写真はイメージです。(AIによる生成)プロフィール
お名前:ベリさん(ニックネーム)
年代:50代
性別:女性
家族構成:夫、娘の三人暮らし
仕事:医療関係(広報)
がんの種類:胆管がん
診断時ステージ:ステージ3B
居住地:福岡県
診断年:2019年
※本体験談は、患者さん個人の経験に基づくものです。治療の経過や副作用、生活への影響には、個人差があります。医療的な判断や治療方針の決定の際には、必ず医師・医療従事者にご相談ください。
全身の痒みと黄疸をきっかけに胆管がんと診断されたベリさん。しかし、困難はそれだけではありませんでした。ほぼ同時期に母親が子宮体がんに、そして心労により父親がうつ病を発症。家族が次々と病を抱えるという状況に直面します。家族や医療者、そしてSNSで出会った仲間たちに支えられながら、この危機をどのように乗り越え、新たなキャリアを歩み始めたのか、詳しくお話をうかがいました。
叔父と重なった黄疸の記憶
がんになるまでは毎年、職場の健康診断は受けていました。ただ、オプションでつけていたのは乳がんと子宮頸がんの検査だけ。お酒もたばこもやらず、自分や周りにがんになった人もいなかったため、腹部エコーなどの検査は受けていませんでした。
異変が起きたのは2019年の春頃、健康診断から半年ほど経った頃です。もともとアトピー持ちなので、季節の変わり目や花粉のせいかと思っていましたが、全身が痒くなりました。その後、お腹が痛くなって病院に行くと「胃腸炎」と診断され、薬を飲むと一度は治まりました。しかし、その1〜2週間後、黄疸ではないかと気が付きました。
その時、私の脳裏をよぎったのは、3週間前に膵臓がんで入院した叔父のことでした。お見舞いに行った際に「病気に気づいたきっかけは?」と尋ねると、「黄疸が出て、おしっこが黄色くなった」と話していました。まさか、と思いましたが、自分の尿も最近黄色いことに気付きました。
胃腸炎と診断されたクリニックを再受診すると、血液検査とエコーの結果を見た先生から、「これは緊急を要する状態です。すぐに大学病院で精密検査を受けてください」と言われました。
家族に次々と襲いかかる病魔
クリニックでそう言われたのは土曜日のことでした。実は、紹介先の大学病院に行くように勧められた月曜日は、私の母が子宮体がんの告知を受け、がんセンターの初診に私が付き添う予定になっていました。
自分の症状をインターネットで検索すると、「胆管がん」「膵臓がん」という言葉が並び、私は「自分もがんだろうな」と直感していました。そこでクリニックの先生に、「母をがんセンターに連れて行く予定なので、私も一緒に行けるようにがんセンターへの紹介状を書いてもらえませんか」とお願いしました。しかし、先生は「あなたの年齢でがんの可能性は極めて低い。エコーに映らない胆石があるだけだと思う」と、近くの大学病院へ行くよう強く勧められました。結局、月曜日は母が一人でがんセンターへ向かい、私は大学病院へ行くことになりました。
大学病院でエコー検査を受けたところ、胆管に腫瘍が見つかりました。その日のうちに入院が決まるかと思いきや、「ベッドが空いていない」とのことで、数日待ちました。入院して黄疸を下げる処置をしてもらい、生検を受けました。麻酔で意識が朦朧とする中、病棟の先生に「やっぱり、がんでしたか?」と尋ねると、「うん、がんやった」と短い返事がありました。
こうして私の闘病が始まりましたが、それは家族全体の闘病の始まりでもありました。私と母のがんを知った父は、心労からうつ病を発症し、精神科に入院することになってしまったのです。
「何かやっとった方がいい」背中を押した2人の医師
その後手術を行い、術後の病理検査の結果、私のステージは3Bと確定しました。問題は、術後の治療をどうするかでした。2019年当時、胆管がんの術後補助化学療法には、まだ確立されたエビデンスがありませんでした。主治医からは「TS-1という抗がん剤があるが、エビデンスはないし、やってもやらなくてもいい」と言われました。
母は抗がん剤治療の副作用でかなりつらそうでしたし、私にはまだ小学生の娘がいました。父も入院中で、私まで動けなくなったら家庭がまわらないので、治療を受けるべきか本当に迷いました。
そんな時に相談したのが、がんセンターにいる母の主治医でした。専門外だと断りながらも、先生は「がんに対しては、何かしらやれることがあるならやった方がいい」と力強く背中を押してくれました。
もう一人、相談したのがアトピーで長年お世話になっていた漢方の先生です。事情を話すと、「抗がん剤、やりなさい。副作用でつらかったり、家のことがまわらなくなったりしたら、その時にやめればいい。とにかくやらないと」と言われ、私の心は決まりました。この二人の医師の言葉がなければ、私は抗がん剤治療に踏み切れなかったかもしれません。
