か月くらい学校を休むこともざらにありました。
学校を休めば、親からは「あんたの体が弱いからだめなんだ」と責められました。 学校へ行っても、勉強がわからないので先生に質問すると、「お前のせいで授業が進まない」と言われました。 周りの友人たちも、「お前のせいだ」と私を責めました。
体力もなく、勉強もできず、友人関係もうまくいかない。いじめもずっと続き、中学校2年生くらいまで、本当につらい時期が続きました。普通の人だったら耐えられなかったのではないかと思うほど、当時は追い詰められており、本気で自殺も考えました。
そんな私を支えてくれたものが二つあります。 一つは、入院前からずっと続けていたスポーツです。それだけが私の唯一の吐け口でした。
そしてもう一つは、一人の親友の存在です。彼は私の病気のことを知っても、「そんなの関係ない。お前はお前だ」と、ありのままの私を受け入れてくれました。彼が私を理解してくれたことをきっかけに、少しずつですが、他の理解者も増えていきました。
母の白血病発症を機に看護師を目指す
小・中学校時代のつらい経験から、私は「白血病」という言葉を聞くことさえ怖いほどのトラウマを抱えていました。卒業した後は介護士として働いていましたが、医療の道に進むことは全く考えていませんでした。
大きな転機が訪れたのは、私が24歳の時です。今度は、母が私と同じ白血病を発症したのです。
母は、かつて私が治療を受けたのと同じ大学病院に、半年間入院しました。その時、母の主治医となったのが、白血病サバイバーの医師でした。
その先生から、私は強くこう言われました。 「君のように、自分が先に白血病になり、後に母親が同じ病気になるケースは、聞いたことがない。そんな稀有な経験をした君が、医者や看護師にならないのはもったいないよ」
トラウマはありましたが、先生や周りの人々からの強い後押しもあり、看護学校に入り直すことを決意しました。
患者本人、家族、医療者としての三つの視点からのメッセージ
現在は、看護師になり病院で働いていますが、次第に「看護師として病院で救える命は限られている」と感じるようになりました。
そんな時、X(旧Twitter)などのSNSを見ていると、がんに関する間違った知識のせいで悩んだり、不安になったりしている人が想像以上に多いことを知りました。
私には、小児がんサバイバーとしての経験、がん患者の家族としての経験、そして看護師としての専門知識があります。この三つの視点を持つ自分だからこそ、伝えられることがあるのではないか、そう思い、ボランティアとして啓発活動を始めました。今はまだSNSでの情報発信が中心ですが、今後は講演会や患者会の活動にも積極的に参加していきたいと考えています。
私が特に伝えたいのは、まず「患者本人だけでなく、家族も同じくらいつらい」ということです。金銭的な負担はもちろん、看病による身体的な負担、そして何より心理的な負担は計り知れません。私自身も家族の立場を経験したからこそ、そのケアの重要性を痛感しています。
もう一つは、病気を経験した人特有の、複雑な心理についてです。 「心配されたくない。でも、心配して欲しい」 これは、わがままではなく、多くの当事者が抱える切実な思いです。
周りの人から「大丈夫?」と頻繁に聞かれたり、「頑張れ」と励まされたりするのは、正直つらいことが多いです。私たちは、常に心配されたいわけではありません。「本当に体調を崩した時だけ、ピンポイントで心配して欲しい」というのが、多くの当事者の本音だと思います。
もちろん、周りの方々も、どう接していいかわからず、善意で声をかけてくれているのだと理解しています。だからこそ、患者側と周りの人々、双方が正しい知識を持ち、お互いの気持ちを理解しようとすることが、より良い距離感を築くために不可欠だと信じています。そのための橋渡しとなる活動を、これからも続けていくつもりです。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
私自身の経験から、今がんと向き合っている方に伝えたいことがあります。
とにかく「生きていて欲しい」と思います。
私自身、病気そのものよりも、その後のいじめや周囲の無理解によって、本気で自殺を考える寸前まで追い込まれました。それでも、スポーツや親友といった救いのおかげで、生きることをあきらめずに今こうして生きていることができています。
理解者は必ずいます。
今がどれだけつらくても、たとえ今は誰も声をかけてくれなかったとしても、あなたのことを理解してくれる人は絶対にどこかにいます。どうかめげずに、生きていって欲しいです。いつか必ず、あなたを理解してくれる人と出会い、光が見える時が来ると信じています。