写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:NickNameさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:一人暮らし(長男は独立しマレーシア在住)
仕事:システムエンジニア、現在は無職
がんの種類:乳がん
診断時ステージ:ステージ4
居住地:東京都
診断年:2024年
システムエンジニアとして仕事に邁進していたNickNameさん。突然のステージ4の乳がん告知を受けました。治療と仕事の両立を目指すも、職を失って経済的な壁に直面し、標準治療の継続が難しくなります。身寄りのない日本で、公的制度の限界にも直面する中、唯一の家族であるマレーシア在住の息子さんを頼ることを決意します。異国の地で経済的・精神的な支えと、残された時間の生き方を見つけたNickNameさんにお話ししていただきました。
更年期障害だと思っていた不調
私ががんだと診断される2年ほど前から、体の節々が痛むなど、原因のわからない体調不良が続いていました。そろそろ閉経してもおかしくない年齢でしたので、更年期障害だろうと思い、市販薬を飲んで様子を見ていました。
しかし、2023年の12月ごろになると、歩くことさえ困難なほどの症状が出てきたため、整形外科を受診しました。そこでは特に病名は告げられず、「ストレッチをしてください」と言われるだけでした。その後、整体や整骨院にも通いましたが、症状は一向に良くなりませんでした。
私自身が最も疑っていたのは、20代の時に遭った交通事故の後遺症である「椎間板症」の悪化でした。悪化したのであればブロック注射を打ってもらおうと考え、ペインクリニックを受診したのです。ところが、そこで撮影したレントゲン写真を見た医師から、「腫瘍の可能性もある」と、すぐにMRI検査を受けるよう指示されました。
MRIの結果、これはほぼ乳がんであり、骨に転移していることで痛みが出ているのだろうと告げられました。そして、「今すぐ大学病院に行きなさい」と言われました。すぐに大学病院で精密検査を受け、2024年7月24日、正式に「乳がんのステージ4、多発骨転移あり」という告知を受けたのです。サブタイプは「ルミナルA」という、進行が比較的遅いタイプのものでした。医師からは「がん自体は10年以上前からあったはずだ」と言われましたが、全く自覚症状はありませんでした。毎年健康診断は受けていましたが、乳がん検診などオプションはつけていませんでした。
がん告知を冷静に受け止められた理由
ステージ4という診断でしたが、不思議と大きなショックはありませんでした。実は、私は10代の時、母をがんで亡くしています。当時、直腸がんの末期で余命半年と宣告された母は、やはり「足が動かなくなった」と歩行困難を訴えていました。私は母の闘病を機に、がんについて必死で勉強しました。ですから、がんに関する予備知識があったのです。
また、母は59歳、父は60歳で亡くなっています。そのため、私もそこまで長生きはしないだろうとどこかでずっと思っていました。告知を受けた時、「ああ、時が来たか」と感じたのが正直なところです。ただ、自分の中で想定していたより5年ほど早かったので、「少し早いな」とは思いました。
診断を受けてすぐに、唯一の身内であるマレーシア在住の息子に報告しました。私に何かあった時に一番迷惑をかけるのは息子です。これからのことをきちんと相談し、準備を進めていかなければならないと考えました。
経済的理由で治療を断念
告知を受けた当初、私はシステムエンジニアとして客先に常駐する技術者派遣の仕事をしており、職場復帰を強く望んでいました。そのため、主治医と相談し、最も副作用が少ないとされるホルモン療法から治療を開始しました。現場の仲間も「待っているから」と励ましてくれていました。
しかし、2025年の1月ごろ、ホルモン療法に耐性ができてしまい、新たに肝臓への転移も見つかりました。腫瘍マーカーの数値もどんどん上がっていきます。治療方針の変更を迫られましたが、時を同じくして、私は雇用元の会社から解雇を告げられました。病気を抱えた私を受け入れてくれる次の派遣先は見つからず、戻る場所がなくなってしまったのです。
職を失い、収入は失業保険のみとなりました。さまざまな治療法の提案がありましたが、お金がありません。結局、私が選んだのは、「TS-1」による治療でした。