SNSで出会った全国の仲間たち
治療中、心の支えになったのが、子どもを持つがん患者のための支援団体「キャンサーペアレンツ」でした。そこで、同じように小さな子どもを育てながらがんと闘う、全国の仲間たちと出会いました。
当時はコロナ禍の真っ只中。私たちはZoomを使って頻繁におしゃべり会を開き、治療のつらさや子育ての悩みを分かち合いました。生まれも育ちも福岡で、地元以外に友人がいなかった私にとって、がんがきっかけで全国に仲間ができたことは、大きな喜びでした。
また、娘にがんのことをどう伝えるか悩んでいた時、助けになったのは娘の習い事の先生からのアドバイスでした。先生自身も、娘さんが小学生の頃に大病を経験された方でした。「家族みんなで闘わないと、がんは乗り越えられない。お母さんが病気と向き合う姿を見せることは、子どもの成長にとって何よりの教育になる」という言葉は、私に勇気を与えてくれました。
その後、娘から「ママはがんなの?」と聞かれた時、私は正直に話しました。「お腹の中のがんは先生に取ってもらったけど、目に見えないがんをやっつけるために薬を飲んでいるのよ。だから副作用でつらい時もあるけど、心配しないでね」と。娘は、動揺することなく受け入れてくれました。
仕事より「生きること」を優先したキャリアチェンジ
闘病を支えてくれた夫には、感謝しかありません。私の両親の入院手続きから娘の世話、そして私の治療への立ち合いまで、動ける家族が夫しかいない中で、全てを担ってくれました。医療職ではないのに、病理説明の際には専門用語について医師に質問してくれたこともあり、本当に頼りになる存在でした。
罹患前、私は健康食品会社のライターとしてパートで働いていました。診断後は「もう死ぬだろう」と思い、すぐに退職しました。しかし、手術と抗がん剤治療を終えて3年半が経っても、私は意外と元気に過ごしていました。「そろそろ仕事をしよう」と思っていた時、元上司から声をかけてもらい、再就職しました。
ところが、その仕事は非常に忙しく、私は心身ともに疲弊してしまいました。そうした折り、再発疑いで検査に引っかかってしまったのです。「こんなに難しい仕事をしている場合じゃない」と思いました。幸い再発ではありませんでしたが、この出来事を機に、私は再び人生観が変わりました。
給料は良かったのですが、きっぱりと退職し、子育てと両立できる家の近くの仕事を探しました。そこで見つけたのが、健診センターでの受付事務の仕事でした。がんになってから病院には通い続けていたので、医療の仕事の雰囲気はなんとなくわかります。「これなら私にもできるかも」と応募し採用されました。
そして、働き始めてすぐ、その病院の広報のパート募集を見つけました。ライター経験が活かせるかもしれないと思い、上司に相談したところ、異動が認められ、今に至ります。がんになったことで一度はキャリアを手放しましたが、回り道をしたからこそ、今の仕事に出会えたのだと感じています。
がんになって変わったこと
がんになってから、物事の捉え方が変わりました。「死に向かってのカウントダウンは誰にでも始まっている」と思うと、1日1日を大事にしようという気持ちになります。そして、解決しないことでくよくよ悩むのではなく、事実だけを見て、やるべきことを淡々とやる。もし物事に意味づけをするなら、前向きな意味づけしかしない。そんな風に考えるようになりました。
これからがんと向き合う方へのメッセージ
私の経験から、今がんと向き合っている方にお伝えしたいことが2つあります。
「元気なサバイバーがいる」ことを知ってほしいです。
私が闘病していた時、SNSで必死に元気な人を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。胆管がんステージ3Bと診断された私が、手術から6年経った今、テニスを楽しみ、元気に働いています。希望を捨てないでください。
「休む勇気」を持ってほしいです。
「がんと仕事の両立」が推奨される風潮がありますが、がんの種類やステージ、治療法は人それぞれです。特に私のように大きな手術をした場合、心と体を回復させるには時間が必要です。焦りや周りの目から無理をして働き続けるのではなく、一度全てを手放してゼロになり、しっかりと休むことも大切な選択肢の1つだと私は思います。気力を十分に蓄えなければ、次に来るチャンスの波には乗れません。
がんとの向き合い方は1つではありません。どうか、ご自身の心と体の声に耳を傾け、自分に合ったペースで、一歩ずつ前に進んでいってください。