しかし、そのTS-1による治療も、長くは続きませんでした。失業保険だけでは、治療費に加え、税金や社会保険料、そして歩行が困難な時のタクシー代などの生活費を賄うのが次第に苦しくなっていったのです。お金のことで悩み続けることに疲れ果ててしまい、主治医に相談の上、TS-1の服用もやめることにしました。積極的な治療を「諦めた」のです。現在は、骨転移の進行を抑えるためのゾレドロン酸の注射を続けながら、医療用麻薬で痛みをコントロールする緩和ケアが中心の生活を送っています。
公的制度の落とし穴とマレーシアへの移住決意
日本では高額療養費制度など、医療費の負担を軽減する制度があります。しかし、失業保険の受給額が、生活保護の基準額を上回ってしまうため、私はそれ以上の公的な支援を受けることができませんでした。
また、介護保険の制度も、多くは身寄りがいることや65歳以上であることを想定して作られています。私のように50代で日本に身寄りがない場合、利用できるサービスは非常に限定的でした。例えば、通院の付き添いはお願いできても、院内での車椅子介助は「身体介助」にあたるため対象外。重いものを動かしたい時も、保険は使えません。痛む体に鞭打って、自分でやるしかないのです。日本に身寄りがない私にとって、こうした日々の生活の障壁は、精神的にも大きな負担でした。
そんな八方塞がりの状況の中、手を差し伸べてくれたのが息子でした。「それならマレーシアに来ればいいじゃないか」と。
息子の言葉をきっかけに、私はマレーシアでの治療や生活について調べ始めました。以前から仕事で使っていたChatGPTなどのAIを活用し、現地の医療体制や、日本人に対応してくれる病院、日本とマレーシアでの治療薬の違いなどを徹底的にリサーチしました。
マレーシアに行けば、精神的にも肉体的にも経済的にも、息子の援助を受けることができます。何より、身近で支えてくれる家族がいるという安心感は、何物にも代えがたいものでした。仕事がないのは私の方なのだから、キャリアを築いている息子に日本へ帰ってこいというのはあまりに傲慢です。私が行くべきだと思いました。
残された時間をどう生きるか
がんの告知を受けてから、「死」がとても身近なものになりました。怖いと思ったこともあります。しかし、それ以上に考えたのは、残される息子のことです。自分の死後、息子にできるだけ迷惑をかけないように、どんな小さなことでも話し合い、合意の上で決めていくようにしました。
そして、この経験を通して、家族の大切さを改めて痛感しています。かつての私は仕事が楽しくて仕方のない仕事人間でしたが、今一番大切なのは家族です。マレーシアを訪れた時、現地の大家族がみんなで支え合い、助け合って暮らしている光景を目の当たりにしました。血のつながりがなくても、まるで一つの大きな家族のように、温かく私を迎え入れてくれたのです。核家族化が進み、人と人とのつながりが希薄になった日本で、私が感じていた「生きづらさ」の正体がわかったような気がしました。
今、私は「死ぬための生き方」をしています。これは決して悲観的な意味ではありません。人生の最期に「良かったな、ありがとう」と心から言えるように、一日一日を、そして大切な人との時間を慈しんで生きるということです。
息子とは、がんがわかってお互い動転してしまい、けんかをして連絡を取らなくなった時期もありました。それでも、「こっちに来ればいい」と言ってくれた息子には、感謝しかありません。その言葉に、私は素直に甘えることにしました。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
この体験を通して、今、私が皆さんに伝えたいことがあります。
ぜひがん検診を受けてください。
まず、まだお元気な方へのメッセージです。会社の健康診断だけでなく、ぜひがん検診を受けてください。自覚症状がなくても、がんは静かに進行している可能性があります。私自身がそうでした。
家族や友人を大切にしてください。
そして、全ての方へのメッセージです。家族や友人など、あなたを支えてくれる人を大切にしてください。人は一人では生きていけません。大切な人と笑って過ごせる時間こそが、何よりの宝物です。
一人で抱え込まないでください。
どんな小さなことでも、信頼できる人に相談し、気持ちを共有してください。けんかをしてもいいのです。死んでしまったら、もう和解することはできません。
「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えてください。
日本では「人に迷惑をかけるな」と教えられますが、人は誰かに迷惑をかけ、助けられて生きていくものです。助けてくれた人、支えてくれる人に「ありがとう」という感謝を忘れずにいることが、自分自身の力にもなります。
仕事やお金よりも大切なものが、必ずあります。私は今、その大切なもののために、残された時間を使っていきたいと思っています。